「 今上陛下が研究、光格天皇の功績 」
『週刊新潮』 2017年2月9日号
日本ルネッサンス 第740回
1月24日、「産経新聞」1面トップのスクープが心に残っている。約6年半前、天皇陛下がご譲位の意向を示された当時、光格天皇の事例を調べるよう宮内庁側に指示なさったという内容だった。
光格天皇は今上陛下の6代前、直系のご先祖である。譲位をなさった最後の天皇で、現在の皇室と天皇の在り方に画期的な影響を及ぼした。その生涯を辿ることは、安倍政権の大きな課題であるご譲位問題を考えるのに大いに参考になるだろう。
光格天皇に関して教えられるところの多いのが東京大学名誉教授、藤田覚氏による『幕末の天皇』(講談社学術文庫)だ。光格、孝明、明治の三天皇について記した目的を、氏は「天皇・朝廷は、幕府からも反幕府勢力側からも依存されうる高度な政治的権威を、いついかにして身に着けていったのであろうか。そこのところを考えてみようというのが、本書の主要なテーマ」だとしている。
三代の天皇中、最も注目されるのが明和8(1771)年に生まれ、天保11(1840)年に数え年70歳で亡くなった光格天皇である。天皇在位39年、譲位後は上皇、院として23年、都合62年間君臨した。昭和天皇の在位64年に匹敵する長い期間を通して、光格天皇は闘い続けた。藤田氏は以下のように描いている。
「ときに江戸幕府と激しく衝突しながら、なおその主張を貫こうとする強靱な意志の持ち主」、「ようよう本格的な曲がり角を迎え、腐朽しはじめた江戸時代の政治的、社会的状況のなかで、天皇・朝廷の復古的権威の強化を積極的にはかり、きたるべき激動の幕末政治史のなかで、天皇・朝廷がその主役に躍りでる基礎的条件を主体的に切りひらいていった」
光格天皇を駆り立てた要因のひとつに、天皇即位に至る事情があるだろう。安永8(1779)年、後桃園(ごももぞの)天皇は、夏から病んでいたが、10月になって容体が急変し、29日に急逝した。22歳の若さで、後に残されたお子は幼い女児1人だった。
そこで9歳の祐宮(さちのみや)、後の光格天皇が急遽、後桃園天皇の養子となって皇統を嗣いだ。幼い天皇の父は閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王。閑院宮家は宝永7(1710)年創設の「新しい宮家」だ。
強い皇統意識
その存在は江戸時代にどう評価されていたのだろうか。藤田氏は江戸時代に実際にあった朝幕間の紛争事件を題材にした『小夜聞書(さよのききがき)』という書物を次のように引用している。
「当代の主上(天皇)は、閑院典仁親王の御末子にて、先帝後桃園院御不例(ふれい)の時に御養子になされ、程なく践祚(せんそ)ましましける、よって御血筋も遠く相なりし故に、諸人軽しめ奉(たてまつ)るには非ずといえども、何やらん御実子の様には存じ奉らず、一段軽きように存じ奉る族(やから)もこれありけり」
9歳の幼さとはいえ、このように自分を軽んずる空気を光格天皇は直感したことであろう。若き天皇に、前の前の天皇で上皇となっていた後桜町院が学問に打ち込むよう勧めた。天皇は熱心に学問に打ち込み、18歳までに、「自ら朝廷政務を主宰」する程の立派な青年天皇に成長した。光格天皇の英邁さが窺われる。
そこに追い風が吹いた。光格天皇の生まれた明和8年は日本全体が伊勢神宮への「おかげ参り」の熱に染まり、数百万人がお伊勢さんに押し寄せた年でもある。それに似たような、京都御所の周囲を人々が廻り続ける「御千度(おせんど)」という現象が起きたのが光格天皇17歳の頃、天明7(1787)年だった。ピーク時には約7万人ともいわれる人々が「浮かれ出」て御所の周囲を廻り続けた。
天明の飢饉で米価が高騰し、生活苦が深まる中、人々は町奉行所に頼んでも埒が明かない事案について天皇に救済を祈願した。
天皇はこの機を逃さず、幕府に窮民救済の異例の申し入れをした。藤田氏の文章を引くと、こうなる。
「朝廷側には、おずおずというかおそるおそるという態度がありありと見える。それもそのはずである、飢饉で飢えて苦しんでいる民衆を、なんとか救済するようになどと朝廷が幕府に申し入れるなど、かつてなかったからである。(中略)まさに異例中の異例である」
天皇主導の申し入れに関しては偽文書も飛び、尾ひれがついて「窮民救済に奔走する朝廷と及び腰の幕府」という図式が生まれ、広く庶民の知るところとなった。民は明らかに朝廷を支持し、その支持の高まりの中で、天皇は君主としての意識を強めていった。
光格天皇はまた強い皇統意識の持ち主でもあった。幕府の威光の下で軽視されていた天皇の権威を高めるために次々と手を打った。長く中断されていた神事を再興し、古来の形式を復古させた。新嘗祭がその一例だ。現在は勤労感謝の日などとされているが、これは天皇が新穀を神に捧げ、自らもこれを食する儀式であり、宮中祭祀の中で最も重要なものとされている。
天皇像を模索
神事再興にとどまらず、御所を平安時代の内裏に則って造営することを光格天皇は願った。天明8(1788)年に京都を襲った大火で御所は灰燼に帰したが、天皇はその機をとらえた。紫宸殿や清涼殿などを荘厳な形に復古すべく、内裏造営計画を立てて幕府に要請した。財政難もあり、渋りに渋る幕府に朝廷は迫り続け、最後には要求を通したのである。
その先に天皇の実父への尊号宣下問題が生じた。光格天皇は父の閑院宮典仁親王に太上天皇の称号(尊号)を贈ろうとしたが、尊号は譲位した天皇に贈られるものだ、典仁親王は天皇の位にはついていない、幕府は光格天皇の願いは「親子の恩愛」ではあっても「道理がない」とし、「なお再考を求む」と回答した。
そのとき光格天皇は思いもよらない挙に出た。当時、政務に携わる公家は五摂家に限られていたが、その範囲を超えて広く41人の公卿に勅問(天皇の質問)を下した。
「異例の公卿群議」で圧倒的な支持を得た天皇は、それを背景に幕府に尊号宣下の実現を要請した。結論から言えば、幕府の主張が通ったのだが、藤田氏は一連の経緯について「異例のやり方」と書いている。
光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。
藤田氏が書いたように、光格天皇と今上天皇の共通項は、お二方共にご自分なりの天皇像を築かなければならなかったという点であろう。象徴天皇とは何か、その点を模索され続けた今上陛下のお言葉を、改めて深く心に刻み、考え続けるものである。