「 狡猾で論外、中国のTPP加盟申請 」
『週刊新潮』 2021年10月7日号
日本ルネッサンス 第969回
米英豪3か国が、安全保障の枠組み「AUKUS」の創設と、米英が連携して原子力潜水艦の技術を豪州に提供することを発表したのが9月15日だった。
豪州はディーゼルエンジンの通常型潜水艦建造をフランス企業と契約していた。世界で2番目の広大なEEZを持つ豪州は、中国の脅威に対処するためにも潜水艦を必要としている。豪州とディーゼルエンジンの潜水艦共同開発の契約をしていたフランス企業は、しかし、納期を守れないだけでなく、費用も当初案の倍近く、900億豪ドル(約7.2兆円)に膨れ上がった。
自衛隊関係者は潜水艦12隻の建造費がなぜ7兆円を超える巨額になるのか、理解できないと語る。一方で、この莫大な額を考えれば、大使召還に発展したフランスの怒りも理解できるだろう。最後まで秘密にされたことに加えて、大規模ビジネスを米国に奪われた恨みは深いはずだ。米原潜技術の豪州への移転が中国の脅威に対する軍事的対抗策であるのは紛れもない事実だが、そこに大型ビジネスが絡んでいることも国際政治の一側面として忘れてはならない。
この件について、インドは複雑な反応を示している。豪州はよくやったという前向きの反応がある一方、なぜ米国は豪州だけを特別扱いするのか、との反発もある。インドは豪州同様、4か国安全保障協議体、クアッドの一員であり、この何年間か、米国に原潜及びステルス戦闘機を要請してきた。にも拘わらず、インドは豪州のような特典に浴していない、不公平ではないかという不満が渦巻いているのだ。
アフガニスタンからの米軍撤退によって、タリバン、パキスタン、中国の結束が強まり、結果として最大の危機に直面するのがインドだという分析は、大方の戦略家が一致する見方だ。それだけに今回の件も相俟って、インドの米国に対する不信は募るわけだ。
一方、どの国よりもAUKUSに警戒心を強めたのは中国だ。彼らは翌16日、TPP(環太平洋経済連携協定)への参加を正式に申請したと発表した。
酷い国
TPPは単なる太平洋圏を巡る貿易・経済問題ではなく、世界最重要の経済圏における力のバランスを左右する戦略的戦いなのである。その視点から米紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」(WSJ)は23日の社説で「バイデン政権はAUKUS戦略の成功に乗って、TPPに再加盟し、太平洋圏における権益を増進できる」と、TPP復帰を促した。
AUKUS創設に見られるように、国際社会の新たな枠組みは米中両大国がこれからの世界秩序、価値観の戦いを制するための手段であり、経済、軍事を含む多くの断面から見ることが欠かせない。中国のTPPへの加盟申請についても、日本はあくまでも慎重に、多角的に考えるべきだ。AUKUSが軍事を超えた経済戦略の一面を合わせ持つように、TPPは経済を超えて、世界情勢を左右するパワーバランスの問題であることを再度強調したい。
中国がTPP加盟を申請した1週間後、台湾もサッと申請した。茂木敏充外相は「歓迎したい。戦略的観点や国民の理解も踏まえて対応したい」とコメントした。中国の申請に関して「歓迎」という表現を避けたのとは対照的だ。しかし、国内の議論を見ると、「中台の同時加盟案も一案だ」(9月24日、日経朝刊)などの意見が散見され、私は驚いている。
TPPは当初「環太平洋戦略的経済連携協定」と呼ばれていたように、中国の身勝手、国際法や常識に反する行為を許さないための戦略と位置づけられていた。国有企業を優遇し、ウイグル人などを強制労働に駆り立て、企業から最先端技術を奪い取ることなど、許容できないという国際社会の合意だった。
習近平氏の下で、中国は多少なりとも常識の通ずる国になったか。否である。それどころか、以前よりずっと酷い国になりつつある。だからこそ、今のままの中国の加盟は歓迎できないのだ。
では、如何にして中国の申請に対処するか。まず第一に、TPPは中国のような横暴で国際法違反常習国の行動を認めないために創った枠組みであることを忘れないことだ。目標の明確な再認識が必要だ。
第二に、加盟申請に対して、交渉を開始するかどうかを決める基準を守ることだ。シンクタンク国家基本問題研究所の企画委員で明星大学教授の細川昌彦氏が語った。
「6月に英国の加盟交渉の開始を決定した際、TPPのすべての既存ルールに従うための手段を示さなければならないとしました。これをモデルケースにすべきです」
WTOにおける嘘
TPPのすべてのルールに従うと、言葉で誓約するだけでは不十分だ。TPPのルールに従うために国内法を改正し、TPPの価値観に反する制度、たとえば少数民族弾圧のような悪行が行われている場合、具体的にいつまでに、どのように改善するか、またそれを如何に検証するか、などを示さなければならない。
幸いにも英国との交渉は6月に始まった。この英国の事例を中国に適用すればよい。それを明確にしたとき初めて交渉に入れるようにするのだ。
世界は中国が如何にしてWTOに加盟したかを忘れてはならない。巧みに米国を取り込み、騙したではないか。首相も務めた朱鎔基氏が美しく感動的なスピーチをしてみせ、多くの米国人を虜にし、その経過で多くの約束をしたが、WTO加盟から20年近く経ったいまも、全くといってよいほど、実行していない。
TPPの中心軸を成す日本がしっかりする時なのである。中国と安易に交渉を始めてはならない。交渉に入る前に、中国にTPPの全てのルールを守ると誓約させること。それがWTOにおける嘘と同じでないことを証明させるよう、TPPのルール遵守のためにどの国内制度をどう変えるのか、具体的に示すよう、穏やかに、しかしキッパリと求めるのがよい。それなしには交渉自体を始めてはならない。
まず英国に加盟の道を開き、中国よりずっと準備の整っている台湾との交渉に入り、台湾加入を実現するのだ。その間に粘り強く、米国を呼び戻すのを忘れてはならない。
トランプ前大統領がTPPを離脱した2017年以降、米国の対中姿勢は大きく変化した。提示の仕方によっては、超党派で再加盟に挑戦する価値があると、WSJも社説で強調している。米国は決して戻ってこないなどと、悲観してはならない。TPPを本来の目的に基づいて機能させることが、米国抜きでTPPをまとめた日本の特権であり、責任だ。この目的達成には強い信念と楽観が必要だが、日本にはそれができるはずだ。