「 日本社会に合うのか、最高裁判断 」
『週刊新潮』 2013年9月19日号
日本ルネッサンス 第574回
結婚していない男女間に生まれた非嫡出子(婚外子)の遺産相続分を嫡出子の半分とする民法の規定は法の下の平等を保障した憲法に違反すると、最高裁判所が9月4日判断した。
日本人の生き方や日本の社会に大きな変化をもたらすと予測される判断である。最高裁は判断理由として、①国民の意識の変化、②国際社会からの勧告、③非嫡出子の相続を半分とする合理性が認められない、などを挙げた。
①の国民の意識の変化は確かに見てとれる。たとえば1979(昭和54)年3月に総理府が実施した世論調査では、婚外子と嫡出子の相続分を同じにすることについて、反対が47・8%、賛成が15・6%だった。
当時の国民感情は圧倒的に反対が強かった。では、現在はどうか。2012(平成24)年の内閣府の調査では相続分を同一とすることに反対が35・6%、賛成が25・8%である。
現在も反対論が強い。ちなみにどちらともいえない、わからないが合わせて38・6%だ。
国民の意識は変化はしているが、現行法の改変に反対意見の方が多い点は変わっていない。従って、国民の意識の変化が現行法を憲法違反とする理由になるとの最高裁の説明は実情に反している。
次に②の国際社会からの勧告についてである。
ヨーロッパ諸国では婚外子と嫡出子の相続分を同一にする法改正がすでに1960年代に行われた。前述の総理府調査の10年も前の69年に、西独(当時)もスウェーデンも英国も、法改正で婚外子と嫡出子の相続分を同じにした。その後、フランスも米国も同様の改正をした。
その背景には法改正せざるを得ない社会の実態があった。婚外子が非常に多いのである。たとえばフランスの婚外子の出生割合は驚くことに全体の56%を占めている。嫡出子よりも多いのだ。英国が47%、米国が41%、ドイツが34%である。
子供の半分以上、或いは半数近くが婚外子ということは、結婚や夫婦のあり方自体が大きく変化してしまっているということだ。法律婚やそれに基づくさまざまな約束事を尊重する価値観が薄れているのだ。であれば、婚外子と嫡出子を制度上区別すること自体が意味を失うのは当然である。
千数百年の歴史
だが、日本の社会は欧米諸国のそれとは基本的に異なる。日本の婚外子はわずか2・2%である。男女の結びつきや夫婦、親子、家族のあり方がその国、その民族で異なるのは自然なことで、それぞれ大切に守っていくべき要素であろう。どちらがよい悪いの問題ではない。単に、互いに異なるのであり、そのことを受け入れればよいのだ。だが、最高裁は彼我の大きな差にも拘らず、今回欧米のルールをそのまま受け入れよという判断を下したわけだ。
これがどれほど無理無体なことか、立場を入れ替えて考えてみよう。
日本政府が日本では婚姻制度を大切にしているために、婚外子の相続分を嫡出子の2分の1にしている、欧米諸国もそれに倣ってほしいと逆勧告するようなものではないのか。
ここまで言えば、問われているのは婚外子への差別撤廃である、差別のある日本は欧米の政策を受け入れるべきだという意見が必ず出てくるだろう。その点を理由の③と合わせる形で考えてみたい。
まず、最高裁が指摘したように、たしかに相続の配分を2分の1とした合理的根拠は何だろうかと考える。実はこの問題について先人たちも考えを重ねてきていた。
『新版注釈民法27』(有斐閣)第5編第3章「相続の効力」の有地亨氏の解説を読むと、旧民法は、8世紀初頭に編纂された大宝律令の大宝令を踏襲して嫡出子と婚外子の相続分を1対2分の1としたという。なんという長い歴史を踏まえた価値観だろうかと私は驚いた。だが、人々の生き方を千数百年も規定し続けてきた民法が、日本人の生き方を反映しているのは、或る意味当然なのだ。
旧民法で右の規定が引き継がれた理由を民法典起草委員の穂積陳重博士は「法律ガ愈々婚姻ト云フモノヲ認メテ」おり、「ソレ故ニ嫡出子ト庶子トノ分量ヲ違ヘタノデアリマス」と説明している。但し、「其分量ノ違ヒ方ニ付キマシテハ全ク程度ノ違ヒデアリマシテ」と書いている。
杓子定規に半分なのではなく、法律婚尊重という国家のあり方を反映した措置であり、個人的な人間の情の世界のことだから、良識、常識を働かせてほどほどに塩梅すべき問題だといっているのだ。
当時の議論で興味深いのは、非嫡出子に財産を分けること自体への反対論があったことだ。
「嫡出でない子に嫡出子の2分の1でも法定相続分を認めること自体が婚姻の尊重を謳う現行憲法の精神に反する」という理由である。
このような意見があっても、双方の思いを踏まえて結局「1対2分の1」という古い時代からの仕来りがそのまま民法に定められた。
国の形を規定する役割
対して、「子はすべて平等」「子に罪はない」「子は親を選べない」という声が大きく伝えられ始めた。そのとおりだ。どんな境遇に生まれてきた子供も差別をしてはならない。すべての子が幸せに育ってほしいと思わない人もいない。だからこそ、日本社会はそれなりに多くの努力を重ねてきた。婚外子を区別する戸籍の記述は撤廃され、就職に際しての身上調査も、差別と言われることを恐れて企業側はあまり行わなくなった。差別をなくす方向で社会全体が変化してきたのは確かだ。
そこに今回の違憲判断である。差別をなくすという考え方には賛成だが、違和感が残るのは、最高裁は婚外子が受けてきた差別や悲しみに焦点を当てる一方で、嫡出子の側の思いを見落としているのではないかと感ずるからだ。
今回の判断に関して、和歌山県の嫡出子側は「私たちにとって納得できるものではなく、非常に残念で受け入れ難い」「日本の家族形態や社会状況を理解していない」とのコメントを発表した。
婚外子の側が、差別された、疎外されたと思うのと同じく、嫡出子もその母、つまり妻の側にも深い疎外感と悲しみ、憤りがあるのだ。
法は双方の側の言い分を公正かつ公平に聞いて判断すると同時に、日本の国の形を規定する役割を担っていることを忘れてはならない。婚外子とその母の主張と同じ重さで、嫡出子とその母の主張に耳を傾けなければならない。日本社会は家族の絆を基本として成り立つのであり、その基盤をより確かなものにする方向に、法こそが働くべきだろう。
婚外子への差別をなくす努力と、日本社会の基盤である法律婚、妻や嫡出子の人権を守ることの両方を怠ってはならないであろう。