「 櫻井よしこ×垂秀夫 今夏、習近平が企む『反日キャンペーン』を斬る 」
『週刊新潮』 2025年8月7日号
日本ルネッサンス 第1158回
本誌発売日の7月31日、中国では旧日本軍を題材にした映画が公開される。これを機に習近平主席は大々的に「反日キャンペーン」を展開するという。その企みをジャーナリスト・櫻井よしこ氏と前駐中国大使の垂秀夫氏が一刀両断。今後の日中関係に警鐘を鳴らす。
櫻井 日中関係は今、新しい局面に入っています。習近平政権になってから、日中関係は根本的に変わったと思います。戦後80年を迎える今年の夏は、様々な歴史問題が再燃する恐れがあります。それに対して、我が国は一刻も早く対処する必要があるのに、国内政治が混乱している現状では、まったく構えができていないのではないでしょうか。
垂 そもそも最近の日中関係は好転していると思っている日本人が相当多い。メディア関係者や中国研究者からも、そういった声が聞こえる。例えば、今年の春には、自民党の森山裕幹事長や公明党の斉藤鉄夫代表などが相次いで訪中しました。対する中国は、日本からの水産物の輸入禁止を一部解除する方針を発表。大阪万博に合わせて中国の副総理が来日して、20年以上も続いていた日本産牛肉の輸入禁止を解除する方向に動いた。日本側からすれば改善の兆しだと捉えられていますが、私はこれは表層的で浅薄な見方だと思いますね。
そう櫻井氏に語るのは、2020年から23年末までの間、北京で駐中国大使を務めた立命館大学教授の垂秀夫氏だ。1985年に外務省に入省。自ら志願して南京大学に留学後、キャリア外交官としては異例の北京、香港、台北など中華圏に計8回も滞在。実に40年ちかくにわたって日中外交の最前線に携わってきた。中国では“モノ言う外交官“として恐れられ、現地の政財界に豊富な人脈を持つ「中国通」である。
垂 中国人は常に大きなフレームワークで物事を考えます。中国語で「大環境(ダァーフゥァンヂィン」、日本語で言えば、大所高所の観点からマクロ的に戦略を立てるわけです。ところが、日本人は個別具体的なミクロ案件の解決にこだわる。中国人が見据える世界観を理解していないので、対米関係を考えて単に日本側にエサをまいているに過ぎない出来事でも・好転している・と錯覚してしまうわけです。
櫻井 垂さんがおっしゃったことは非常に大事ですね。訪中した森山幹事長は九州・鹿児島の選出です。地元の畜産業のことを考えれば、牛肉の輸入解禁で彼の顔が立つ。でも同時に中国は東シナ海、台湾海峡などで、大規模な軍事演習を行い日本や台湾を恫喝し続けています。また日本の領空を中国軍機が頻繁に侵犯している。彼らは“尖閣の空は中国の領空”だとして、そこに第三国の日本が侵犯したから我々が追い返した、という風に「認知戦」を激しく仕掛けている。こういった現状を見ると、目の前の水産物や牛肉の解禁、それもまだ実行されておりませんけども、その“口約束”に喜ぶ日本人たちは、自ら罠にはまりに行っているようにしか思えません。
垂 日本の政治家はもっと中国に足を運んだ方がいいとは思います。ただし、相手に尻尾を振りに行くのではなく、言うべきことは言ってくる。そういう意味でのガチの交流をしてほしいと思います。水産物の輸入解禁にしても、当初から日本政府は「福島第一原発のALPS処理水は科学的に問題がない」ことを、IAEAと話し合いながら、サンプリング調査を2カ所やることで示していた。それに加え、中国側の要求で、もう1カ所調査をやることにしたわけですよ。ところが、いざ解禁となったら「福島を含む10都県は除く」とされている。福島で自らも調査して問題ないと分かっているのに、福島等の水産物は解禁できないと。こんな非科学的な話はない。日本政府が一歩でも事案を進めようとしていることは理解できますが、中国側が日本側に寄り添って来ているわけじゃないことを、少なくとも我々はよく理解しておく必要があるでしょう。
「対日攻勢」が強まる
櫻井 実際、この夏には中国の「対日攻勢」が強まることを、多くの日本人は気づいていませんね。
垂 その通りです。歴史問題が相当厄介なことになるでしょう。今年の夏は、中国共産党にとって「抗日戦争勝利80周年」の節目にあたります。中国はこれを最大限に利用して、世界に超大国パワーを示したいと考えています。それが国威発揚と、習国家主席のさらなる権威の向上に繋がる。日中関係において歴史問題がヒートアップするのは間違いありません。それでなくても暑い夏なのに……。
櫻井 劫火の夏になる。
垂 すでに兆候は現れています。まず盧溝橋事件記念日である7月7日、ブラジルで行われたBRICSサミットに習主席は姿を現しませんでした。主要新興国との外交に熱心だったはずの彼は、今年は抗日勝利80周年のキャンペーンをより重視したのです。具体的には、北京の西南にあたる山西省を訪問しました。ここは日中戦争において、かの国で「百団大戦」と呼ばれている大規模な戦闘が勃発したところです。100個以上の連隊が集まって何十万人もの共産党軍が、旧日本軍と初めて正面から戦闘を行った記念地を訪れたのです。
櫻井 旧日本軍が相当痛い目に遭い、局地的に共産党の八路軍が初めて勝った戦いですね。
垂 毛沢東の時代から今に至るまで、中国共産党の“背骨”のように通っているのが「抗日戦争勝利」なのです。まぁ言わば、中国共産党の正統性の拠り所と言ってもよいでしょう。ところが、実際に旧日本軍と戦ったのは蒋介石の国民党軍。毛沢東は戦略家でしたから、八路軍の消耗を避けるため、主に農村でのゲリラ戦を展開して逃げ回っていたのが実態で、密かに農村部に根拠地を固めていた。実は百団大戦だって、毛沢東は自分の指示に忠実に従わなかったとして、勝った後に現場の指揮官であった彭徳懐に激怒しているくらいです。毛沢東にすれば、“愛国主義に惑わされるな!”ということです。
櫻井 その通りですね。
垂 記念すべき節目に、内外から“本当は抗日戦争って国民党軍が戦ったんだけど”などと、陰口を言われるのだけは避けたい。中国共産党だって、旧日本軍と本格的に戦った栄光の歴史があったことを、習主席は内外に示す必要があったわけです。
櫻井 大規模な「認知戦」も仕掛けられる予定ですね。
垂 そうなのです。今年の夏は三本の映画が上映されます。まず、7月31日に中国全土で上映予定の映画『731』です。旧日本軍の731部隊がテーマなので、この日を選んだのでしょう。
櫻井 ハルビンにいた日本軍の石井部隊が、どれだけ悲惨なことをやったかという中国の主張を示す内容になっているのでしょうね。
垂 この映画は、私が中国大使だった時から、制作の準備が始まっていました。まさに80周年の目玉です。また、すでに7月25日に『南京写真館』という作品も封切りされています。いわゆる「南京虐殺」の証拠となる写真をテーマにして、旧日本軍の残酷さを示す内容です。しかし、これでキャンペーンは終わりません。
櫻井 まだあるのですか。
垂 8月上旬に映画『東極島』が上映予定です。日中戦争当時、東シナ海に面した東極島の沖合で、旧日本軍の輸送船がアメリカの潜水艦に撃沈されました。大勢のイギリス人捕虜が海に投げ出されたのを、島の中国人漁民が救出した・美談・を基に、旧日本軍の残虐性を誇張した作品に仕上げたものです。
櫻井 ありもしない偽物の写真や誇張話で反日の大キャンペーンが展開される。
垂 映画そのものは見ていないので、なんとも言えません。いずれにしても、この三つの映画を中国国内で集中して上映させるために、反日でない他の話題作は7月20日までに公開日を早められ、中国映画界の良識派が崖っぷちに立たされています。
櫻井 目を覆いたくなるような事態が起ころうとしているのに、日本側はまったく対応できていませんね。警鐘を鳴らすべき大手メディアの北京特派員たちも、ちゃんと仕事をしているのでしょうか。
外交的な敗北
垂 日本のメディアは、個別映画の報道はともかく、大キャンペーンの到来や、のちに述べる軍事パレードに絡めて大きなピクチャーで報じているものは見当たりません。実は映画にとどまらないのです。7月3日、中国の国務院新聞弁公室が80周年関連の一連の文化イベント(舞台演劇、歌唱会など)を発表しており、この「抗日」大キャンペーンは秋まで続く予定です。私はこうした状況が続くと、在留邦人や日本人学校への襲撃が再発するのではないかと心から心配しています。
櫻井 8月31日と9月1日には「上海協力機構サミット」が北京の隣の天津であります。
垂 中国、ロシア、中央アジア4カ国、それにインド、パキスタン、イラン、ベラルーシの10カ国の首脳が集結します。そして9月3日には、「抗日戦争勝利80周年」のクライマックスである、大規模な軍事パレードが北京の天安門広場で予定されています。中国共産党は、サミットの首脳たちに来賓として参加してもらう考えです。すでにロシアのプーチン大統領が出席することが決まっています。さらに、アメリカのトランプ大統領も招待されたと報じられていますが、今のところ中国政府は否定も肯定もしていません。韓国大統領も招待されているようです。もしかすれば、北朝鮮も来る可能性があります。ベトナムを始め東南アジア各国など、かなりの国の首脳が集まると思います。
櫻井 世界中の国々の眼前で反日キャンペーンが行われる。
垂 中国国内では、このパレードは“世界の三つの大国による3番目の軍事パレード”と喧伝されています。5月のロシア、6月のアメリカに次ぐもので、量・質とも最大かつ最高の軍事パレードにするとも言っている。他国の指導者らは、中国の威容と人民解放軍の強さを思い知るだろうと大見得を切っています。
櫻井 トランプ大統領は出席するのでしょうか。
垂 杞憂だとは思いますが、仮にそうなってプーチンと習近平と並べば、日本からすれば北京で“ヤルタ会談”を彷彿とさせる光景が展開されることになってしまう。日本にとっては、戦後80年で再び「敗戦」を迎えることになる。軍事的ではなく、外交的な敗北になりかねない。
櫻井 ブラックジョークです。
垂 本当にそう。さらに軍事パレードが終われば「918」が待っています。
櫻井 中国では9月18日の満州事変勃発が、日本との戦争が始まった日だと信じられていますものね。
垂 本当に今年の夏から日中関係は歴史問題一色になりますよ。今や中国国内では“石破茂首相を呼んだらいい”という声さえ聞こえてくる。ギャグみたいな話だと思ったら、これまでの石破首相の発言は、基本的に戦争について中国側として歓迎すべき発言が多かったからだと。ドイツの首脳が、先の大戦に関する式典でフランスなどに呼ばれているから、それと同じように、日本の首相も呼んだら面白いんじゃないかとまで言われている。
櫻井 日本は本当に舐められたものです。
垂 昔の中国は、日本を大国として認識していましたが、今やそうは思っていません。これは何を意味しているかと言うと、対日政策そのものがないに等しいのです。誤解を恐れずに申し上げれば、基本的に中国の外交には対米政策しかない。前述したように、中国はマクロ的な視点で物事を見ています。中長期的な中国外交の本質は、自らが求める国際秩序を作ることです。これまでの国際秩序はアメリカに主導されてきた。だから対中外交の本質は戦略的な対米闘争。これが中国の認識です。
「和して同ぜず」
櫻井 そんな中国の前にトランプ大統領が現れた。
垂 トランプ関税は厄介だけれども、実は中国にとって、トランプ大統領は概して与しやすい相手。バイデン政権が指摘したような体制や人権、民主化の問題には全く関心がない。トランプ大統領が重視するアメリカファーストは自国の貿易赤字を減らし、雇用を創出して経済を立て直すことですから、世界の警察としての地位、役割を手放す方向です。国際社会における影響力が低下するのと同時に、欧州との関係も非常に悪くなっている。関税交渉でアメリカと韓国、日本との関係も非常に緊張感が出てきた。中国からすればこんな都合が良い時はない。冒頭でお話ししたように、日本に対しては“ちょっとエサをまいて惹きつけておけばいい”くらいにしか考えていません。
櫻井 なぜこうなってしまったのかを考えてみれば、戦後80年の歴史の中で、日本が独立国として、外交や安全保障をやらなくても良い環境が続いたからではないか。アメリカの顔色をうかがい、与えられた枠組の中で過ごせばよい。だから、中国がするような戦略的な思考が日本にはない。かような日本人を、中国人は蔑んでいるように思えます。垂さんは中国に物を言った唯一の外交官と評価されていますが、これまで日本はあまりにも言わないできた。その理由は、何も言わなくても良いという価値観が、対中外交を支配していたからでしょうか。
垂 あえて『論語』で申し上げれば、日本外交は対中のみならず、対米も含めてすべて「和を以て貴しとなす」という姿勢でした。しかし一方で、『論語』には「和して同ぜず」という言葉もあるのです。協調は大事だけど「同ぜず」、つまりは自分の本質を失ってまで相手に合わせる必要はない、という意味です。その姿勢こそが、今の我々に求められているのではないでしょうか。外交官としての本質は国益の追求。国民の税金を原資とする給料をいただいていたわけですから、他国との協調を求めつつも国益を守るためなら、たとえ相手にとって不愉快なことでも言うべきは言う。私はそう信じて仕事をしてきました。
櫻井 幕末の志士たちには、国家のためには藩もなくなっていい、日本国としてまとまるべきだという国家観があった。世界を見渡し、どういう戦略の中で日本が生きていくべきか。それを彼らは必死に考えた。戦後はGHQに占領されて憲法も変えられて、正しい歴史を学ぶ機会を奪われた。乱暴な言い方をすれば「お前たちは天下国家のことは考えるな。商売をしていればいい」。その枠の中だけでしか、日本人は考えられなくなってしまった。
垂 よく分かります。
櫻井 アメリカがトランプ政権で様変わりして、私たちは自力で中国の脅威に向き合わなければいけなくなってきました。そのような危機に直面した日本は狼狽(うろた)えるばかりです。振り返れば、安倍晋三元総理は政権発足後、中国が求めてきた条件付きの日中首脳会談はしないと決めた。最後は習主席が折れて毅然とした態度を示せましたが、その後の岸田政権然り、中国と首脳会談をするのが目的になってしまった。また石破首相は、日本会議のメンバーが官邸へ表敬訪問した際に「靖国神社のA級戦犯はどうにかならないか」などと聞いたりするわけです。こういうことを口にすれば“親中派”のように見えてしまう。結果的に中国はまともに相手にしてくれない。本当に向き合わなければならない相手に、毅然とできないのが今の日本国だと思います。
垂 中国のみならず、アメリカに対してもそうですけどね。取り繕うことばっかり考えて、厳しいことを何も言えない。例えば石破首相は、トランプ大統領と初めて面会した際に、銃撃事件で難を逃れたことを引き合いに出して「神に選ばれたリーダーだ」と言ってしまった。クリスチャンである石破首相は、キリスト教的な発想があるからか、あるいは日本国民のためにトランプ大統領と仲良くならないといけないと思ったのか。
櫻井 NATOのルッテ事務総長は、ご機嫌を取ろうと、トランプ大統領のことを「ダディ」と言ったりして。見ていられません。
歴史に裁かれる石破首相
垂 悲惨としか言いようがありませんね。私は早くて10年、あるいは50年、100年後にトランプ大統領は歴史から裁かれる存在だと思う。良くも悪くも、どういう政治家だったのかと評価されるのは間違いないでしょう。その時、東アジアのどっかの首相は「神に選ばれた」などと、おべっかを使っていたとかね。日本の国益のために口走ったとしても、政治家であるならば、それを言ったら歴史からどう裁かれるかを考えないといけない。外交で存在感を発揮した安倍さんと違って、石破首相は日本史の教科書などでは、無視されるかもしれませんが……。
櫻井 石破首相は歴史に裁かれる存在だと思いますよ。
垂 少なくとも私は、中国大使になった時に“歴史でどう評価されるか”を常に意識していました。外交官や政治家は国の歴史を作る責任があると思います。そういう意識がないから、相手の歓心を買うことしか言えないのでしょう。
櫻井 安倍さんはトランプ大統領のご機嫌を上手に取っていました。でも、決して石破首相のように媚びたりしなかった。例えば、アメリカ産のトウモロコシを中国が買ってくれないと聞いたら、安倍さんは日本が買いますと申し出た。アメリカから1期、2期、3期、4期と分けて買う約束のところ、安倍さんは2期で前倒しで買いますと報告したら、トランプは勝手に“シンゾーが全部買ってくれる”と思い込み、記者会見でも喜んだりしていた。でも、安倍さんは今まで決めた分量を前倒しで買いますって言っただけ。それでトランプがご機嫌をよくするなら、それでいいわけですよ。
垂 それでいいんです。変に媚びを売ってはいない。
櫻井 例えば、関税交渉ではドイツのメルツ首相が非常にうまく立ち回っています。毎週のようにトランプ大統領と電話でやり取りをしているそうなんです。テキサス州で大洪水があったら「大変なことですね」とか、減税法案が通過したら「ご苦労でしたね。おめでとう」と言って、コミュニケーションを図っている。翻って、石破首相は電話も苦手で、外交で何を話していいかわからない。だから、総理大臣になるべきではない人がなってしまった。日本国の悲劇です。
垂 電話で思い出しましたけどね。コロナの時期、人的往来が完全に停止しましたが、そんな時期でも習主席はアフリカ、中南米、東南アジアなど数多くの首脳に網羅的に電話外交をやっていました。
櫻井 中国はしたたかですね。日本の首相なんて、遠い小国のことなど考えもしないでしょう。
垂 グローバルサウスからすれば、やっぱり大国の中国から電話を貰えれば嬉しいですよ。
櫻井 ほんの10分でいいんですからね。電話なら時間もコストもかからない。やる気の問題です。
垂 そういった中国の外交姿勢は、やはり評価せざるを得ないと思います。まだまだ日本もやれることはたくさんありますよ。
