カテゴリー:歴史

「 命を賭して先人が守った祖国 思いを受けるに足る私たちか 」

『週刊ダイヤモンド』   2010年8月14・21日合併号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 850




1944年12月16日、レイテ島西方海域で河野宗爾陸軍伍長は戦死した。僧職にあった23歳のこの若者は、こんなふうに遺書を書き出している。

「御面会も出来ず、出発すること、何だか淋しい気持ちです」

だがすぐに気を取り直して、「ニッコリ笑って戦友に見送られて行きます」と筆を継いだ。

戦地に向かう青年はさらに綴る。

「生還を期せずして出て征くにあたり、心から今までの御高恩を謝し、母上四十年間のご苦労に何等お報ひ出来なかつた事を深くお詫び申上げます。

今お別れするに当り唯一の頼みは、どうか長生きせられて、私の遺骨はお母さんの胸に抱かれて無言の凱旋をすることが、私の願ひであります。決して生きて還ると言ふ様なことは思つて下さいますな。それ程今の日本は急迫してゐるのです」

海軍軍属の石田正夫氏も44年8月8日、グアム島で戦死した。37歳の氏は、わが子の夢を見て、子どもに「強く生きてほしい」と書き残した。

内地の様子がわからないなかで、彼は自分の気持ちをこう書いた。

「毎日、情勢の急迫を申し渡されるばかり。自分達はすでに死を覚悟して来てゐる。万策つきれば、いさぎよく死なう。

本月の○日頃が、また危険との事である。若し玉砕してその事によつて祖国の人達が少しでも生を楽しむ事が出来れば、母国の国威が少しでも強く輝く事が出来ればと切に祈るのみ。

遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。

なつかしい遠い母国の若き女達よ、清く美しく健康であれ」。

あるいは45年5月11日、南西諸島方面で戦死した特攻隊の海軍少佐、西田高光氏は「総ての人よさらば、後を頼む」と絶筆を残した。23歳の匂い立つ若き命だった。

このようにして、幾百万の人びとが戦死した。苦しい戦いのなか、あるいは極限状況の下、彼らを支えたのは家族と祖国への哀切なる愛と責任感だった。遺骨となって母の胸に還(かえ)りたいと望みつつ、後に続く人びとに後事を託しつつ、命に代えて彼らが守ろうとしたのはまぎれもなく、祖国であり、祖国に抱かれるすべての同朋だった。

けれど今、私たちはこうした先人の思いを受けるに足る日本人だろうか。

河野伍長や西田少佐と同年の23歳の下村早苗容疑者は、3歳と1歳の子どもを放置して死なせた。金色の髪とパッチリした目で写真に収まる彼女は遊ぶ時間が欲しくて子どもを放置した、遊び場はホストクラブだと供述した。収入は風俗店で働いて得たそうだ。

子どもの背中にライター用の油をかけ、火をつけて大やけどを負わせた父親、倉岡稔容疑者は、42歳で無職だった。連行される姿の、輝く金色に染めた髪とネックレスが印象に残る。

他方、足立区では、111歳で日本一の長寿男性のはずの加藤宗現さんが約30年も前に死亡していたと判明した。しかも加藤さんの家族は白骨化したご遺体を放置し、家族が管理する通帳からは年金が引き出されていた。

杉並区では、これまた都内最高齢の113歳のはずの古谷ふささんが、四半世紀も前から消息不明であることが判明した。80歳近い長女の下には弟妹がいる。しかし、彼らはこの四半世紀、互いに、母であるふささんについて語り合ったことはないそうだ。

どう考えても、私たちの時代のこの日本は狂っている。戦後教育は完全に失敗し、私たちはどこかで生き方を間違えたのだ。今の日本人に必要なのは、一にも二にも、基本的な道徳倫理である。日教組や社民党に引きずられ、日本のよき伝統であった道徳や倫理を蔑ろにする教育を根本から改める必要がある。個人の権利と自由は十二分に強調されてきた。今は、家族をはじめ他者への思いを育む人間教育へと、価値観の一大転換を目指すべきだ。


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「 台湾窮地・中国の横暴を警戒せよ 」

『週刊新潮』 2010年8月12・19日合併号
日本ルネッサンス 第423回



今から28年前、中国人民解放軍の海軍提督、劉華清が大戦略を立案した。そこには幾段階かの具体的目標が掲げられており、第4段階の目標は2040年までに西太平洋とインド洋から米海軍を排除し、同海域に中国の覇権を確立するというものだ。

米国を排除して創り出すのは大中華圏だ。が、その幕明けは台湾併合なしには始まらない。台湾の置かれている地理的条件は、中国がそれを制した場合、南シナ海、東シナ海は無論のこと、彼らの長期戦略目標である西太平洋及びインド洋における覇権を手にする第一歩となる。日米及びアジア諸国の視点に立てば、中国に排除され、従属さえ強いられかねない時代への第一歩が、中国の台湾併合だといえる。

戦略的に重要な位置を占める台湾の現状は極めて脆弱だ。輸出の40%は中国向けで、企業の70%が中国に投資をしている。多少の変動はあるが中国大陸で働く台湾人は150万人規模に上る。経済的に中国に深く組み込まれているのだ。

中国は軍事的併合よりも、より現実的な篭絡の道として経済や人間の交流の深化の道を選び、それが成功しているのだ。

6月29日に結ばれた中台経済協力枠組み協定(ECFA)はその一例だ。協定は中台貿易において中国が539品目の関税を撤廃し、台湾は267品目を撤廃するという内容で、一見、台湾有利である。

しかし、これこそ中国の深謀遠慮、台湾吸引の甘いエサである。そもそも、両国が通常の国同士が結ぶ自由貿易協定(FTA)ではなく、ECFAに落ち着いたのは、中国が台湾を国と認めず、中国の一地方政府と位置づけた結果である。台湾との協定は、国内協定の扱いなのだ。

中国にとって関税面では大幅譲歩だが、それだけに台湾は貿易に励み、経済の一体化はさらに進むだろう。たとえ、将来、野党で台湾の独立を支持する政党である民進党が政権を奪還したとしても、経済的な一体化が進めば、後戻りは不可能だ。


台湾の危機は日本の危機


中国は79年以来、台湾に「三通」(通商、通航、通信の直接交流)を呼びかけてきた。いまや、中台間に三通を妨げる壁はほぼなくなり、人民元と台湾ドルの交換も解禁された。

加えて中国の人民元は、そのマネー総量が米国を100兆円も上回り、世界一の規模になった。人民元の国際通貨化への流れが加速する中で、台湾経済はいよいよ中国経済に組み込まれていく。

経済の次は文化である。驚くことに、中台両国で中国語辞典の共同編纂も始まることになった。今年7月10日に明らかになった同決定は、文化、教育、メディア交流を制度化することで、中台相互の意識格差を縮小、解消し、中台一体化をさらに進めようという試みの第一段階と位置づけられている。この先には、当然、最終段階としての、統一に向けた政治交渉が待ち受けている。

このような中台関係の緊密化にも拘わらず、中国は押さえるべきところは厳然と押さえている。最終局面で台湾に否と言わせないだけの軍事的包囲網を完成させつつあるのだ。冒頭で触れた西太平洋とインド洋から米海軍を排除するという戦略目標に加えて、台湾に照準を合わせたミサイルは、台湾国防部の報告では今年末には2,000基に達する。中国は、台湾が独立を唱える場合、軍事力を行使すると長年言い続けて今日に至るが、その準備はいつでも整っているということを、ミサイルのみならず、大型軍艦51隻、潜水艦43隻などの年内配備によって誇示しているのだ。

軍事力の行使を中国がためらうとすれば、米国の反発、反撃の可能性ゆえであろう。そこで台湾問題で米国に中国を抑止する意思と力はあるかを問わなければならない。この点について米国の保守系シンクタンク、ランド研究所は、「2020年までに、米国は中国の攻撃の前で台湾を防衛しきれなくなる」と分析した。

同研究所は、米国が台湾防衛の意思をもって第5艦隊と第7艦隊を投入し、第五世代戦闘機であるF-22を飛ばすとしても、また、沖縄の嘉手納空軍基地を使用できるとしても、中国軍は米軍を打ち負かすだろうと分析したのである。

まさに日本にとって他人事ではない。これこそ、日本の問題でもある。米国とても、一国の力では台湾は守り得ない。ならば、台湾を守るべき立場の国々が力を合わせることで、自国の国益をも守る体制を作っていかなければならない。

再度強調すべきは、台湾の危機は日本の危機だという点だ。アジア、太平洋の地政学を考えるとき、台湾は紛れもなく、日本の命運を決する国のひとつである。地政学や安全保障上の重要性に加えて、日本人には歴史的に台湾への強い思い入れがある。民族としての記憶や思い入れは、国の展望を決するに当たってのひとつの無視し得ない判断材料である。


政治的に台湾の側に立つ


それにしても、台湾を領有していた日本の敗戦後も、なぜ、台湾は中国に奪われずに済んだのか。台湾海峡はなぜ、中国の内海にならずに済んだのか。中国共産党との戦いに敗れながらも国民党は如何にして台湾を守り得たのか。

こうした一連の問いへの答えとして一人の日本人の存在が浮かび上がる。歴史に埋もれ、語られることもなかったその人物、旧帝国陸軍の根本博中将の足跡を辿ったのが、『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(門田隆将 集英社)である。

門田氏は、蒋介石総統への強い思い入れに突き動かされ、命を賭して国民党軍を助けた根本中将の物語を発掘し、幾筋もの糸によって結ばれた日本と台湾の姿を描き出した。国民党政府が日本を貶めるためにどれほどの謀略を図ったかがかなり明らかになっている現在、根本中将の余りにも一本気な蒋介石観を批判するのは容易い。しかし、当時の日本の多くの軍人も政治家も、同じような想いを抱いていた。大事なことは、その純な想いと誠実さが一人の日本の軍人を奮い立たせ、金門島以東の現在の台湾を守り切ることが出来たということだ。

結果、戦後の日本は台湾海峡を自由に航行し、日本全体がその恩恵に浴した。一軍人の命を賭けた無私の行為が、日本の繁栄を支えるひとつの要素となったのだ。

さて、「この命、……」を読みながら考えるのは、いま再び、日本は台湾に最大限、手を貸さなければならないということだ。まず、台湾が台湾でなくなるところまで中国に吸引され尽す前に、日本は台湾とのFTAを結ぶことだ。次に、常に政治的に台湾の側に立つことだ。さらに、台湾を支える安全保障上の最大限の協力を試みることである。

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「 国益の『嘘』と私益の『嘘』 」

『週刊新潮』 2010年4月8日号
日本ルネッサンス 第406回



鳩山由紀夫首相は、ひょっとして、“病気”なのではないか。こんな言い方は首相でなくとも誰に対しても失礼なことだと承知してはいるが、普天間飛行場移設問題に関する首相発言の変遷は、それほど異常である。

首相は3月29日夜、こう語った。

「今月中じゃなきゃならないということは法的に決まっているわけじゃない」

国民は皆、3月末までの移設先決定を定めた法律などないことは承知している。「3月末」は法律ではなく、首相自身が繰り返した「公約」だったと、皆が知っている。事実、首相は以下のように語ってきた。

・「沖縄の皆様方にも、アメリカにも理解をいただけるそういった案を3月の間に、政府として考えをまとめたい」(3月5、参議院予算委員会)

・「3月いっぱいにはまとめる。それは約束する」(3月24日、記者団に)

・「3月いっぱいを目処に政府案をまとめる努力をしている」(3月26日、記者会見)

このように複数回、首相自身が繰り返してきた言葉をすっかり忘れたかのように、29日になって、「そんな法律はない」と言うのである。首相の頭の中の回路はどのように混線しているのか、知りたいと思うのは私だけではあるまい。

この種の「真っ赤な嘘」の繰り返しが首相迷走の実態である。何度経験しても、私は首相の「嘘」に馴染めない。とりわけ、国民と同盟国に向かって嘘をついているという些かの自責の念も感じさせないツルリとした表情を正視するのは耐え難い。そして世の中には二種類の嘘があると実感する。

政権交代を目に見える形で示したいと強く希望する岡田克也外相の肝煎りで、日米間の「核密約」問題の調査が進められた。有識者委員会は対象を4つの密約に絞って検証を進めた。①核を積んだ米艦船の一時寄港、②朝鮮半島有事の際の在日米軍基地からの作戦行動、③有事における沖縄への核の再持ち込み、④沖縄基地返還に伴う費用の肩代わりだ。

有識者委員会は①の密約はあった、②は事実上失効した、③は密約とはいえない、④は狭義の密約には当たらないと結論づけた。


必要な密約


外相は検証結果を「追認」したものの、不満気だった。日米外交が、全詳細を白日の下に晒しても一片の嘘も交えていなかったと言えるだけの「正直」な外交ではなかったためであろうか。しかし、そんな真っ白の外交は現実にはあり得ないと、国民の方は実感しているだろう。

たとえば、①について、日米両政府の事前協議がなかったからといって、全ての米艦船が核を積んでいなかったと信じてきた日本国民はそうはいないだろう。74年にはラロック退役海軍少将が、81年にはライシャワー元駐日大使が証言して、米艦船の核持ち込みが大ニュースとなった。以来、多くの日本国民は核持ち込みを公然の秘密と見做してきた。

有識者委員会はこの点の従来の政府説明を「嘘を含む不正直」な説明としながらも、「冷戦下における核抑止戦略の実態と日本国民の反核感情の調整は容易ではなかったという事情を考慮すべき」と指摘した。

外交交渉の議事録などを、30年なら30年と区切って、一定期間が経過した後に公表することには私は大賛成だ。日本外交がどのように展開されたのか、相手国の戦略はどうだったのかを具体的に知ることは、日本の外交にとって重要な指針となるはずだ。密約の検証も、その時代背景の中に身を置いて学びの材料とするのであれば非常に有益であろう。

しかし、岡田外相の姿勢は、基本的に後ろ向きで、過去の「密約」の暴露に大きな関心を寄せている。たとえば③の有事の際の核持ち込みについて、有識者委員会が密約とは認めなかった点について、「常識からみると、これこそ密約ではないか」と、歴代政権を批判した。

外相を擁護すれば、氏が「私は岸信介首相、佐藤栄作首相の立場であれば、こういうもの(密約)なしにできたか自信を持てない」とも、述べていることだ。

全て歴史を考えるとき、現在の価値観に基づいて判断するのでなく、その時代に立ち戻って考える姿勢こそ、重要である。60年の安保改定から72年の沖縄返還、さらにその後も、日本には社会党を主勢力とする厳しい反核・反日米安保の世論が満ちていた。ソ連は社会主義陣営の盟主として深刻な脅威を及ぼしていたし、返還前、日中間には国交もなかった。

こうした状況下で、日本に寄港する米艦船に核搭載を拒否することは、日本の安全保障を危うくしたはずだ。また、そのような条件で沖縄返還を要求することは不可能だっただろう。

沖縄県民を含む国民の悲願だった沖縄返還を実現するには、必要な密約だったといえる。


首相の「嘘」は日本の悲劇


佐藤首相の密使として密約交渉に当たった若泉敬氏は、交渉の全容を記した著書に、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』という題をつけた。核抜き本土並みという看板の背後で密約を交わし、核持ち込みを許した、国民に「嘘」をついた、沖縄県民に過度な基地集中による負担をかけることになったと、自らを責めながら、それでも当時の厳しい情勢下では「他に手はなかった」と悲痛な思いを吐露しているのである。

同書に紹介されている秘話のひとつに、沖縄返還は米国側からの提案だったというライシャワー元大使の証言がある。日本に赴任した61年以来、元大使は、100万もの日本人を米国軍政下に置き続けることの難しさを認識し、「本土並み」の条件での返還を米国政府に提言したというのだ。

大使を辞任した66年に、国防総省と国務省の合同委員会が設置され、沖縄返還問題が検討され始めたという。佐藤首相は当初、米国に沖縄返還を要求するのに非常に慎重だったとも、記されている。

返還交渉の複雑さを描いた若泉氏は、『他策……』を世に問うた2年後の96年7月に死亡した。今年3月11日の「朝日新聞」は、氏が覚悟のうえの服毒自殺を図っていたと報じた。

自決しなければならない理由は、到底、第三者にはわからない。ただ、沖縄返還当時、米紙東京支局の助手として度々お会いしたその常に真摯な姿勢を思い起こし、氏の冥福を改めて祈るものだ。

氏の交わした「密約」は、検証結果で「嘘」と罵られようとも、それは国家国民のための策だった。公の利益、国益のための「嘘」である。ところが鳩山首相の嘘は、自らの失敗を覆いかくし、失言を取り繕うための「嘘」である。利他と国益の「嘘」、利己と私益の「嘘」。この二つの内、許し難いのは言うまでもなく鳩山首相の「嘘」である。私はそれが日本の悲劇だと思う。

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「 党内民主主義の死か、別姓法案 」

『週刊新潮』 2010年3月11日号
日本ルネッサンス 第402回




鳩山由紀夫首相の後押しで、夫婦別姓法案が閣議決定されそうな状況が生まれている。以前から夫婦別姓法の確立に意欲を示してきた千葉景子法相は、民主党政権が実現した現在を好機ととらえ、作業を急いできたと思われる。鳩山内閣の支持率が下がる中、千葉氏が動きを加速させ、それを鳩山首相が「基本的に賛成だ」(2月16日)との発言で応援しているのが現在の状況である。

周知のように、もはや民主党内では自由な議論の場は存在しない。部門会議は廃止、議員立法は禁止、政策立案は全て政府が行う。自由な議論なしには民主主義は成り立たない。だが、表向き議会制民主主義の旗を掲げる小沢一郎幹事長も、小沢氏に従う首相も、自らの政治姿勢と現実のギャップなど、一向気にしない。

そんな状況下、わずかに用意された議論の場が省毎の政策会議だ。大臣、副大臣、政務官の三役で省の政策を決定し、閣議に持ち込んで閣議決定して国会に提出するのだが、その前段階で、副大臣主催の政策会議が開かれる。与党議員は参加して意見を表明することが許されている。

法務省は2月23日、翌日の政策会議は民法改正、つまり夫婦別姓法案が議題だと通知した。直前の発表自体、出来るだけ党内議論を回避したいと考えてのことか。しかも、24日の政策会議では加藤公一副大臣らが法案の説明をしただけで、議員による自由な意見交換はなかったそうだ(『産経新聞』2月25日)。仮にこのまま法案が決定され、前述のプロセスで国会に提出されれば、民主党の民主主義は死んだに等しいのである。

千葉法相が準備させた法案の骨子は、①夫婦は結婚に際して別姓か同姓を決定する、②決定後の変更は認めない、③子供の姓は夫婦いずれかの姓に統一する、である。

法案が成立すると、一体どんな影響が出てくるのか。また、この法案は日本の社会を構成する基本的価値観とどのように整合するのか。


社会の基本は家族

まず、日本社会全体への影響である。いま日本の社会を見渡すと、本当に多くの問題があることに気がつく。子供たちが親を殺害したり、安易に犯罪に走ったり、本来、優しい視線を注ぐべき弱者を苛めたり、そして何よりも自分自身の価値に気づくことなく、人生を投げやりな気持で浪費しているかのような若者も少なくない。頻繁に見られるこうした現象の背景に、家庭や家族の崩壊があると、私は感じている。それだけが原因ではないだろうが、ひとつの大きな原因だと思う。

その意味で、私たちはいま、家庭や家族の重要性に思いを致し、家族の絆や相互理解を深める努力をこそ重ねるべきである。夫婦も家族もバラバラにしそうな夫婦別姓の思想は、明らかにそれとは逆行する。

この問題に詳しい日本大学教授の百地章氏は、夫婦別姓が、家庭の崩壊と家族の絆の消失につながりかねないとして、次のように語った。

「千葉法相も福島瑞穂氏も、現行憲法の信奉者ですが、日本国憲法を作らせたマッカーサーでさえ、家族、家庭を社会の基礎として大事にしていたのです。現行憲法の作成過程を見ると、そのことがよくわかります。第二次試案に家庭と婚姻について定める条文が置かれ、『家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、法の保護を受ける』と規定されていました。結婚、家庭、家族を大切なものと考える同条文は、現行憲法には必ずしもそのまま残ってはいませんが、それは、あまりにも当然のことなので書き入れなくてもよいと考えてのことでした。家庭や家族を否定したわけではないのです」

世界人権宣言にも「家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位であって、社会及び国の保護を受ける権利を有する」(第一六条3項)と、規定されている。社会の基本は家族であり、個人ではないという認識は、国際社会共通のものだと百地氏は強調する。

このことをもう少し踏み込んで言えば、家族を家族として成立させる最低限の道徳や価値観を、施策を講じて守る努力が、国に求められているということでもあろう。

夫婦別姓の当然の帰結が親子別姓である。その場合、子供の側に生ずると予想される不安や不利益、一体感の喪失をどのように補ってやれるのか。親の愛に包まれ、保護を受け、絶対的な安心感の中で育てられるべき子供の立場から家族を見る発想が、別姓法案には欠けている。

一人一人を家族の一員としてよりも、個人と見做す別姓制度が2代、3代と続けば、家族の連続性が見失われる事態が起きてくる。百地氏は次のように警告する。

「たとえば、片方とはいえ親と別姓の子供は、おじいさんやおばあさんとも別姓になる確率が高くなります。家族が別々の姓で暮らす中で、祖先の祭祀やお墓の維持は、ますます、蔑ろにされていくでしょう」


『楽しくやろう夫婦別姓』


祖先を大事にし、お墓を守っていくことは日本人の価値観の基本である。しかし、問題はこの基本部分が崩壊しつつあることだ。だからこそ、別姓問題も起きてくる。現に福島氏を含む共著『楽しくやろう夫婦別姓』(明石書店)はこう書いている。

「日本のお墓はめったやたらと暗い。(中略)それは、墓石の黒さだけによるのでなく、お墓の中に、序列・競争心・権威がプンプンただようからだ」と書き、その「きわめつけは、『○○家の墓』という、あの家を誇示する表示」と断じている。

氏らは、日本のお墓をハワイの墓地、パンチボールと較べて書く。

「『これがお墓?』というくらい、明るく美しい。思わずねころんでみたくなるような、一面のみどりの芝生」

福島氏らは、パンチボールを、「太平洋国立墓地」と解説しているが、実はここは軍人たちとその家族の墓である。日米が戦った第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで戦死した軍人のみならず、それらの戦争で戦い、兵役を無事に務めた元軍人らが眠る墓所なのだ。

私はハワイ州立大学で学んだが、恩師の一人は第二次世界大戦で日本と戦い、現在、90歳近いお年である。恩師は、自分が永遠に眠る場所はパンチボールしかなく、先に逝った妻はもうそこで僕を待っていてくれると語る。福島氏が靖国神社に参拝したとは寡聞にして知らないが、戦争や軍事を殊の外嫌う人物が、ハワイの軍人たちの墓であるパンチボールを「明るく美しい」と絶賛し、「ねころんでみたい」というのである。

戦争、歴史、一切の価値観に関して、日本を悪し様に考える思想が、夫婦別姓推進の背骨になっていると言えば言いすぎであろうか。そんな背景を考えれば、別姓法案には、尚更、賛成出来ないのだ。


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「 日本固有の文化文明を壊す『夫婦別姓法案』に反対 」

『週刊ダイヤモンド』   2010年2月13日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 825



民主党の小沢一郎幹事長らの強い指導で推進されているのが外国人参政権法案である。これは民主党の政策集「INDEX 2009」には書き込まれていたが、選挙に際して掲げられたマニフェストからは削除された。同法案の問題点についての国民の理解は進み、危機感も強まっているが、その陰であまり注目されていないのが夫婦別姓法案である。

夫婦別姓法案も、民主党政策集に記載されているが、マニフェストには載っていない。双方共に、日本社会に深刻な負の影響をもたらすと思われ、それだけに有権者の反発を買い選挙には不利だとして、マニフェストに盛り込むのが見送られた経緯がある。

民主党の夫婦別姓法案では夫婦は別姓、子どもは父母どちらかの姓になる、複数の子どもがいる場合、子どもの姓は、父母どちらかの姓に統一するという内容だそうだ。ただし、従来の民主党法案は、子どもごとに父母どちらかの姓を選択することになっていた。

なぜ、こんな法案が生まれてくるのか。夫婦別姓を是とする人びとのなかに、女性の自立や人格の尊重を理由とする人は少なくない。仕事を続けるとき結婚によって姓が変わるのは、通常、姓が変わらない男性に比べて不公平で女性の権利の侵害だとする声もある。

後者については、現在も許されている「通称」で解決する問題ではないか。結婚後も旧姓で仕事を続けることは可能で、その実例も少なくない。

前者の理由についても、歴史を振り返り、他国の例を見れば、姓が変わることをもって「女性の自立や人格」が損なわれるという考えが的はずれであることがわかる。

韓国では、結婚後も女性は旧姓を名乗る。女性運動が華やかだった1960~70年代に、韓国の事例は女性蔑視の例として語られたものだ。差別するがゆえに、夫と同じ姓を名乗らせず、族譜(家系図)にも載せないのだといわれた。

その説明の正否は、ここでの重要事ではない。重要なのは、韓国の場合も含めて、すべての国の家族制度のあり方は、その国の文化文明、価値観を反映しているということだ。日本には日本の家族制度があり、それは私たちの文化文明であり、先人たちが長い期間をかけて築き上げた価値観だ。

では、日本の女性たちは自立もできず、人格も尊重されずに生きてきたのか。答えは否であろう。日本の女性たちが、同時代の欧米の女性たちに比べてどれほど力を持っていたかについて、多くの人びとが書き残している。渡辺京二氏の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)には外国人が見た日本の女性の生き生きとした姿が多出する。長岡藩の城代家老の娘、杉本鉞子の『武士の娘』(ちくま文庫)には、日本の女性たちが手にしていた現実生活における力の程が描写されている。

そしてもう一冊、磯田道史氏の『武士の家計簿』(新潮新書)には、武士の家庭における俸禄(給料)の配分の実例が示されている。おカネの配分はすなわち力の配分である。

それによると、一家内での女性の取り分は驚くほど多い。俸禄を稼いでくる本人よりも妻や母、祖母のお小づかいのほうがはるかに多いのだ。前述の鉞子は、妻は銀行家でもあると書いたが、女性が家の経済を差配したということだ。このような日本の社会の実態を見れば、民主党の夫婦別姓法案の必要性や根拠は揺らぐ。

同法案の源をたどれば、その考えは戦後の占領政策の下で行われた徹底的な家制度の破壊に行き着く。現在、私たちが直面する多くの問題が家庭の破壊に端を発するという側面を持つのは周知だ。今必要なのはよい家庭を築く努力を社会ぐるみで行うことであり、さらなる家庭の崩壊と社会基盤の液状化をもたらす夫婦別姓を推進することではないのである。

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「 おかしいぞ、小沢氏の対米観 」

『週刊新潮』 2009年12月31日・2010年1月7日合併号
日本ルネッサンス 第393回



民主党の小沢一郎幹事長が絶対的権力者の風貌を見せている。政府の要職にあるわけでもないが、氏は事実上、日本国の政治を動かしている。内政・外交において氏の声はまさしく天の声としての力を発揮する。

強大な力をもつ氏の、2009年12月の韓国での発言には、外国人参政権問題をはじめ、受け入れ難いものが多かった。それらの点については、すでに論じられているが、私は、氏の発言のうち、余り目立ちはしないが、日本の外交政策を左右しかねない重要な要素として、氏が語った対米観に注目したい。ソウル国民大学での講演でこう語っている。

「私はアメリカ人は好きなんですけれども、ややもすると、割合、単純でしてね」「その中でたとえば、(中略)ニクソンさんは、大変な、私はいい政治家だと思っています」

「単純」な国民だと、米国人を卑しめる一方で、ニクソンを「いい政治家」と語る小沢氏の対米観は明らかに間違っている。

米国人は率直ではあっても、決して単純ではない。いわんや国際政治における米国人の考えには、こちらの肝胆を寒からしめる奥深さがある。日米関係の歴史を遡れば遡るほど、そのことは明らかだ。国際政治や安全保障について、これほど洞察鋭い戦略を考え、実行する国は多くはない。米国人の戦略の奥深さと、日本政府の戦略の欠如の余りの対比に、私は脱力感さえ抱く。

古くは1921年、ワシントン会議で、米国は日英同盟を破棄させた。それは、1905年、ロシアとの戦争に勝った日本を米国の将来の敵と見て、日本の力を殺ぐために米国が準備した戦略だった。

アジア進出を考えていた米国は、将来日本と対立し、戦うときがくると見ていた。そのとき、当時の世界最強の国家であった英国と日本が同盟関係を結んでいては、米国にとって厄介だ。中国への肩入れと日本への憎しみが加わって、日英同盟を破棄させ、英国と日本を切り離さなければならないと目論んだ。企みに気が付かなかったのは日本だけだった。


単純なのは日本



同会議で日本は米・英の各5に対して3という艦艇の保有比率を呑まされ、そのうえ、中国の現状維持を守ると合意させられた。欧米列強が中国においてすでに勝ちとっていた特権や領土をそのままにして、日本の新たな中国本土への進出を禁ずるということだ。この後、日本の孤立は決定的となり、歴史が示すように日本は戦争への道を歩み始めた。

日本を敵と見て、日本の孤立化をはかったにも拘らず、米国は日本に対して友好的に快活に、さらに紳士的に振舞い、中国などともはかりながら練り上げてきた「日本外し」の計画を日本に気取らせないよう、万全の準備で臨んだ。笑顔で背中から斬りつけるかのような戦術は、見事に成功した。日本は自らの陥った危機的状況に対して、まったく危機感を抱かなかった。自らが標的になっていることにさえ気付かなかった。

米国も英国も、単純どころではない。単純なのは日本である。

さて、小沢氏はニクソンを「いい政治家」と語ってもいる。どういう意味か。ニクソンは日本をいわゆるニクソンショックに突きおとした大統領だ。1971年7月15日、電撃的に中国訪問を発表した。中国敵視をやめて、味方として取り込む関与政策に華々しく踏み切り、米国のアジア政策を根本的に転換した。そして、日本の重要性は相対的に低められていった。

米国の国益を睨んで決断したニクソンの力量と戦略性に深い敬意を抱くのは自然かもしれないが、日本の国益の観点に立てば、ニクソンを「いい政治家」として持ち上げるのは不適切だ。小沢氏の「いい政治家」という表現は、恐らく氏の語彙の乏しさから出たもので、「優れた政治家」の意味でもあろうか。であるなら、小沢氏はニクソン外交そのものをどう見ているのだろうか。

ニクソンの外交は、国益のためには敵とさえも手を結ぶ現実主義外交である。国際政治は、夢や理想や価値観ではなく、現実の力で動くという信念がニクソン外交の基盤である。敵の片割れだった中国と手を結び、ソ連を包囲したニクソン、その流れをくむ米国の共和党外交は、やがてレーガン・ブッシュの時代にソ連を追い詰め、崩壊させた。このように、ニクソンの戦略は冷戦における米国の勝利と、ソ連の敗北への呼び水となった。この対中関与政策は、いまも米国のアジア外交の基調である。

ニクソンを評価するなら、その現実主義を見習うのではないかと、普通は思う。しかし、小沢氏は、そして氏が影響力を行使する民主党は、現実主義外交には向かおうとしない。


日米安保葬送の年



ちなみに小沢氏は、英国首相だったサッチャーを、「大変なリーダー」と評価する一方で、「あまり好きにはなれない」と退け、鄧小平については言葉少なく、「非常に感銘を受けた」と語っている。

政治家の資質という点でいえば、両氏ともに炯眼の士だ。国際政治の現実の細部が示す意味を見逃さず、大きな戦略を考え出す能力において、いずれ劣らぬ逸材である。

だが、小沢氏はサッチャーは好きになれないが、鄧小平には感銘を受けたという。ひょっとして小沢氏は、自由や民主主義をそれほど大切な価値観だとは考えていないのではないか。だからこそ、社会主義的体質に陥り国民が働く意欲もなくしていた英国を立ち直らせ、強い民主主義の国としての英国を再建したサッチャーは「好きになれ」ないが、同じく強力な国家の土台をつくったけれど、自由も民主主義も置き去りにして強い統制で国民を締め上げ続けた鄧小平に「感銘を受け」るのではないか。

改定から50年という節目の年の2010年、日米安保は、祝賀祭典どころか葬送の年を迎えるとさえ、言われ始めている。普天間飛行場の移転問題をはじめとする日米間の懸案事項への対処の仕方は、紛れもなく鳩山政権の米国離れ願望を示す。そして明らかに、日本は米中の狭間でいよいよ存在感を失いつつある。

かつて、「単純な」日本の指導者は、ワシントン会議で謀られ、孤立へと追いやられたことに気付かなかった。いま小沢氏や鳩山由紀夫首相らは、米中接近の中であのときと同じように日本が孤立へと追いやられつつあることに気付いているだろうか。気付いているに違いない。にも拘らず、異常なほどの米国離れに邁進するのはなぜだろうか。小沢、鳩山、岡田克也各氏が米国に抜き差しならない不信感を抱き、中国に不合理なほどの信頼を寄せているからである。つまり、現執行部の下の民主党がその実態において、社会主義政権そのものだからである。日本をそんな政党に任せておいてよいとは、私は断じて思わない。

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「 米海軍・コリアン漁師拉致事件 」

『週刊新潮』 2009年12月10日号
日本ルネッサンス 第390回



もうすぐ12月8日が巡って来る。68年前のその日の日本軍による真珠湾攻撃は、すでに険しくなっていた米国白人社会の日系人に対する視線を一層険悪なものにした。やがて日系人は敵国日本と通ずる危険性があると見做され、カリフォルニアやハワイで強制的に収容された。収容所には日系人に加えてドイツ軍やイタリア軍の捕虜、それに多くの朝鮮半島出身者が収容されていたという。

朝鮮人捕虜の実態はこれまで殆ど知られていなかった。それを明らかにしたのは、ハワイ州立大学コリア研究センターの崔永浩(チェ・ヨンホ)教授である。

今年4月21日に発表した「ハワイにおける第二次世界大戦時朝鮮人捕虜」と題した崔教授の論文によると、2,700名もが捕虜となっており、43年末から44年初め頃に収容され始めたことがわかる。彼らはいずれも非戦闘員で、彼らを収容するために日系人とは別棟の建物を造ったと、ホノウリウリ収容所の資料に書かれているという。

朝鮮人捕虜の中には、日本軍から脱走して苦難の旅を経て捕虜となり、OSS(戦略事務局・CIAの前身)で働き、日本関係の情報分析に当たった3人の学生もまじっていた。やがて彼らはホノウリウリの捕虜問題を暴く働きもすることになった。彼らが暴いた捕虜問題の中に、気の毒な運命を辿った3人の漁民の事例が登場する。

3人の漁民は日本軍が力を失いつつあった1945年に、米海軍に拉致されたというのだ。3人は如何にして拉致されたか。崔教授は以下のように描写している。

45年4月6日、米海軍潜水艦「ティランテ」号は、慶尚道の港・三千浦(サムチョンポ)近くの静かな海に浮上した。多くの漁船が忙しそうに引網漁に専念している中、突然、ティランテ号が数ある漁船の中の比較的大型の漁船を目がけて攻撃を始めた。彼らの目的は日本軍が投錨・使用している可能性のある港湾関係の情報を得るために漁民を捕え、米国に連行し、尋問することだった。


漁民をハワイに連行


崔教授は作戦がどのように遂行されたかを、ティランテ号の当日の航海日誌を引用して描写している。

[1918](午後7時18分、以下同)浮上。大き目の2本マストの帆船追跡。

[1930]横付け難行。標的船協力せず。40ミリ砲発射。帆、大破。30口径機関銃攻撃で帆の動索大破、標的船は帆を降ろす。

[1949]横付けす。わが船体巨大なり。E・ピーボディ大尉、H・W・スペンス水兵の2名、威嚇的、完全武装で標的船に乗り移る。大声で叫びつつ、機関銃を乱射。恐怖で完全に打ちのめされ、泣き続ける漁民3名を確保。

こうして彼らは米海軍の潜水艦に移され、ハワイに連行された。崔教授は書いている。

「米海軍による3人の漁民拉致は、それが戦争中であったという時代背景を考慮に入れても我々の常識とモラルの許す限界をはるかに超えた狂気に満ちた許し難い行為である」

崔教授は、これを北朝鮮による日本人拉致と比較して、米国政府も同様の許し難い蛮行を犯したと、論難する。そのうえで「時間はすぎたが、米国政府及び海軍は正式の謝罪をし、3人の漁民の家族への経済的補償を行うべきだ」と指摘している。

それにしても、崔教授の論文には、米潜水艦への日本帝国海軍の迎・攻撃は全くなかったと記されている。45年4月に、朝鮮半島の港近くまで、米国の潜水艦が、かなりの自由度を以て、横行していたということだ。日本軍が如何に劣勢の極みにあったかが窺えるくだりでもある。

崔教授が3人の漁民のその後について書いている。

「3名の年齢は42歳の崔、43歳と44歳の2人の金だった。3人の内、船長はたった一度釜山まで行ったことはあったが、2人の漁民は自分の生まれ故郷である三千浦の外に出たことはなかった。無学の彼らは尋問されても、米国が知りたがっていた軍事情報についてはなにも提供できなかった。ほぼ無知の彼らだったが、朝鮮半島周辺海域の様子については語ることが出来た。彼らの内、43歳と44歳の2人の金の名はホノウリウリ収容所の捕虜名簿に載っているが、42歳の崔は尋問後、消息不明となっている」

崔教授は憤りを込めて結論づける。

「2,700人のコリアンは、自分の意思に反して日本によって働かされていた非戦闘員の労働者にすぎない」

「3人の気の毒な漁師は米海軍の兵士に銃を突きつけられ、真珠湾に連行された。これらの捕虜はみな、戦争の悲劇的犠牲者で、描写できない苦痛を味わった」

「現在、収容所跡に日系人の犠牲をいたむ碑が建立されつつあるが、コリアンの碑も、ともに建立し、未来の人々の戒めとするべきだ」


不掲載となった論文


たしかに、米国政府は謝罪せよという教授の主張はもっともだ。教授は右の論文を、ハワイ州立大学コリア研究センターが出版する学会誌に提出した。現地の有力新聞「ホノルルアドバタイザー」にも投稿した。だが、いずれも不掲載となったという。

理由について、崔教授はなにも語らないが、これまで光を当てられてこなかったコリアンの不法、不適切な収容について、当時の資料を駆使して書かれた論文も記事も、掲載に値する十分な価値があると思える。だが、米国の学会誌とメディアの双方がこれを拒否した。なぜだろうか。幾つか理由は考えられる。

そのひとつは米国人の歴史への想いであろう。第二次世界大戦は、日本が仕掛けた卑怯な戦争だと彼らは考える。その中で、当時、日本国民だった朝鮮半島の人々を乱暴かつ違法に扱おうが、今更問題にはしないという意識だ。また有体に言えば、人種的な差別意識もあるだろう。

ここで想い出すのは1927年に大西洋横断の単独飛行をなし遂げた英雄の著した『リンドバーグ第二次大戦日記』である。その中で氏は戦時中の米兵の、日本兵に対する残虐ぶりを書いている。

「1944年7月13日。…わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない」

「8月30日…海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかった…捕虜を…一列に並べ…英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、あとの連中は『一人も捕虜にされなかった』という」

つまり、その場で殺害されたのだ。

崔教授ならずとも、米国の非道に憤りを禁じ得ないゆえんだ。だが、米国では未だに第二次世界大戦についての米国自身への批判は封じられている。日本とは正反対の現実のなかで、崔教授の論文の存在を、日本人にこそ知ってほしいと思う。

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「 鳩山首相と一郎元首相の共通項 甘い『友愛』への大いなる不安 」

『週刊ダイヤモンド』   2009年10月17日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 809


鳩山由紀夫首相の唱える友愛外交は祖父・一郎から学んだと、首相は「Voice」9月号で述べている。一郎の友愛は「博愛」を指し、「革命の旗印ともなった戦闘的概念」だという。

一郎は友愛を説くとともに日本の憲法改正と再軍備を主唱した。こうした考えは、後述のように、一郎の信念というより政敵・吉田茂への対抗心ゆえのスローガンだったといってよい。

敗戦直後の政治史を振り返れば、鳩山一郎は戦後まもない1945年11月、日本自由党を創立し、総裁に就任した。翌年、米占領軍に公職追放され、吉田ら官僚群に自由党を預けた。吉田は自由党総裁として首相に就任した。鳩山は51年にようやく公職追放を解除され、吉田に自由党総裁の地位を返すよう要求したが、吉田は応じない。両者の対立は深まり、吉田は衆議院を抜き打ち解散した。

争点は憲法改正と再軍備だった。吉田は経済復興を優先し、右の課題には消極的だった。鳩山は、吉田とは正反対に憲法改正と再軍備の旗を掲げた。

吉田の在任期間は7年間に及んだが、その末期、鳩山は日本民主党を創立し、54年11月、ついに念願の首相の座に就いた。しかし、鳩山が手がけたのは憲法改正でも再軍備でもなく、ソ連との関係修復だった。

時あたかも東西冷戦の真っただ中で、日本は米国の庇護の下、自由陣営の一員として徐々に力をつけていた。米国はしきりに日本に憲法改正と再軍備を要請し、それは鳩山の主張と重なっていたが、鳩山はそうした目標に向けての政治努力をまったく行わなかった。鳩山の公約は単に吉田に対抗するための口先の公約だったのだ。また、米国と対立するロシア接近へと鳩山を突き動かした力のなかに、自分を公職追放した米国への恨みがあったと思われる。

では、鳩山のロシア外交の実態はいったい、どんなものだったのか。

鳩山は56年に日ソ共同宣言を出し、日ソ国交回復を成し遂げた。同宣言第九項には、北方領土に関して、両国が平和条約を結んだ後に、歯舞、色丹両島を日本に引き渡し、国交正常化の後も「平和条約の締結に関する交渉を継続する」と書かれている。

鳩山の日ソ共同宣言の20日前に、両国間で交わされた「松本・グロムイコ」書簡がある。日本の全権代表・松本俊一とソ連の第一外務次官グロムイコが交わしたもので、そこには「領土問題を含む平和条約の締結に関する交渉を継続する」と書かれている。つまり、「領土問題を含む」の7文字が、共同宣言では削除されていた。宣言に込められたソ連側の意図は、歯舞、色丹の2島返還で終わりということだ。

鳩山は後に、領土問題の交渉は継続されると弁明したが、北方領土について、日本側の立場の後退を受け入れたのは事実である。

由紀夫首相は、米国と対等な関係を結び、東アジア共同体の構築を目指すという。同共同体は、中国がアジアから米国の影響を排除するために提唱した地域連合だ。自民党政権は、中国の影響力強大化阻止のため、ここにインド、オーストラリア、ニュージーランドを招き入れた。結果、中国はもはや東アジア共同体を口にしなくなった。

それを今、由紀夫首相が提唱し、民主党は共同体には米国を入れないと公言する。むろん、米国も入らないだろう。同盟相手の米国と微妙な対立関係にある中国にテコ入れをする構図は、ロシアにテコ入れした祖父と似たものがある。

友愛を「戦闘的概念」と言いながら、一郎はソ連と闘うよりも領土で譲った。由紀夫氏もまた、尖閣や東シナ海で日本の領土領海をうかがう中国に闘いを挑むことなく、譲歩の気配を見せる。鳩山二代の友愛は相手に対する甘い期待でしかない。祖父と由紀夫氏の共通項、甘い友愛と甘い国際認識の行く先が思いやられる。

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「 沖縄戦、県民疎開に尽力した知事 」

『週刊新潮』 2009年8月6日号
日本ルネッサンス 第373回


沖縄の星雅彦氏が興奮気味に電話をかけてきた。

「昭和19年11月3日、那覇市で県民決起大会が開かれ『県民一丸となって戦おう、元気な者は皆戦おう。老人と婦女子は日本古来の伝統にのっとり、後顧の憂いなからしめるために集団自決しよう』と決議したと報道されています。この決議があったのなら、集団自決は軍命と関わりないことが明らかになります。この報道の根拠は何でしょうか」

星氏は文芸雑誌『うらそえ文藝』の編集長で、去る6月9日、日本軍の集団自決命令はなかった、だが沖縄のメディアはそのことを報じないと記者会見で語った人物だ。

沖縄戦で米軍の艦砲射撃が始まった後の昭和20年3月25日から28日にかけて、住民多数が自決、それは軍命だったとされてきた。しかし、それより4ヵ月以上前に県民大会で前述の決議をしていたとしたら、軍命説は覆されると星氏は言うのだ。

同決議を報じたのは05年9月号の『正論』だった。発言の主は梅澤裕氏。氏は集団自決を命じた本人とされ、同じく軍命を下したとされる故赤松嘉次氏とともに、大江健三郎氏から「罪の巨塊」「屠殺者」「アイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべき」と非難された(『沖縄ノート』岩波新書)。

梅澤氏は集団自決など命じていないとして、大江氏らを訴えている。

私は、星氏に問われてすぐに梅澤氏に電話し、氏が4年前に語った県民決議について尋ねた。いま92歳の氏は電話口で実に詳細に語った。

「慰霊祭で2度目に沖縄に行ったとき、座間味にいた郵便局長の石川重徳さんから聞きました。昭和19年の明治節(明治天皇誕生日、11月3日)に、沖縄本島で決起大会が開かれた。集まったのは県長(知事)を筆頭に県庁の主要人物、市町村の長や助役、警察、消防の主だった人たちで、軍は参加していないそうです。そこでは、間もなく米軍が来る、働ける者は第32軍(沖縄軍)に協力しよう、しかし我々は日本人だ、老幼婦女子は自決して後顧の憂いなきようにしよう、となったそうです」

消えた『沖縄新報』

梅澤氏はさらに語る。

「決起大会では、サイパンの惨状を考えると、米軍が来れば沖縄はどんなことになるか分からない。だから身の振り方を決めておこうとなった。そのとき、当間という高齢の、日露戦争に行った人が壇上に飛び上がり、『ヤマトンチューはこういうときは死んだ、我々沖縄人もそうして死のう』と言った。出席者らは皆、同調して、決議になったそうです」

予告なしの問い合わせにもかかわらず、梅澤氏は4年前の発言について人物、日付、場所など、極めて具体的に語る。実体験でなければこうした詳細は出てこないだろう。

県民決起大会の件は当時発行されていた『沖縄新報』が報道したという。梅澤氏らは随分、その新聞を探したが未だ見つかっていない。

県民決起大会に参加した知事の泉守紀(しゅき)は、同年12月、沖縄が間もなく戦場になることを恐れて帰京し、そのまま戻らなかった。後任となったのが島田叡(ルビ=あきら)だった。

島田については、『明日への選択』(2009年3~5月号)で日本政策研究センター主任研究員の岡田幹彦氏が「沖縄の島守・島田叡」として詳報した。以下、岡田氏の記述を基に島田の足跡を辿ってみる。

島田が沖縄で過ごしたのは昭和20年1月31日の赴任から同年7月の自決まで、わずか5ヵ月余である。島田は沖縄県知事の後任の打診を即答で引き受けた。着任直後、同情的に問われ、次のように答えたという。

「私だって死ぬのは怖いですよ。しかしそれよりも卑怯者といわれるのはもっと怖い。私が来なければだれか来ないといけなかった。人間には運というものがあってね」

島田の赴任は沖縄軍司令官牛島満中将の懇請でもあったという。肝胆相照らした牛島と島田はやがて戦場となる沖縄から出来るだけ多くの県民を疎開させ、同時に県民の食糧確保を重要課題とした。島田は島民、とりわけ老幼婦女子の疎開に力を注いだ。結果、県民59万中22万余、本土に5万3,000、台湾に2万、戦場とならない県北部に15万の県民の疎開を実現した。

当時、県知事は大変な存在だった。特に官尊民卑の風潮が強かった沖縄では勅任官の知事は「天皇陛下も同然」だったと岡田氏は書く。そのような立場の島田だったが、気軽に地域の民家に足を運んだ。行く先々には、土地や家畜を気にして疎開を渋る人々がいた。島田は彼らを「それでも危ないから疎開した方が良いよ」と説得したというのだ。

島に留まった知事

米軍の圧倒的力に追い詰められ、船も燃料もすべて不足の状況下で、人々を説得し、わずか5ヵ月間で22万余を疎開させたのは驚きである。

米軍が上陸し戦闘が始まると、島田は壕で県政を行った。だが、壕内にとどまらず、砲火の下、各地に出かけて人々を指導した。空間を広げるため壕を掘る作業にも積極的に加わった。食事は皆と同じものだけを口にした。下着は必ず自分で洗った。村人が川や田で捕えた鰻や鮒、野菜などを届けると、少しだけ口にして、あとは「怪我人に」といって渡した。

6月19日、『毎日新聞』の支局長野村は沖縄脱出に当たり、島田に別れの挨拶に来て、言った。県民にはもう十分尽した、文官のあなたは本土に引き揚げてもよいではないか、と。すると島田は答えたという。

「君、一県の長官として僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろ」

そして、自分ほど県民の力になれなかった知事は、後にも先にもいないと、嘆じたという。

玉砕を免れないであろう沖縄の知事職を、島田は誰かが引き受けなければならない責任だとして引き受けた。そして全力を尽した。しかし尚このように語るのは、県民全員を救いたいと心底願っていたからだ。

6月23日、牛島司令官が自決。沖縄は陥ち、県民を守りきれなかった責任をとって、7月、島田も自決した。敗れはしたが、最後まで沖縄と県民を守るべく文字どおり死力を尽した牛島、島田、そしてあの苦難の時に沖縄にとどまり、沖縄の人々と心を一にしたヤマトンチューを、沖縄の人々は忘れてはいない。

昭和26年6月23日、島田をはじめ戦没県職員468柱を合祀する「島守の塔」が全県民の浄財で建立された。除幕式と慰霊祭には島田美喜子夫人が招かれた。

岡田氏の綴ったこの「沖縄の島守・島田叡」は涙なしには読めない。牛島、島田両氏が軍と行政の長として指揮した沖縄で、梅澤氏ら軍人が住民に集団自決を命じたなど、あり得ないのだ。

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特集 「 『集団自決に軍命はなかった』と口に出せない沖縄『言論封鎖社会』 」

『週刊新潮』 2009年7月16日号
日本ルネッサンス・拡大版 第370回



沖縄で生まれ育った上原正稔氏は、長年、沖縄戦を取材してきた。戦争という極限状況は、個々の人間の真の姿を、否応なく剥き出しにする。醜さとともに、至高の美しさも見せてくれる。その人間模様に魅せられて、上原氏は、ドキュメンタリー作家として戦争下の人間の行動を追ってきた。

沖縄戦の悲惨さが際立つ理由のひとつは、日本軍が、住民を守るどころか足手まといとして突き放し、死に追いやったとされてきたことだ。米軍上陸を目前にした1945年3月、日本軍が住民に命じたとされる集団自決である。
“集団自決の軍命”を最初に報じたのが『鉄の暴風』だ。50年に朝日新聞から、後に沖縄タイムスから出版されている。ノーベル文学賞受賞の大江健三郎氏は同書を基に『沖縄ノート』(岩波書店)を著し、集団自決は軍命だったとした。

沖縄生まれの上原氏は、軍命は当然あったと信じていたが、取材を通して軍命はなかったと突き止め、衝撃を受けた。氏は07年、沖縄の有力紙『琉球新報』での連載、「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」でそのことを取り上げようとした。すると、信じ難いことに「新報の方針に反する」として掲載を拒否され連載は中断されたのだ。

異論を封ずる琉球新報をはじめ、沖縄のメディアの異常さについて、氏は、小さな文芸誌『うらそえ文藝』第14号(09年5月刊)の星雅彦編集長(77)との対談で詳細に語った。続いて両氏は6月9日、記者会見も行った。

沖縄出身の言論人が、公式に記者会見で集団自決軍命説を否定したのは初めてだ。それだけでも報道する価値はある。だが、地元の2大紙、琉球新報と沖縄タイムスは完全に無視した。両氏の記者会見開催までの経緯を辿ると、沖縄のメディアが抱える欠陥とその偏向体質が見えてくる。

7月2日、両氏に那覇市内で会った。上原氏は沖縄の人間にとって、集団自決軍命説は「生まれたてのヒナ鳥が最初に見たものを母親と思い込む刷り込みのようなもの」だと語った。

「私は今66歳、沖縄に生まれ、アメリカ統治下で育ちました。ロングセラーを続ける『鉄の暴風』で刷り込まれた沖縄戦の印象は長年私の中に残っていました。集団自決の軍命は、当たり前のこととして、あったと。何の疑いも抱かなかった。曾野綾子さんが(73年に)『ある神話の背景』を発表して、軍命はなかったことを詳述したときも、そんな話が本当に成り立つわけがないというくらいにしか、読めなかった」

氏の沖縄戦の取材は80年代から始まり、83年には「1フィート運動」を立ち上げた。

「沖縄戦に関するアメリカの映像資料などを収集し、戦争の実態を伝えていく運動です。わずか5ヵ月で1,000万円が集りました。しかし、金目当てで活動に参加する人々の醜さも見た。反戦・平和運動とはこんなものかと嫌気が差しました」

氏は自分を反戦・平和の闘士と誤解してほしくないと強調する。戦争で人間が試され、千差万別の究極の物語が生まれる。その人間の姿に興味があると語る。

沖縄戦の取材を深めた氏は、85年、沖縄タイムスに「沖縄戦日誌」を150回にわたって連載した。

「戦時中のニューヨーク・タイムズの報道に関心をもち、米国の公文書館などで資料を読み漁り、沖縄に紹介したのです。当時、僕はまだ、集団自決は軍命だという前提に立っていました」

変化は突然やってきた。氏自身が渡嘉敷島を訪れたときだ。同島では住民300人以上が赤松嘉次大尉の命令で集団自決をしたとされていた。曾野綾子氏が丹念な取材で軍命説を覆したのも渡嘉敷島でのことだ。

「僕はグレンという米軍人の手記の内容を確認するために渡嘉敷に渡ったのです。そこで当時のことを知る数少ない生き残りの金城武徳さんと大城良平さんらから『軍命なんてなかった』と聞いた。心底、驚いた。

大城良平さんは自分の奥さんが自決しているんです。赤松大尉を問い詰めた大城さんは、住民を死なせるので機関銃を貸してくれと村の指導者が言ってきたが、赤松大尉が断ったことを知ったそうです。僕の先入観は真っ向から否定され、崩れていきました」

「沖縄の人々の責任」

実は上原氏は、このときの取材の成果を96年6月1日から同25日まで琉球新報で報じている。連載、「沖縄戦ショウダウン」には、赤松隊長の副官だった知念朝睦氏の言葉が、次のように引用されている。

「赤松さんは自決命令を出してない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」

軍命を否定した上原報道は意外にも、96年当時、なんの非難も受けなかった。
「むしろ、反応は上々でした。担当記者もよく調べたと言ってくれたほどです。けれど、人間は忘れてしまう。その後、大江氏に対する裁判が始まり、教科書の集団自決の記述が問題になり、軍命の有無が殊更話題になりました。そして、私は琉球新報の記者から再び沖縄戦の連載を持ちかけられました」

大江氏の裁判とは、座間味島で集団自決を命じたとされる梅澤裕元少佐らが、『沖縄ノート』の著者の大江氏らを名誉毀損で訴えた裁判のことだ。05年に提訴された同裁判は、大阪高裁が「元戦隊長らが直接住民に命じたかどうか断定できない」とする一方で、名誉毀損は認めない判決を下し、現在、最高裁に上告中だ。

上原氏は先の取材で、島の元住人、比嘉喜順氏から「赤松さんは人間の鑑。我々住民のために、一人で泥を被り、一切弁明することなくこの世を去った。赤松さんのご家族のためにも、本当のことを世間に知らせてください」と頼まれた。事実を知った今、赤松氏や梅澤氏を悪者に仕立て上げた沖縄の人々の責任は重いと、上原氏は感じている。真実を明らかにして、両氏の名誉を回復し、謝罪すべきだとも考えている。そんな思いもあって、上原氏は新たな連載の誘いを受け入れた。

氏は96年の連載で取り上げた集団自決軍命説を否定する記事も再度書くつもりだと、あらかじめ琉球新報側に説明し、連載のタイトルを「パンドラの箱を開ける時」と決めた。連載は07年5月26日に始まり、第1章は6月16日に終わった。第2章は翌週の6月19日から始まるはずだった。

「ところが、6月18日、琉球新報に行くと、担当の若い記者がとても怖い顔で、『上に来い』と。5階に行くと、別の3名の記者がいて、『これ(第2章の記事)はストップする』と言うのです。理由をきくと、『新報の方針に反する』『(96年の)沖縄戦ショウダウンの中身と同じじゃないか』と難癖をつけて掲載を拒むのです」

上原氏は、記者が週末に上京していたことを思い出した。「大江裁判」が継続中であり、記者は否定したが、彼が大江氏に会って相談した可能性もあると推測した。琉球新報との話し合いは1時間を超え、上原氏は4人に吊るし上げられたと感じて言った。

「こんなことでは、連載は続けられない。第2章を載せないのなら、他の章も含めて連載を止めるぞ」

記者が言った。

「ああ構わんよ」

上原氏が振りかえる。

「薄ら笑いを浮かべ、僕を見下すような視線でした。ここまでくれば売り言葉に買い言葉。僕はすぐに記者会見を開くと言った」

だが、翌日、記者が再度、接触してきた。

「上司の当時の編集局長にうまく折り合いをつけるように言われたのでしょう。彼は僕の長年の友人です。彼から、記者会見だけは止めてくれ……と頼まれ、僕は渋々、承諾したのです」

「掲載拒否」

丁度同じ時期、『うらそえ文藝』編集長の星氏も似たような体験をした。

「上原さんの連載中断の約ひと月後、私も琉球新報から原稿掲載を断られました。集団自決軍命説を否定する内容です。文化部の部長から『今回は掲載できない』と言われました。理由は『今の状況にあわない』という、それだけでした」

星氏は沖縄県の文化協会会長、県立芸術大学理事長、国立劇場おきなわの理事をつとめる人物だ。そのような人物が、今、軍命はなかったと公に発言しているのだ。

「私の場合は、なぜ、今まで公に発言しなかったかと、問われるべきかもしれません。なぜなら、もう40年も前、沖縄の本土復帰の前から軍命説に疑問を抱いていたからです。1960年代末に、『沖縄県史第9巻』の執筆を依頼され、沖縄戦の実地調査で『鉄の暴風』に出てくる地域にも足を運びました。そして発見したのは、『鉄の……』の多くの間違いでした。地名、日付。極めつきは集団自決を命じたとされる梅澤隊長が朝鮮人の慰安婦と一緒に死んだと書いていた。周知のように、梅澤さんは今もご健在です。梅澤さんが軍命を下したと証言した宮城初枝さんにも会いました。けれど、様子がおかしい。梅澤さんのことを問うと口を噤むのです。そのときから私は軍命を疑い始めたのです」

星氏は、或る日、『鉄の……』の取材者として活躍した太田良博氏に尋ねた。

「梅澤さんは死んだと書いてあるが、まだ、生きている。おかしいぞ」

「まぁ、そんなところもあるねぇ」と太田氏は苦笑いして、口を噤んだという。

「私は長い間、明確な発言を控えてきました。おだやかな表現で問題提起しただけです。にもかかわらず、琉球新報は掲載拒否です」

一方、連載中断で上原氏の言論を封鎖した琉球新報は上原氏に新しい接触を試みていた。中断から4ヵ月後、先の編集局長直々に、連載再開を依頼したのだ。但し、集団自決は軍命ではないと書かないという条件が、口頭で、伝えられた。

「僕はそこで突っぱねてもよかった。けれど、連載は数年間ということだった。僕の側にも伝えたい物語がたくさんあった。いつか真実を書くチャンスもあると期待した。また、連載再開の道筋をつけた編集局長をこれ以上傷つけたくない思いもあった」

こうして07年10月16日、「パンドラ……」は再開された。だが、連載は数年どころか1年も経たずにまたもや突然、終わった。「もう終わり」と告げられた氏は最終章の執筆に入った。

「僕は、最終回でどうしても集団自決は軍命ではなかったことを伝えたかった。一話完結。それでも編集者は書き換えを要求し、僕は突っぱねた。琉球新報側は社長を含めて協議したそうです。結論は、ボツ。ですから、連載は形としては終わっていない。最終回なら末尾に〈おわり〉と記されますが、いつものように〈火曜―土曜に連載〉となっています」

こうした経緯の末に、両氏は今年6月9日の記者会見に臨んだのだ。

取材対象を黙殺

それにしても、96年に上原氏の「軍命はなかった」という記事を報じた琉球新報が、今なぜ、軍命否定の報道を拒否するのか。上原氏が語る。

「05年夏に始まった大江、岩波裁判、07年に問題となった教科書検定問題で、沖縄タイムスと琉球新報は、一貫して軍命はあったという論調で報じています。それで私の記事を載せるのは具合が悪いと考えたのではないか。彼らの主張の根拠の完全な否定ですから」

これでは琉球新報は、自説を通すためには事実さえも握りつぶす新聞だと言われても弁明できないだろう。

「琉球新報も沖縄タイムスも、黙殺が得意技です。僕らの異論がなかったかのようにしようとしています」

と上原氏。星氏も彼らの陰湿な「黙殺」を感じている。

「私はこの三十数年来、琉球新報で3ヵ月に1回、『美術月報』を執筆してきました。ところが先の論文を巡って対立したあと、暫くたった去年3月、突然、『美術月報』の執筆から外されました。例の論文掲載を拒否した文化部部長が『星さんの文章は難しいから』と言ってきました」

沖縄のメディアの異論の黙殺は、本来なら取材すべき対象にまで及ぶ。大江裁判で原告の梅澤氏側の代理人を務める松本藤一弁護士が語る。

「沖縄タイムスと琉球新報は、大江氏と岩波書店を訴えた我々の裁判に関して、ひたすら我々の主張を否定するかのような報道をしてきました。しかし、提訴以来4年、彼らは一度も我々を取材していません」

松本弁護士は、沖縄のメディアはアメリカの統治下で日本離反政策の報道規制に慣れてしまったために、今も、日本を批判する言論が身についてしまっているのではないかと分析する。

集団自決の真実が余りにも無視され、不条理が横行する背景にメディアの問題があるのは明らかだ。

上原氏が、最後に、非常に言いにくいことだがと前置きして、援護金の問題について語った。

「集団自決の遺族の一部も援護金をもらっています。両親や親族を手にかけて、軍命だと主張し、戦後、億単位のお金を受けとっている。こんな話、恥ずかしくて、世界に通用しないですよ」

氏の言う「億単位」とは、定められた支給額のうち最高額の年額196万6,800円に、戦後の年数を掛け合わせたものであろう。

援護金が遺族の生活の一助となっていることを誰よりも知っていたのが今は亡き赤松氏だった。氏は、すべての不条理に関して一言も弁明せずに亡くなった。梅澤氏も沖縄の人々には心底、同情している。

メディアの役割はこうした事柄を事実に沿って報道することだ。だが、現実には上原氏や星氏は言論の場から排除され、活躍の場を奪われつつある。

一連の経緯について問うと、琉球新報は、上原氏の連載を一方的に中止したことはない、星氏の寄稿の不採用も本人納得のことで、集団自決報道はこれまでの「蓄積」と「裏付け」に基づいていると回答した。

沖縄タイムスは「検討中です」と、わずか一行の回答だった。この種の反省なき言論封鎖が沖縄の未来に影を落とすのだ。

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プロフィール

櫻井よしこ Yoshiko Sakurai

職歴

1971~74
クリスチャンサイエンスモニター紙
東京支局勤務
1975~77
アジア新聞財団
DEPTHNEWS  記者
1978~82
アジア新聞財団
DEPTHNEWS  東京支局長
1980~96
TVニュースキャスター
1980~現在
ジャーナリスト

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