「原潜事故が警告するロシア軍拡」
『週刊新潮』’08年11月20日号
日本ルネッサンス 第338回
北海道積丹半島のあたりから西へ約400キロ、ウラジオストク東のウラジーミル湾付近でロシアのアクラ級の原子力潜水艦「ネルパ」が事故を起こした。
400キロの距離は、東京を起点にすれば西は京都、北は気仙沼の手前あたり。放射能汚染につながりかねない事故は、比較的近いところで発生した。死者は20人、21人が負傷。原因は消火装置の誤作動と伝えられた。艦内火災は酸素量を激減させるフロンガスが噴出し、鎮火させる仕組みだそうだ。人間は防護マスクをつけなければならないが、そうした安全対策が不十分だったために犠牲者が出たと見られている。
ただ、事故原因や被害の実態についての情報は、尚、不十分だ。同事故がひとつだけ明示しているのは、ロシアも中国もインドも、日本以外の国々は着々と軍事力を増強しているという点である。日本を取り巻く国々は、平和な時代だといって軍備を置き去りにするのではなく、いずれも軍事力の整備を怠らず、新しい軍事技術や装備の研究開発に熱心であることを、日本の現状への警告として受けとめるべきだろう。
事故を起こしたアクラ級の「ネルパ」は攻撃型原子力潜水艦である。潜水艦には攻撃型と戦略型がある。前者は比較的小型で高速で走る。たとえば米海軍の攻撃型潜水艦バージニア級は排水量7,800トン、乗組員134名だが、海中を34ノット/時(時速約63キロ)で駆け巡る。海中深く潜航したままで、魚雷、対艦ミサイル、トマホークなどの対地ミサイルを発射する。
事故を起こしたアクラ級は同9,100トン、乗組員は73人だそうだ。バージニア級より大型だが、約半分の乗組員で操作するのだ。近代化、省力化がぐんと進んでいると見てよいのではないか。
もう一方の戦略型潜水艦はもっと大型である。米海軍のそれは約1万8,000トン、ロシアは2万5,000トンもある。
自衛隊の元潜水艦隊司令官の西村義明氏が語る。
「戦略型潜水艦はミサイル基地を海中に移したものと考えればよいでしょう。海中から敵に対して大陸間弾道ミサイルを発射し、核攻撃をしかけることが出来ます。2ヵ月くらいは平気で潜航を続け、スクリュー音も極めて静かです。一旦潜れば、その所在を突きとめるのは非常に難しい。それだけに、空母を中心に外洋展開する米海軍にとっては大きな脅威です」
米国は潜水艦69隻を保有、その全てが原潜である。ロシアは保有する65隻のうち、45隻が原潜だ。゛海底のミサイル基地″、戦略型原潜は、米国が14隻、ロシアが8隻だ。
空母に関しては、米国の12隻に対してロシアは1隻のみ。空母では米国が圧倒的に有利だが、その米国が恐れるのが、所在を突きとめるのも難しく、海底からの攻撃を得手とする原潜なのだ。
8年で「軍事費6倍」
増え続けるロシアの最新鋭原潜は米海軍への脅威であり、当然ながら日米安保条約を結んでいる日本にとっての脅威でもある。というより、日本独自の力で日本防衛を果たすことが難しい現状では、ロシアの軍事力の脅威は、日本にとってこそ、深刻である。だが、周知のように、プーチン氏は「強いロシア」の復活を標榜する。軍事費を、2000年以来、この8年間で実に6倍に増やしたように、プーチン氏のロシアは大国の基盤としての強大な軍事力の構築に邁進してきた。日本の隣国、ロシアと中国は、いずれも異常な軍拡を続けているのであり、このことにこそ留意しなければならない。
前述のアクラ級原潜は、旧ソ連時代に計画されたが、ソ連の崩壊とロシア経済の破綻のなかで、建造計画が放棄されていた。それを、復活させたのがプーチン氏だ。氏の強いロシアの復活計画で、最新型のアクラ級は、「ネルパ」以外にも、もう1隻が建造されつつある。倍々ゲームの勢いで軍事費を増やし続けるロシアに、では、日本はどんな政策で接してきただろうか。
1999年5月の小渕・クリントン会談で「ロシア原潜解体に関する協力」に日米は合意した。両国が老朽化したロシアの原潜を安全な方法で解体・処理して軍縮を進め、環境汚染を防ぐという美しい目的の合意である。具体的にはウラジオストク近郊の造船所など関連施設でロシアと協力し合いながら、原潜を解体していく取り決めだった。
2000年2月には、河野洋平外相が、右の目的のための1億2,000万ドルをはじめ、都合2億ドル(約200億円)の資金援助をロシアに与えた。だが、ロシア側は全く協力しようとしない。軍事機密漏洩の心配があるとの理由で、必要な情報の提供を拒否し続けて、事業は当初予定の域には全く達せず、遅々として進んでいない。
ウラン再処理委託の罠
今回の事故で、改めて思い知らされるのは、ロシアは老朽艦の解体のために、日本をはじめとする国際社会から多額の援助を受ける一方で、最新鋭の原潜を建造し続けていることだ。他国からの援助を受けながら、今世紀に入ってまだ8年という短い期間に、軍事費を6倍にも増やしてきた。ロシア政府の意図を楽観的にとらえてはならないだろう。
ロシアの態度は到底、納得出来るものではないが、とりわけ、ロシアの軍事力の脅威が、日本にとって直接的、かつ深刻であるがゆえに、日本は厳しく対処しなければならない。
にも拘らず、福田康夫首相の下で開催された洞爺湖サミットでは、日ロ間でウランの再処理をロシアに委託する計画が話し合われた。
温暖化対策の必要性が叫ばれるなか、CO2排出量の少ない原子力エネルギーが注目され、プーチン氏は原子力をエネルギー外交の柱とする考えだ。2007年にはロシアの原子力関係省庁を国営企業としてまとめた「ロスアトム」も設立した。
ロシアはすでにウラン濃縮で世界の4割のシェアを持つ。日本がウラン再処理をロシアに委ねれば、深まる経済交流のなかでロシアは当然、日本の原子力発電の技術を手に入れようとするだろう。日本の最高水準の技術がロシアに移転され、ウラン再処理を通して、日本のロシア依存が高まることになるが、それは果たして国益に適うのか。
ロシア軍事力の脅威の高まりに比例して、日本は本来、ロシアと適切な距離を保ちつつ、ロシアにも対座出来るだけの、軍事力を含む総合力を備えなければならない。しかし、ロシアの脅威の高まりへの問題意識も欠けたまま、ロシアへの援助を続け、ウランに関しても依存する動きを強めつつあるのが日本のロシア外交の現実だ。ロシア政策の冷静な分析と根本的な見直しが必要とされるゆえんだ。