カテゴリー:日本の社会

「 命を賭して先人が守った祖国 思いを受けるに足る私たちか 」

『週刊ダイヤモンド』   2010年8月14・21日合併号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 850




1944年12月16日、レイテ島西方海域で河野宗爾陸軍伍長は戦死した。僧職にあった23歳のこの若者は、こんなふうに遺書を書き出している。

「御面会も出来ず、出発すること、何だか淋しい気持ちです」

だがすぐに気を取り直して、「ニッコリ笑って戦友に見送られて行きます」と筆を継いだ。

戦地に向かう青年はさらに綴る。

「生還を期せずして出て征くにあたり、心から今までの御高恩を謝し、母上四十年間のご苦労に何等お報ひ出来なかつた事を深くお詫び申上げます。

今お別れするに当り唯一の頼みは、どうか長生きせられて、私の遺骨はお母さんの胸に抱かれて無言の凱旋をすることが、私の願ひであります。決して生きて還ると言ふ様なことは思つて下さいますな。それ程今の日本は急迫してゐるのです」

海軍軍属の石田正夫氏も44年8月8日、グアム島で戦死した。37歳の氏は、わが子の夢を見て、子どもに「強く生きてほしい」と書き残した。

内地の様子がわからないなかで、彼は自分の気持ちをこう書いた。

「毎日、情勢の急迫を申し渡されるばかり。自分達はすでに死を覚悟して来てゐる。万策つきれば、いさぎよく死なう。

本月の○日頃が、また危険との事である。若し玉砕してその事によつて祖国の人達が少しでも生を楽しむ事が出来れば、母国の国威が少しでも強く輝く事が出来ればと切に祈るのみ。

遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。

なつかしい遠い母国の若き女達よ、清く美しく健康であれ」。

あるいは45年5月11日、南西諸島方面で戦死した特攻隊の海軍少佐、西田高光氏は「総ての人よさらば、後を頼む」と絶筆を残した。23歳の匂い立つ若き命だった。

このようにして、幾百万の人びとが戦死した。苦しい戦いのなか、あるいは極限状況の下、彼らを支えたのは家族と祖国への哀切なる愛と責任感だった。遺骨となって母の胸に還(かえ)りたいと望みつつ、後に続く人びとに後事を託しつつ、命に代えて彼らが守ろうとしたのはまぎれもなく、祖国であり、祖国に抱かれるすべての同朋だった。

けれど今、私たちはこうした先人の思いを受けるに足る日本人だろうか。

河野伍長や西田少佐と同年の23歳の下村早苗容疑者は、3歳と1歳の子どもを放置して死なせた。金色の髪とパッチリした目で写真に収まる彼女は遊ぶ時間が欲しくて子どもを放置した、遊び場はホストクラブだと供述した。収入は風俗店で働いて得たそうだ。

子どもの背中にライター用の油をかけ、火をつけて大やけどを負わせた父親、倉岡稔容疑者は、42歳で無職だった。連行される姿の、輝く金色に染めた髪とネックレスが印象に残る。

他方、足立区では、111歳で日本一の長寿男性のはずの加藤宗現さんが約30年も前に死亡していたと判明した。しかも加藤さんの家族は白骨化したご遺体を放置し、家族が管理する通帳からは年金が引き出されていた。

杉並区では、これまた都内最高齢の113歳のはずの古谷ふささんが、四半世紀も前から消息不明であることが判明した。80歳近い長女の下には弟妹がいる。しかし、彼らはこの四半世紀、互いに、母であるふささんについて語り合ったことはないそうだ。

どう考えても、私たちの時代のこの日本は狂っている。戦後教育は完全に失敗し、私たちはどこかで生き方を間違えたのだ。今の日本人に必要なのは、一にも二にも、基本的な道徳倫理である。日教組や社民党に引きずられ、日本のよき伝統であった道徳や倫理を蔑ろにする教育を根本から改める必要がある。個人の権利と自由は十二分に強調されてきた。今は、家族をはじめ他者への思いを育む人間教育へと、価値観の一大転換を目指すべきだ。


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「 政府は外国人参政権を諦めていた 」

『週刊新潮』 2010年7月29日号
日本ルネッサンス 第421回



民主党政権が永住外国人への参政権付与問題について極めて重要な閣議決定を行っていた。従来、民主党議員の半数近くが熱心だった外国人参政権推進の立場をきっぱりと否定して、参政権は認めないとの立場を、6月4日の閣議で、公式に打ち出していたのだ。

これは、自民党の山谷えり子参院議員が5月27日に提出した質問主意書に対する政府答弁に書き込まれた内容だ。

閣議決定は政府決定として最も重い意味を持つ。全閣僚の署名を以て成立するもので、菅直人、千葉景子、岡田克也各氏も、無論、署名した。答弁書は95年2月28日の最高裁判決の本論を引用してざっと次のように書かれている。

「主権が『日本国民』に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。とすれば、公務員を選定罷免する権利は、日本国民のみをその対象とし、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である」

日本国民は日本国籍を有する日本人であり、公務員を選定罷免する権利すなわち選挙権は日本国民のみにあり、外国人には与えられないと、明言している。地方参政権についても、最高裁判決の本論を引用して、次のように書かれている。

「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙する。『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない」

答弁書はこのように最高裁判決の本論を引用して「政府も同様に考えている」と結ばれている。


傍論部分を切り捨てた


最高裁判決には、今回民主党が引用した本論に加えて、「地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当」などとする傍論が書き込まれ、それが外国人参政権推進論の根拠とされてきた。だからこそ、今回政府答弁書がその傍論部分を切り捨てたことが重要な意味を持つのだ。

傍論の作成に携わった最高裁元判事園部逸夫氏は、判決から15年後の今年、「戦前戦中派の裁判官は、在日韓国・朝鮮人に対する想い」や「彼らが戦時中に強制連行されたという特殊な事情への考慮」を共有するとし、それ故に傍論を加えたと語った。

園部氏の、在日の人々は戦前戦中に強制連行されてきたとの認識は事実関係において間違っている。にも拘らず、傍論は、国内の在日勢力及び韓国政府に参政権への希望を持たせる結果となった。

一方、党内で意見が二分されたままの民主党では、小沢一郎氏が韓国で公約ともとれる発言をし、党内の反対論を封じ込めるために内閣提出の閣法としてこの問題を扱う方針を示した。閣法であれば、党所属議員は全員賛成しなければならないとの論法で、可決を目指そうとしたのだ。

日大法学部教授の百地章氏が語った。

「最高裁判決の主旨は、国政、地方政治を問わず、参政権を外国人に付与することについては全面禁止なのです。したがって、傍論部分が加えられたこと自体、明らかに論理の矛盾を来たしています。

傍論を重視する説もありますが、それは個々の学者が唱える学説であり、学問の自由を保障するわが国では、矛盾する説であっても、禁止されるわけではありません。民主党の今回の答弁書は、政府として外国人参政権は推進しない、最高裁判決の主旨に基づいて、全面的に禁止すると表明したことを意味します。従来の不明瞭な政策と比較すれば実に明確で評価すべき決定です」

質問主意書を提出した山谷氏が指摘した。

「民主党は外国人参政権推進論を切り捨てる大決断をしたわけで、それはとても重要な点です。民主党はもはや閣法として外国人参政権を国会に提出することはしないという意味でもあり、質問をした甲斐があったといえます」

だが、民主党の奇妙な点は、発信するメッセージと行動が必ずしも重ならないことだ。周知のように、外国人参政権は、昨年の民主党のマニフェストには含まれていなかった。にも拘らず、衆議院議員選挙で大勝すると、俄に持ち出し、強引に国会に提出しようとした。

千葉景子法相は、「マニフェストに載っていない、あるいはテーマになっていないことが特段問題になることはない」と述べたが、こんな不条理な発言をする人物が法務大臣を務めたのである。不条理な主張をするうえに、落選した氏を、いまも法相の地位につけているのが菅民主党である。


民主党の奇妙な言動


菅氏と民主党の、発言と行動の落差を、さらに考えてみる。菅氏は長年、情報公開や説明責任の重要性を強調してきた。しかし、首相になった途端に予算委員会も開かず、なんら説明責任も果たさず、支持率の高い内に選挙に持ち込もうとした。説明責任を逃れようとするその姿勢は自民党政権と較べても、決して評価出来るものではない。

また、彼らは官僚依存からの脱却、政治主導を大目標として掲げた。象徴として国家戦略室を設けた。しかし、菅首相が早くも国家戦略室を縮小すると発表したことに見られるように、彼らの言う政治主導は全くといってよいほど機能していない。

そして、問題の外国人参政権である。前述したように、6月4日、当時財務大臣だった菅首相も署名して「外国人参政権は全面禁止」と読める答弁書を閣議決定した。にも拘らず、15日の参議院本会議で、首相は「民主党は前から実現に拘ってきた。その姿勢に変更はない」と言うのだ。

ここまで来れば、菅首相も、民主党の多くの閣僚たちも、自らの発する言葉、自らの行動の意味を理解していないのではないかと思えてくる。通常の理解をこえる民主党の奇妙な言動について、山谷氏が語った。

「菅首相、千葉法務大臣、それに仙谷官房長官らも、日本が法治国家であることを理解していないのではないでしょうか。仙谷さんは最近、半世紀以上も前に締結した日韓基本条約の見直しまで示唆しました。国際条約をひっくり返すなんて、まるでクーデターか革命です。そんな考えや姿勢で法治国家の内閣の要が務まるはずはありません」

それでも、民主党が事実上、外国人参政権を禁止する答弁書を閣議決定したことの重みは変わらない。


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「 国家解体を主張する民主党では日本は持たない 」

『週刊ダイヤモンド』   2010年7月24日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 847




鳩山由紀夫氏が首相だったとき、氏が好んで掲げた「友愛」や「新しい公共」、「国民」ではなく「市民」の、真の意味、そして氏の思想を理解するのは容易ではなかった。

鳩山・菅直人両氏を結ぶ思想、そして民主党中枢を染める特定の思想の概要は、後継の菅氏の所信表明演説でより鮮明に見えてきた。鍵は、首相が自分の政治哲学の師として言及した法政大学名誉教授の松下圭一氏である。

シンクタンク「国家基本問題研究所」副理事長の田久保忠衛氏はこう解説する。

「松下氏は丸山眞男の弟子であり、氏の『市民自治の憲法理論』や『日本の自治・分権』(共に岩波新書)は難解な書物ですが、氏が国家否定主義者であることを示しています。

国家を否定する思想には二つの流れがあります。一つはマルクス主義で、労働者を搾取する国家は打倒すべしという考え。もう一つは徹底した理想主義で国家主権はいずれなくなり、国際社会は国連中心になるという考えです。菅氏は前者だと思います」

松下氏の国民や国家についての考えをその著書から見てみよう。まず、氏は国民といわずに、もっぱら、市民という。市民が、「自治体政府」「国家政府」「国際機構」と「社会契約」を交わし、三つの機関はその契約を介して並立するというのだ。

基本となるのは市民の意思であり、それによって成り立つ「自治体政府」である。自治体政府には「基礎的自治体」(市町村)と「広域自治体」(都道府県)があり、広域自治体は基礎的自治体の補完の役割を担い、さらに国家政府(中央政府)はこれら自治体政府を補完するだけの存在と位置づけられる。

つまり市町村の意思こそが最重要で、国家の役割は限りなく小さいのである。これを民主党は「地方主権」や「新しい公共」という言葉で表現してきた。

民主党は鳩山・菅両氏らによって結党されたが、鳩山政権下の今年2月14日、施政方針演説を起案した松井孝治官房副長官とその振り付けをした劇作家の平田オリザ氏、文部科学副大臣の鈴木寛氏らが「友愛公共フォーラム発足記念シンポジウム」で語った内容は、鳩山・菅民主党の体質を赤裸々に示している。平田氏はこう語っている。

「二一世紀っていうのは近代国家をどういうふうに解体していくかっていう100年になります。しかし、政治家は国家を扱っているわけですから、国家を解体するなんてことは公にはなかなか言えないわけで、それを選挙に負けない範囲でどういうふうに表現していくかっていうことが僕の立場」

対して松井氏はこう答えている。

「主権国家が国際社会とか地域の政府連合に自分たちの権限を委託するっていう流れ。流れとしてはそういう姿になっているし、そうしないと解決しない問題が広がっていますね」

政権中枢を担う松井氏や平田氏の国家解体の主張は松下理論に源を発し、それを菅政権も共有していることに、「国民」は気づかなければならないと、田久保氏は強調する。

菅首相らは、国家解体を主張し、地方主権だといって地方自治体に主権を委譲するというのだが、そもそも主権の意味がわかっているのだろうか。主権は、自衛権、生存権、領土権など、その国、その民族の生き残りを担保するための絶対的権力を指し、国家の基本権のうち最重要のものと位置づけられている。主権は、国家にのみ属するものだといってもよい。

その主権を地方自治体に渡すと主張する一方で、市民を、将来は国家の枠を超える存在と位置づける。つまり、必ずしも国籍を持たずともよい存在と見なすというのである。菅氏らが外国人参政権を提唱する理由もこの点にある。菅政権に交代しても、民主党では日本は持たないゆえんである。


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「 日本は『最小不幸社会』ではなく『最大幸福社会』を目指すべきだ 」

『週刊ダイヤモンド』   2010年7月17日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 846





菅直人首相と民主党は「最小不幸社会の実現」をマニフェストに掲げた。だが、社会主義的平均値の社会実現を追求するあまり、民主党政権は日本の針路を間違えるのではないかと思う。

「最小不幸社会」という、後ろ向きでジメッとした政策目標を掲げた理由について、菅首相は述べている。「幸福は個々人の価値観によって異なり、これは権力が関与するべきではありません。(中略)政治は権力であり、権力は人びとの不幸の原因を取り除くことにこそ使うべきです」と。

そのために貧困も失業も、働きにくい職場も老後の生活の不安も、医療の不足も低い最低賃金も皆、国の責任でなくしていくという発想である。

理想としては素晴らしいが、そのために政府は現在よりもはるかに手厚い社会保障政策を実現しなければならなくなる。予算は膨大な規模にならざるをえない。ただでさえ、わが国にはこれまた膨大な財政赤字が積み上がっている。であれば、かなりの、というより尋常ならざる額の新しい財源を捻り出さなければならない。消費税にとどまらず、すでに、所得への累進課税強化、相続税率の引き上げなどが具体的に論じられ始めたのは当然である。

最小不幸社会を目指す菅首相の経済政策の基本は強固な再配分と、結果の平等の徹底である。しかし今、日本が必要としているのは、再配分や結果平等よりも、もっと前向きの政策である。後ろ向きの最小不幸社会をもじって表現すれば、「最大幸福社会」の実現をこそ目指すべきときだ。

明治時代、実業界の第一人者として日本の基盤を支えた渋沢栄一が『論語と算盤』に書き残している。「富むものがあるから貧者が出るというような論旨の下に、世人が挙(こぞ)って富者を排儕(はいさい)するならば、如何にして富国強兵の実を挙ぐることが出来ようぞ。個人の富は、すなわち国家の富である。(中略)国家を富まし自己も栄達せんと欲すればこそ、人々が、日夜勉励するのである。その結果として貧富の懸隔を生ずるものとすれば、そは自然の成り行き」であると。

渋沢は、貧富の差は、程度の差こそあれ、いつの時代にも存在する現象であること、指導者はその差を出来るだけ解消すべく、王道としての政策を実施すべきであること、だが、富の分配平均を目指すあまり「日夜勉励する人々」の志や気概を挫いてはならないことを戒めているのである。一所懸命に励む人がいて、彼らが富み、幸せになることによって、社会全体の富も幸福も増大されていくという考えだ。

隣国の中国でも同じように考えた人物がいた。鄧小平(とう・しょうへい)である。全員が平等でなければならないとの建前を掲げる社会主義経済では、中国は貧困からも停滞からも脱出出来ないと認識し、鄧は改革開放を宣言した。社会主義統制経済と万人平等の考えをあっさり打ち捨て、資本主義と競争の原理を取り入れ、一部の人々が真っ先に「カネ持ち」になることを奨励した。彼らが富み、彼らの富と覇気を通して中国全体を富ませ、成長させていく考えだ。中国は成功し、いまや世界経済を牽引する力を得た。社会主義的価値観では現在の中国の繁栄はなかったはずだ。

もう一つ、民主党そのものを考えてみよう。民主党という政党自体、菅首相が唱える社会主義的社会からは生まれえなかった。鳩山家という莫大な資産を持った家族が存在し、幾十億円かの資金を拠出した結果、初めて誕生することができた。その鳩山家に強度の累進税率を課し、高い相続税率も課し、丸裸にしてしまえば、政党づくりに必要な幾十億円の資金を出すことも、もはやかなわないことだろう。

社会主義経済に傾く菅政権の政策の先に日本の繁栄があるとも、若者たちの夢が存在するとも思えない。菅民主党は最小不幸社会の実現よりも、最大幸福社会の推進に力を注ぐべきだ。



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「 メダカ、オタマジャクシ、トンボ…… 小さな池で育まれる多様な生き物 」

『週刊ダイヤモンド』   2010年7月3日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 844



一昨年の早春、庭の池に12匹のメダカを放した。寒い冬を二度越して、メダカたちは数え切れない「大勢力」に育っている。水たまりに等しいささやかな池なのに、多種多様な生き物が集まり、彼らの世界をつくり上げているのがおもしろい。その中で今、オタマジャクシが一大勢力を形成する。

オタマジャクシは、近づく足音に反応していっせいに土の中に潜ってしまう。小さな尾を左右にヒラヒラさせて丸い体で泳ぎ回る姿は、子どもの頃、水田や公園の池で見かけた「よちよち泳ぎ」の彼らの記憶を呼び覚ます。

ところが先日、思いがけないことを目撃してしまった。池に近づいても、ピクリとも動かないオタマジャクシが1匹、いたのである。他の連中が皆、精一杯機敏に土に潜るのを尻目に、この1匹だけは他のことに夢中だ。なんと彼は、メダカの横腹にしっかり食いついていたのだ。

愛敬のある姿、泳ぎが下手でメダカよりずっと動きはのろいのに、どうしてあの素早いメダカを捕らえることができたのか。ビオトープづくりの専門家、三森典彰さんに尋ねた。

「オタマジャクシはなんでも食べますが、生き物をハントすることはありません。おそらくそのメダカは自然死したのでしょう。それをオタマジャクシがいただいているんだと思いますよ」

自然界の小生物に敬語を用いる三森さんは、こうも言った。

「メダカの寿命は1年ですから……」

人間の寿命に比べるとなんとはかないことか。しかし、その間にメダカは複数回産卵し、たくさんの子孫を残す。死骸はオタマジャクシに食べられて、他者の役にも立てる。はかなくなんかない。うんと充実した一生である。

そして今週、またもや大事件が起きた。二一日、ショウブの葉に見なれない黄色のトンボが止まっていた。近づくと彼は少し飛んで近くの桜の枝に移った。翌日早朝、庭に出ると、昨日と同じ黄トンボが池に落ちて、もがいていた。

私はハッと気がついた。黄トンボはヤゴから孵化したばかりの赤ちゃんトンボだということに。前年に産みつけられた卵は水中でヤゴになる。彼らは肉食で、オタマジャクシもうかうかしていると餌食にされる。蚊の幼虫も同様だ。年を越して、よい季節になると、彼らはショウブの茎などに上って脱皮し、変身する。孵化(かえった)ばかりのトンボはひ弱なため、水辺から森に移り、小さな虫をたくさん食べて丈夫な体を作る。ひと月もすると立派に成長して水辺に戻り、そこら中を飛び回って自分の縄張りを確保するのだ。

三森さんが語ったトンボ物語を、突然思い出したのだ。幼いトンボの色までは教わっていなかったが、この頼りない動きを見れば、間違いない。

水中に半分体を沈めるかたちで、どうにかしようとしている黄トンボに人さし指を差し出すと、サッとしがみついた。藁をもつかむ状況だったのだ。私は彼が葉っぱに移れるように、指をショウブの葉に近づけた。心得たもので、彼はおとなしく葉っぱに移動した。

書斎に戻り、原稿に取りかかった私は、書斎の正面に位置する池に時々目をやりながら、黄色の姿を確認した。すると、おや、姿が消えている。

「あら、もう飛び立ったのかしら。元気でお暮らし」と心の中で彼の旅立ちを祝したが、ふと、不安になった。見るところ、少々ドジなトンボであるから、また落ちたかもしれない。万一のためだ、確かめようと、庭に出た。

すると、案の定、前と同じように半分体を沈ませて池に浮かんでいた。

やれやれ。私は再び人さし指を差し出し、彼はやっとの思いではい上がった。葉っぱで2時間あまり羽を乾かしたあと、彼は今度こそ近くの神社さんの森に旅立った。これで私は安心して原稿に集中出来る。早く立派なおとなになって戻っておいで、と、姿の見えない新米トンボに、私は呼びかけた。


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「 政治家に不可欠な戦略構築能力が欠如する鳩山首相では国が危うい 」

『週刊ダイヤモンド』   2010年5月22日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 838



世界諸国のリーダーたちは、日々の政治を大戦略につなげて考える。近未来、中期的展望、長期的展望と三段階に分けて問題を整理し、対策を講ずる。

大戦略を描くには、自国だけでなく周辺諸国がどのような動きを見せるか、地球をいくつかの地域に分けて各地域がどのような状況にあるかを読み取り、予想しなければならない。

では、わが国の鳩山由紀夫首相に、その種の「先読み」能力、戦略構築能力はあるか。答えは言わずもがなである。何かどこかが決定的におかしい首相は、普天間移設問題で初めて沖縄入りするときもなんら「腹案」などなかった。が、側近にこう言ったそうだ。

「目を見つめて語り合えばわかってもらえる」

まことに、首相はどこかが決定的におかしいのである。こんな人物がわが国の政治のトップに居続けるうちに、世界は大きく変わりゆく。どのように変化していくのかについて、最新号の「フォーリン・アフェアーズ」にデイビッド・カプラン氏が寄稿している。

氏は、米国新安全保障研究所の上席研究員で、これまでに多くの優れた分析を世に問うてきた。

「中国の力の地政学」で、氏は陸海双方において、中国がどこまでその力を浸透させていくかを分析、予測する。

歴史を振り返ると、「大帝国」が企図して大帝国になることは稀で、むしろ「有機的」、つまりおのずと大帝国へと成長していくというのだ。国家が力をつけ始めると、そこからさらに新しい需要が生じ、力を伸ばす。あるいは、「一種の不安がさらなる拡張へと走らせる」というわけだ。

カプラン氏は、中国の外交的野心は約一世紀前の米国の野心と同様、積極果敢に中国を駆り立てていくが、米中の勢力拡大への動機はまったく異なると説く。米国が国際社会に一定のモラル、価値観、自由や民主主義政体を広めようとしたのに対し、中国はエネルギー、鉱物資源、稀少金属などを貪り続けるために拡張する。それは世界の総人口の約五分の一を占める中国人の生活水準を上げ、維持するためだと見る。

資源の効率的入手を目指す中国は、必然的に超現実志向の外交・安全保障政策を展開する。たとえば、金正日体制を支持し続けるのも、脱北者を逮捕しては送り返すのも、現体制維持が北朝鮮の有する豊富な資源を入手するのに都合がよいからだ。そこには守るべき価値観などはない。自由も人権も民主主義も埒外なのである。

中国的超現実外交における異常な軍拡の持つ意味を、カプラン氏は次のように読み解く。目にするだけで他国が中国を恐れ、端から抵抗する意思を喪失させてしまうほどの強大さを維持して、結果として戦わずして勝利を得るための軍事力なのだ。

だが、単にショーケースに入れて見せつけるだけの軍事力ではないのは明らかだ。中国が最も力を入れて構築している軍事体制は、敵、即ちこの場合は米国だが、米国海軍がいくら頑張っても攻撃することさえ出来ない中国内陸部に軍事力の中枢機能を完成させるとともに、米海軍の中枢機能である空母を、必要あらば壊滅させるだけの攻撃力を構築することだという。

二一世紀の世界の前に立ち塞がる最大の脅威は拡張し続ける中国の力であり、その前で米国がロシアと手を結ぶことも大いにありうるというのだ。

脅威は軍事力だけではない。中国経済の持つ影響力は言うまでもないが、中国最大の武器の一つは人口力だと、カプラン氏は言う。たとえば、ロシア極東のロシア人は700万人、国境の反対側には一億人を超える中国人がいる。武力よりも経済力よりも、まず、ロシアは人口力によって中国に敗北するというのである。鳩山首相らの唱える外国人参政権がいかに日本を足元から滅しかねないかが見えてくる。

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「 改名申請者の数が増える韓国 国力を衰えさせる危うさはないか 」

『週刊ダイヤモンド』   2010年4月10日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 833




韓国人の50に1人は改名を望み、親がつけてくれた名前をむやみに変えてはならないという儒教の伝統がすたれつつある。3月31日付の週刊新聞「統一日報」のコラム「裏窓」がこのように指摘していた。

非常に興味深い。もう少しご紹介すると、韓国で改名はもはやスポーツ選手やスターだけのことではなくなり、一般人でも珍しくなくなってきているという。2000年から09年までの10年間の改名申請者は84万4,600人あまりに上った。05年以降急増しており、今後も申請者は増加し続け、今年は20万人を超えることが「確実視」されているそうだ。

いったい、05年に何があったのか。その年の11月、最高裁判所が改名の申請は、「原則的に許可しなければならない」との判断を下したのだ。法の網をかいくぐったり、犯罪隠蔽の意図が認められない限り、改名を許すべきだという司法判断で、許可率は92%に達している。

隣国の内政にむやみに口を挟みたくはないが、この判例には、現在日本で論じられている夫婦別姓・親子別姓法案と同質の危うさを感じる。いずれも、その国の伝統的価値観を根底から否定し、究極的にはその社会の基本部分に深刻な質的変化を及ぼすと思われる。

韓国最高裁の右の判断は、盧武鉉政権下で下された。左翼思想の盧大統領にとって、韓国の儒教の伝統は否定すべきもので、むしろ北朝鮮の金日成、金正日体制の価値観のほうが重要だったはずだ。儒教の伝統を軸に織り成してきた伝統的な家族の絆も、盧大統領は否定したかったのではないか。国家の基本の最小単位である家族の力を弱めれば、韓国の国力はおのずと衰え、相対的に北朝鮮有利に傾くからだ。

そのような大統領の考え方、つまり政権の動向に、司法が敏感に反応した結果が、改名容認の最高裁判断だと思われる。こう考えるのにはそれなりの理由がある。

当時の最高裁長官は現在もその職にある李容薫(リ・ヨンフン)氏である。氏は、金大中大統領に見込まれ、同政権のときに最高裁判事に任命された。2000年10月には判事を退任して弁護士となった。盧大統領が弾劾され、危うく大統領職から追放されそうになった04年には盧大統領の元に駆けつけ代理人として弁護した。弾劾を免れた盧大統領は、同年、李氏を公職者倫理委員長に任命した。これは公職にある人々の不正を正す役割だが、盧大統領の政敵つぶしの格好の手段となった。そして、李氏は翌05年9月、最高裁長官に抜てきされた。長官就任後まもなく下した判断が改名にまつわる判断だった。

韓国の人々の改名の理由は他愛ない。いちばん多いのは「珍名だから」。男児が欲しい、女児はもう欲しくないという意味で、両親が女児に「末順」や「終末」、日本風にいえば「末子」や「留子」的な命名が少なくないそうだ。

気持ちはわからないでもない。それでも幾十万人もが改名を希望するのは驚きである。つい、韓国の韓国人と日本の在日の人びとを比べてしまう。日本では民団を中心に民族のアイデンティティを大事にせよとの教育や指導が在日の人びとに行われている。民団は地方参政権取得には大層前向きだが、国籍取得には後ろ向きだ。その理由の一つが、帰化に際して改名を迫られるというものだ。しかし、日本政府が国籍取得の条件に改名を求めることは、もはやないのが実態だ。日本は民族の出自を名前に残すことを正当な希望として受け入れている。

民団はまた、在日の人々に文化的アイデンティティをも保たせようと努めているように思える。その姿は好ましいが、いつの日か、海外の朝鮮民族は本国の人びとよりもっと朝鮮民族的だといわれるような変化が本国で起き続けている気がしてならない。


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「 別姓法案の黒幕は法務官僚だ 」

『週刊新潮』 2010年3月18日号
日本ルネッサンス 第403回




子供の命名について、人生の先輩に聞いた話である。生まれてきた子供がどんな一生を歩むかは、誰にも予見出来ない。起伏に富むのが人生だから、いい時も悪い時もある。であれば、不運な巡り合わせで逆境に立つような場合、せめて子供が自分の名前ゆえに自信をなくしたりしないようにしておくのがよい。だから、字画などにも気を遣って、本人を支えるような命名をしておくのが古来の知恵だ、と。

我が家で子供が誕生したとき、ちなみにそれは私の兄の子供たちのことだが、命名を担当したのは私の母、姪や甥にとっては祖母だった。母は沢山の漢字を拾い出し、長い人生における孫たちの幸福や充実につながるようにと願いながら、字画も含めて思案していた。

父の名前からも一字を貰って、母は命名した。その一字に、祖父から孫へと、思いが伝わり絆が深められることへの願いが込められていたのは間違いない。
両親や祖父母と同じ名前をつけることで家族の絆を確かめようとするケースは欧米諸国にも少なくない。名前の共通性を活用するのは、洋の東西、時代の今昔を超えて見られる現象である。それは、家族としての慈しみの表現でもあろう。

いま、民主党が提案しようとしている夫婦別姓法案は、こうした価値観の対極にあると思える。民主党だけでなく、夫婦別姓推進論者の中に、社民党党首の福島瑞穂氏もいる。氏は「夫婦別姓を選択的に認めることは、人がのびやかに生きていくための必要条件」(『楽しくやろう夫婦別姓』明石書店)と位置づける。なぜ別姓でなければ、夫婦も子供ものびやかに生きていけないのか、私にとっては全く説得力のない主張である。氏はさらにこう主張する。「(夫婦別姓は)十分条件ではない。別姓の人は別戸籍に、そして将来は、みんな個人籍になるといいなと思う」(同)。

別姓論者の最終目標は、日本の家族の在り方を根幹から変え、戸籍制度もなくすことだ。それが日本人の幸福につながると信じているのだ。

別姓を名乗りたければ、現在も許されている通称を使用すればよいと、私は考える。だが、戸籍制度も含めた全面的な民法改正には、到底、同意出来ず、埋め難い溝を感じる。


民事局課長の「備忘録」


民主党の法案が成立するとどんなことが起きるだろうか。まず、結婚する人たちは結婚に先立って、別姓、同姓どちらを選ぶのかを決定し、次に、子供の姓をどちらの親の姓にするのかを決めなければならない。別姓か同姓かは、一旦決めたら、以降、変えることは出来ない。これら全てをきちんと決めて申請しなければ婚姻届は受理されないことになる。

民主党が準備する民法改正には以下の点も含まれている。

①女性の再婚は、前の結婚の解消の日から100日を経過して以降に可能となる。つまり、現行の6ヵ月から約半分に短縮される。

②嫡出子と非嫡出子の財産相続分を同一とする。現行法では非嫡出子は嫡出子の半分の財産を相続するが、全て平等になる。

③女性の結婚年齢を現行の16歳以上から18歳以上に引上げる。

①について、98年当時の法務省民事局第三課長の原優(ルビ=まさる)氏は『婚姻制度等に関する民法改正について--備忘録(その2)』の中で、「女性の再婚の自由を拡大するという観点」から決定されたと解説している。考えようによっては、離婚を奨励しているようにも受けとることが出来る。

②については、現行法で相続財産の差が設けられているのは、正式の結婚で作った家族を保護する目的と、嫡出子は親の財産形成に対する寄与があるのに対し、非嫡出子は通常それがないという、二つの理由ゆえだとしている。

だが現行法を改め、全ての子供を平等にする理由を、原氏はこう説明する。結婚以外の男女関係に対する非難を子供に及ぼすのは子供の人権尊重の視点から問題であり、親の財産形成にどれだけ貢献したか否かについては一律に論じられないことだからだ。


日本人の価値観の欠如


原氏による解説はもっともらしいが、決定的に欠けているのが日本を形成してきた伝統的な価値観への配慮である。歴史の中で形づくられてきた日本の家族の在り方に対する敬意や尊重も欠落している。

原氏の細部にわたる備忘録は氏が官僚として、民法改正の実現に多大なエネルギーを注いできたことを窺わせる。氏が書きため、民主党が実践を目論む民法改正は、日本の敗戦時に占領者としての米軍が行おうとしたことに他ならない。原氏は、98年7月に発表の『備忘録(その1)』で、民法改正(夫婦別姓)は、「戦後に新憲法の制定を受けて行われた親族編・相続編の全面改正(昭和22年改正)に次ぐ、規模の大きな改正作業」であると紹介し、家族の在り方を定める民法の全面改正は「不可避」だと断じている。なぜなら、米占領軍の定めた現行憲法の第24条が、「個人の尊厳と両性の本質的平等」の原則を宣言しているにも拘らず、「家制度に立脚した明治民法には、この原則と抵触する規定が数多く含まれていたから」だそうだ。

つまり、日本の家族の在り方も、夫婦、親子の関係も全て、米国が定めた現行憲法に則って変えていかなければならないといっているのだ。

原氏が不可避とする民法改正の論拠は、96年2月、長尾立子法相の諮問機関である法制審議会によって答申されたものだ。法制審議会のメンバーは法務官僚が選んだと考えてよい。つまり、この答申は、法務大臣の考えよりも法務官僚の考えを反映させたものだといってよいだろう。

96年のこの答申がいまの民主党案の基である。一連の民法改正の真の主導者は法務官僚だということではないのか。

それにしても、原氏ら法務官僚の頭の中には、日本の文化や価値観は存在しないのであろう。憲法や法は、その国、その民族の歴史や価値観を根底においてつくられるべきものだ。原氏らは、そのことを弁えもせず、日本を敵として戦った占領者が、わずか6日間で仕上げた現行憲法を信奉しているわけだ。どこの国の官僚か正体不明といってよい法務官僚らは、自分たちが長年手がけてきた夫婦別姓を、民主党政権が力を持っているいま、何としてでも実現しようとしているのである。

これまでは法務官僚が画策する民法改正の動きに、自民党が歯止めをかけてきた。しかしいま、日本の歴史や伝統や価値を尊重することの少ない民主党が、官僚らと歩調を合わせて突き進もうとしている。民主党は、脱官僚どころか官僚べったりなのである。おまけにこの件についても議論を封ずるとしたら、民主党の存在価値はないだろう。


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「 党内民主主義の死か、別姓法案 」

『週刊新潮』 2010年3月11日号
日本ルネッサンス 第402回




鳩山由紀夫首相の後押しで、夫婦別姓法案が閣議決定されそうな状況が生まれている。以前から夫婦別姓法の確立に意欲を示してきた千葉景子法相は、民主党政権が実現した現在を好機ととらえ、作業を急いできたと思われる。鳩山内閣の支持率が下がる中、千葉氏が動きを加速させ、それを鳩山首相が「基本的に賛成だ」(2月16日)との発言で応援しているのが現在の状況である。

周知のように、もはや民主党内では自由な議論の場は存在しない。部門会議は廃止、議員立法は禁止、政策立案は全て政府が行う。自由な議論なしには民主主義は成り立たない。だが、表向き議会制民主主義の旗を掲げる小沢一郎幹事長も、小沢氏に従う首相も、自らの政治姿勢と現実のギャップなど、一向気にしない。

そんな状況下、わずかに用意された議論の場が省毎の政策会議だ。大臣、副大臣、政務官の三役で省の政策を決定し、閣議に持ち込んで閣議決定して国会に提出するのだが、その前段階で、副大臣主催の政策会議が開かれる。与党議員は参加して意見を表明することが許されている。

法務省は2月23日、翌日の政策会議は民法改正、つまり夫婦別姓法案が議題だと通知した。直前の発表自体、出来るだけ党内議論を回避したいと考えてのことか。しかも、24日の政策会議では加藤公一副大臣らが法案の説明をしただけで、議員による自由な意見交換はなかったそうだ(『産経新聞』2月25日)。仮にこのまま法案が決定され、前述のプロセスで国会に提出されれば、民主党の民主主義は死んだに等しいのである。

千葉法相が準備させた法案の骨子は、①夫婦は結婚に際して別姓か同姓を決定する、②決定後の変更は認めない、③子供の姓は夫婦いずれかの姓に統一する、である。

法案が成立すると、一体どんな影響が出てくるのか。また、この法案は日本の社会を構成する基本的価値観とどのように整合するのか。


社会の基本は家族

まず、日本社会全体への影響である。いま日本の社会を見渡すと、本当に多くの問題があることに気がつく。子供たちが親を殺害したり、安易に犯罪に走ったり、本来、優しい視線を注ぐべき弱者を苛めたり、そして何よりも自分自身の価値に気づくことなく、人生を投げやりな気持で浪費しているかのような若者も少なくない。頻繁に見られるこうした現象の背景に、家庭や家族の崩壊があると、私は感じている。それだけが原因ではないだろうが、ひとつの大きな原因だと思う。

その意味で、私たちはいま、家庭や家族の重要性に思いを致し、家族の絆や相互理解を深める努力をこそ重ねるべきである。夫婦も家族もバラバラにしそうな夫婦別姓の思想は、明らかにそれとは逆行する。

この問題に詳しい日本大学教授の百地章氏は、夫婦別姓が、家庭の崩壊と家族の絆の消失につながりかねないとして、次のように語った。

「千葉法相も福島瑞穂氏も、現行憲法の信奉者ですが、日本国憲法を作らせたマッカーサーでさえ、家族、家庭を社会の基礎として大事にしていたのです。現行憲法の作成過程を見ると、そのことがよくわかります。第二次試案に家庭と婚姻について定める条文が置かれ、『家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、法の保護を受ける』と規定されていました。結婚、家庭、家族を大切なものと考える同条文は、現行憲法には必ずしもそのまま残ってはいませんが、それは、あまりにも当然のことなので書き入れなくてもよいと考えてのことでした。家庭や家族を否定したわけではないのです」

世界人権宣言にも「家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位であって、社会及び国の保護を受ける権利を有する」(第一六条3項)と、規定されている。社会の基本は家族であり、個人ではないという認識は、国際社会共通のものだと百地氏は強調する。

このことをもう少し踏み込んで言えば、家族を家族として成立させる最低限の道徳や価値観を、施策を講じて守る努力が、国に求められているということでもあろう。

夫婦別姓の当然の帰結が親子別姓である。その場合、子供の側に生ずると予想される不安や不利益、一体感の喪失をどのように補ってやれるのか。親の愛に包まれ、保護を受け、絶対的な安心感の中で育てられるべき子供の立場から家族を見る発想が、別姓法案には欠けている。

一人一人を家族の一員としてよりも、個人と見做す別姓制度が2代、3代と続けば、家族の連続性が見失われる事態が起きてくる。百地氏は次のように警告する。

「たとえば、片方とはいえ親と別姓の子供は、おじいさんやおばあさんとも別姓になる確率が高くなります。家族が別々の姓で暮らす中で、祖先の祭祀やお墓の維持は、ますます、蔑ろにされていくでしょう」


『楽しくやろう夫婦別姓』


祖先を大事にし、お墓を守っていくことは日本人の価値観の基本である。しかし、問題はこの基本部分が崩壊しつつあることだ。だからこそ、別姓問題も起きてくる。現に福島氏を含む共著『楽しくやろう夫婦別姓』(明石書店)はこう書いている。

「日本のお墓はめったやたらと暗い。(中略)それは、墓石の黒さだけによるのでなく、お墓の中に、序列・競争心・権威がプンプンただようからだ」と書き、その「きわめつけは、『○○家の墓』という、あの家を誇示する表示」と断じている。

氏らは、日本のお墓をハワイの墓地、パンチボールと較べて書く。

「『これがお墓?』というくらい、明るく美しい。思わずねころんでみたくなるような、一面のみどりの芝生」

福島氏らは、パンチボールを、「太平洋国立墓地」と解説しているが、実はここは軍人たちとその家族の墓である。日米が戦った第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで戦死した軍人のみならず、それらの戦争で戦い、兵役を無事に務めた元軍人らが眠る墓所なのだ。

私はハワイ州立大学で学んだが、恩師の一人は第二次世界大戦で日本と戦い、現在、90歳近いお年である。恩師は、自分が永遠に眠る場所はパンチボールしかなく、先に逝った妻はもうそこで僕を待っていてくれると語る。福島氏が靖国神社に参拝したとは寡聞にして知らないが、戦争や軍事を殊の外嫌う人物が、ハワイの軍人たちの墓であるパンチボールを「明るく美しい」と絶賛し、「ねころんでみたい」というのである。

戦争、歴史、一切の価値観に関して、日本を悪し様に考える思想が、夫婦別姓推進の背骨になっていると言えば言いすぎであろうか。そんな背景を考えれば、別姓法案には、尚更、賛成出来ないのだ。


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「 日本固有の文化文明を壊す『夫婦別姓法案』に反対 」

『週刊ダイヤモンド』   2010年2月13日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 825



民主党の小沢一郎幹事長らの強い指導で推進されているのが外国人参政権法案である。これは民主党の政策集「INDEX 2009」には書き込まれていたが、選挙に際して掲げられたマニフェストからは削除された。同法案の問題点についての国民の理解は進み、危機感も強まっているが、その陰であまり注目されていないのが夫婦別姓法案である。

夫婦別姓法案も、民主党政策集に記載されているが、マニフェストには載っていない。双方共に、日本社会に深刻な負の影響をもたらすと思われ、それだけに有権者の反発を買い選挙には不利だとして、マニフェストに盛り込むのが見送られた経緯がある。

民主党の夫婦別姓法案では夫婦は別姓、子どもは父母どちらかの姓になる、複数の子どもがいる場合、子どもの姓は、父母どちらかの姓に統一するという内容だそうだ。ただし、従来の民主党法案は、子どもごとに父母どちらかの姓を選択することになっていた。

なぜ、こんな法案が生まれてくるのか。夫婦別姓を是とする人びとのなかに、女性の自立や人格の尊重を理由とする人は少なくない。仕事を続けるとき結婚によって姓が変わるのは、通常、姓が変わらない男性に比べて不公平で女性の権利の侵害だとする声もある。

後者については、現在も許されている「通称」で解決する問題ではないか。結婚後も旧姓で仕事を続けることは可能で、その実例も少なくない。

前者の理由についても、歴史を振り返り、他国の例を見れば、姓が変わることをもって「女性の自立や人格」が損なわれるという考えが的はずれであることがわかる。

韓国では、結婚後も女性は旧姓を名乗る。女性運動が華やかだった1960~70年代に、韓国の事例は女性蔑視の例として語られたものだ。差別するがゆえに、夫と同じ姓を名乗らせず、族譜(家系図)にも載せないのだといわれた。

その説明の正否は、ここでの重要事ではない。重要なのは、韓国の場合も含めて、すべての国の家族制度のあり方は、その国の文化文明、価値観を反映しているということだ。日本には日本の家族制度があり、それは私たちの文化文明であり、先人たちが長い期間をかけて築き上げた価値観だ。

では、日本の女性たちは自立もできず、人格も尊重されずに生きてきたのか。答えは否であろう。日本の女性たちが、同時代の欧米の女性たちに比べてどれほど力を持っていたかについて、多くの人びとが書き残している。渡辺京二氏の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)には外国人が見た日本の女性の生き生きとした姿が多出する。長岡藩の城代家老の娘、杉本鉞子の『武士の娘』(ちくま文庫)には、日本の女性たちが手にしていた現実生活における力の程が描写されている。

そしてもう一冊、磯田道史氏の『武士の家計簿』(新潮新書)には、武士の家庭における俸禄(給料)の配分の実例が示されている。おカネの配分はすなわち力の配分である。

それによると、一家内での女性の取り分は驚くほど多い。俸禄を稼いでくる本人よりも妻や母、祖母のお小づかいのほうがはるかに多いのだ。前述の鉞子は、妻は銀行家でもあると書いたが、女性が家の経済を差配したということだ。このような日本の社会の実態を見れば、民主党の夫婦別姓法案の必要性や根拠は揺らぐ。

同法案の源をたどれば、その考えは戦後の占領政策の下で行われた徹底的な家制度の破壊に行き着く。現在、私たちが直面する多くの問題が家庭の破壊に端を発するという側面を持つのは周知だ。今必要なのはよい家庭を築く努力を社会ぐるみで行うことであり、さらなる家庭の崩壊と社会基盤の液状化をもたらす夫婦別姓を推進することではないのである。

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プロフィール

櫻井よしこ Yoshiko Sakurai

職歴

1971~74
クリスチャンサイエンスモニター紙
東京支局勤務
1975~77
アジア新聞財団
DEPTHNEWS  記者
1978~82
アジア新聞財団
DEPTHNEWS  東京支局長
1980~96
TVニュースキャスター
1980~現在
ジャーナリスト

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