「 薬害エイズ裁判の無罪判決ほかを体験してこの連載で私がたどりついた結論真の司法改革には常識ある国民の参加が欠かせない 」
『SAPIO』 2001年6月13日号
司法改革が日本を変える 最終回
政府の司法制度改革審議会は来月の6月12日に最終案を首相に提出する。現時点では2010年までに司法試験合格者を現在の約3倍の3000人に増やすこと、2018年までに法曹人口を現在の約2.5倍の5万人まで増やすことなどを盛り込む予定であるが、あくまでもこれは司法改革の前段階にすぎない。これ以外にも法科大学院(ロースクール)の設置や、参審制の導入など戦後最大の改革がスタートする。各々の問題については様々な角度から論じてきたが、連載を終えるにあたり、日本という国家の中での司法をどのように位置づけるべきか改めて考える。
イギリスに「旅は人の心を狭くする」ということわざがあります。人間は旅した先での経験がすべてだと思いがちだけれど、実際には見えていない部分の方が多いのだという戒めの意味です。日本では旅をして見聞を広めれば視野が広くなると思うのが普通ですから、面白いなと感じて記憶していました。
人間は、自分の体験に基づいていろいろなことを考えます。ジャーナリズムの原点は取材であり、取材は言い換えれば自分自身の見聞であり体験です。それはとても大事な要素ではありますが、同時に、自分が取材したことがすべてだと思うことも間違いです。取材の範囲を越えた事象があることを理解していなければならない。だからこそ、個人的な体験や取材範囲の中だけで考えてはいけないと、先のことわざどおりに常々自分を律してきたつもりでした。
司法改革は、まず法曹三者がいて、加害者と被害者がいて、そして国民の権利、人権、国家の大義、社会の大義などさまざまな要素が混在し、それらが時に共鳴し、或いは時に相反するせめぎあいの中で、考えていかなければならない問題だからです。
私はこの連載の中で、人間というものは、所詮は自分の見聞の中でしか価値判断ができないのかと思わされる事例に行き当たりました。
それは、薬害エイズ裁判における安部英被告の無罪判決です。私は薬害エイズ事件の裁判を、民事訴訟で約5年間、刑事訴訟で約5年間、計10年の間傍聴してきました。その薬害エイズ事件の刑事裁判でまさかの無罪判決が出ました。
薬害エイズ裁判で無罪判決が出る前までは、私は陪審制や参審制の是非について、一定の留保条件をつけていました。有罪なのか無罪なのかの判断に国民の常識を働かせることはとても重要であるにせよ、果たして法律の素人に量刑を決めるまでの判断を任せることは妥当なのだろうかという疑問を抱いてもいました。
それよりも裁判官や検察官、弁護士を含めた、いわゆる法律のプロフェッショナルに任せるべきなのではないかと考えていました。
しかし、薬害エイズ裁判の無罪判決を聞き、判決理由の骨子を何回も繰り返し読むにつけ、もしかすると私の考えは間違っていたかもしれないと思うようになったのです。判決はこれでは薬害エイズで亡くなられた500人以上もの方々は浮かばれないだろうと思うような内容でした。現行の司法制度の中で、裁判官たちは日本国のエリートです。しかし、法律のエキスパートではあっても人間の苦しみや心の葛藤、そしてドロドロとした部分を十分には理解できていないのではないかと思います。
ならば法律には素人であっても、もっと人間的な視点を備えている国民が参加するほうが、むしろ司法のあり方としては健全なのではないか。そのうえで法律上の細かい部分については職業法曹人が過ちのないように補完すればいいのだ、という考えに至ったのです。
すなわち、真の司法改革には全面的な国民参加が必要だということです。これはある意味では国民にとっても非常に決意のいることです。人間が人間を裁くのですから軽い気持ちで司法参加することは許されません。その責任と恐れを背負いつつ、国民が心して司法に参加すべきだと思うのです。
これがイギリスのことわざにいう、人の心を狭くする「旅」にあたるのかどうか。自分のことを自分自身で判断するのは非常に難しいことですので、それは読者の皆様の判断に委ねたいと思います。
思い切って増員すれば「量と質は正比例する」
陪審制や参審制を導入する問題もありますが、司法改革でまず急いでやらなければならないのは、法曹人口の増大です。日本の現在の法曹人口は約2万1000人で、法曹人口1人に対する国民の数は約6300人で、米国の約94万1000人(同約290人)はもちろん、イギリスの約8万3000人(同約710人)、ドイツの約11万1000人(同約740人)にも遠く及びません。先進国の中では最も法曹人口の少ないフランスの約3万6000人(同約1640人)に比べてもずっと少ないのです。
最高裁事務局は裁判官1人が、約300件もの裁判を担当するのは特別の負担ではないと述べました。まさに実情は、少数精鋭主義といえますが、多忙すぎれば精鋭の能力を十分に発揮することができないのではないでしょうか。
従って法曹人口を今の枠の中で少しずつ増やすという方法ではなく、思い切って、大胆に増やすべきだと私は思います。
人数を増やすと法曹のレベルが落ちるから反対だという声もありますが、その指摘はあたりません。
例えば私が1980年に初めてニュースキャスターになったときのことです。当時は、「女にニュースがわかるのか」「女にニュースを読ませるなんて冗談じゃない」という批判の声もありました。私に原稿を触られるのを嫌がり、一字一句変えるのに強い抵抗を示す男性記者も少なからずいました。
それまでテレビ局における女性の仕事といえば、お天気番組や料理番組などが多く、新聞社でも家庭欄や婦人欄しか任されないという時代でした。当時、私は女性のキャスターや女性の記者がもっと増えるべきかという質問を取材のたびに聞かれましたが、もちろん増えたほうがいいと答えました。なぜなら「量と質は正比例する」というのが私の考えだからです。
量が増えればそれだけ質の低い人も増えるかもしれませんが、そこで競い合う中で、必ず素晴らしい人材もその中から増えてきます。同じ理由で、やはり法曹人口ももっと増やすべきなのです。
それと同時に、外国の法律家たちがどんどん日本の司法界に入れるような仕組みを作るべきだと思います。言ってみれば法曹界の自由化です。外国人でも日本語が堪能な人は大勢いますし、日本で活躍したいと思っている法律家も何人もいます。そういう人たちに積極的に門扉を開いていくべきでしょう。
ロースクール構想も問題はあるにしろ、いったん社会に出た人も入りやすいようにするなど、もっと門扉を広げる工夫をすべきだと考えます。
ただ、ここで私たちが思いを致さなければならないのは、「私たちはどんな国を作っていきたいのか」ということです。法曹人口を大幅に増やすにしても、アメリカ並みにして訴訟社会と呼ばれるような社会にしたいのかといえば、多くの日本国民はそう考えてはいないでしょう。
日本の伝統的な社会のあり方、価値観を、もう1度思い起こしながら、その価値観と司法のあり方をどのように整合させていくかを考えていく必要があります。
例えば、権利や自由ばかりを主張するのではなく、責任も義務もあること、自由の裏にはもっと重い自己責任があるのだという、ごく当たり前の常識に立ち戻っていく必要があるように感じます。
裁判で嘘がまかり通る日本の風土
この連載の中でも、日本では被害者に対する保護がないがしろにされ、加害者・被告の権利ばかりが保護されている面があると指摘しました。それと共に、裁判の場における被告人への偽証罪がないことも問題として取り上げました。薬害エイズ裁判でも痛感したことですが、日本の裁判においては、時折、証言が軽く扱われる傾向が見られます。検察官のところでも少し触れましたが、裁判では証人が嘘の証言をすれば罰せられます。しかし、被疑者、被告人は聴取の段階で検察官に嘘をついても罰せられることがないのはおかしなことです。また弁護士も依頼人の利益を守るのが第1であっても、仮に嘘をついていることがわかったり、その恐れがある場合は全力で依頼人が真実を明らかにするように説得する必要があります。しかし弁護人は裁判官ではないとして、依頼者の利益を守るために“嘘”も含めて弁護すべきだと述べた弁護士の方もいました。
たしかに人間は間違いを犯しやすく、嘘の多い存在ですが、裁判という場では、嘘は許されないという大前提が守られるべきなのです。
欧米諸国の法廷では、聖書にかけて嘘は言わないといった宣誓をします。人間を超えた神という存在に対して、嘘をつかないと誓うわけです。しかし日本人には、その“神”にあたる存在がありません。
ロッキード事件の丸紅ルートの裁判で、ロッキード社との窓口役を務めた丸紅の元専務・大久保利春被告は、田中角栄元首相に対する5億円の裏金を認め、その証言が田中元首相を窮地に追い込むことになりました。大久保氏は真実を言ったがゆえに丸紅社内で冷遇されて裁判に臨みました。結局、一審、二審ともに懲役2年、執行猶予4年の判決を受けました。明治政府の立役者・大久保利通の孫だった彼は、起訴後はもっぱら自宅で写経と彫金に励みましたが、「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったそうです。彼は91年に寂しく世を去りました。
かたや同じ丸紅の桧山広元会長は、会社のために嘘をつき通しました。一審、二審ともに贈賄と外為法違反、議院証言法違反で懲役2年6ヶ月の実刑判決を受けましたが、丸紅は彼を極めて厚く遇しました。逮捕後は一時職を退いたものの、一審で有罪判決を受けた後の85年に丸紅の初代名誉顧問として復帰します。そして91歳で亡くなる前年の99年3月までその地位にあり続けました。法廷で嘘をつき通した彼は、最後まで会社から最高の地位と待遇を与えられたのです。
つまり日本社会における神は、「God」ではなく、「利益集団」ということなのでしょう。そして法廷でつかれる嘘が、法曹人たちによっても見逃されるのが、いまの日本の法廷なのでしょうか。
しかし、このような姿が、果たして私たちの国のあるべき姿なのか。以前は想像もつかなかった凶悪な犯罪が次々に起こり、日本は犯罪大国への道を突き進んでいるかのようです。被害者に謝罪もせず、罪も認めない加害者が増え、一方被害者の側にも、相手がどんなに謝っても誠意をもって補償をすると約束しても絶対に許さない、徹底的に叩き続けるという人が現われ始めました。日本人が明らかに変質し始めたと感じているのは、私だけでしょうか。
こうした変化は、日本における戦後教育がもたらした影響がとても大きいのではないかと感じますが、これは司法改革とも間接的につながってくる問題です。裁判の場は、相手の非をとがめたり、自分の権利を主張し、人間性がかすみがちな場です。争いごとをどのように解決していくのか、そこに私たちの望む社会のあり方が凝縮されて映し出されます。だからこそ、司法改革は、視点を広げて社会全体のあり方として考えていくべきです。
当事者の法曹人たちに欠けている危機感
最後に、この連載の取材を通して感じたことは、当事者である法曹界に危機感が弱いということでした。司法改革の必要性を訴える声は、真っ先に経済界から上げられました。日本の司法を変えなければ、国際化するビジネス社会の中で日本は利益を失い続ける、司法面から日本の衰退が起こるという危機感からです。
実際のところ、日本の司法は機能していないに等しいと思います。一審の判決が出るまでに何年もかかるのでは、判決が出たときには時すでに遅しで、役に立ちません。企業にとって、日本の司法はアテにできない存在なのです。また一般の事件でも、被害者は長引く裁判に、補償も受けられないまま苦しみの日々を送らなければなりません。普通であれば深い傷からようやく立ち直り、新しい人生を歩きはじめようとする時期に、まだ法廷で争っていなければならないのですから、これもまた実質的には機能していないに等しいのではないでしょうか。
2割司法、つまり裁判の場に持ち込まれるのは争いごとの2割にすぎないと言われますが、現実にはもっと少ないのではないかとさえ思えます。
こうした日本の裁判のあり方と対照的だったのが、米国の大統領選挙をめぐる裁判でした。2000年11月7日に投票が行なわれた米国大統領選挙は、ブッシュ候補とゴア候補の得票差がまさに僅差であったため、両陣営が再集計や無効票の扱いをめぐって訴訟合戦を繰り返し、最後には連邦最高裁判所がブッシュ候補の勝利を確定するという結果になりました。
米国の弁護士資格を持ち『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書)の著者である、阿川尚之慶應義塾大学法学部教授によれば、この時の合衆国最高裁の対応は、日本では想像もできないほど素早いものでした。
まず、フロリダ州における手作業による再集計をめぐる訴訟合戦の末、ブッシュ陣営がフロリダ州最高裁の判断が連邦憲法に違反すると主張して連邦最高裁判所に上告したのは、11月21日のことでした。連邦最高裁での口頭弁論は12月1日に行なわれましたが、その録音テープは従来の慣例を破って公表され、テレビやインターネットを通じて全米に流されました。
3日後、連邦最高裁はフロリダ州最高裁に対し審理のやり直しを命ずる判決を下しました。これを受けて州最高裁は再審理を行ない、12月11日には内容を一部修正した判決を下しました。
一方、ゴア陣営のフロリダ州内の3郡の選挙結果に対する異議申し立て訴訟の末、ブッシュ陣営が手集計実施の緊急差し止め命令発出を連邦最高裁に求めたのは、12月8日のことでした。翌日、連邦最高裁はその請求を5対4の投票で認め、同時に上告を認めて、11日に口頭弁論が行なわれました。この模様もまた全米に流されました。
連邦最高裁がこの“ブッシュ対ゴア事件”の判決を下したのは12月12日午後10時、口頭弁論が行なわれてからわずか30時間後のことでした。にもかかわらず、判決文は65ページに及びました。しかも判決文は1つではなく、反対意見も交え、全部で6つの意見が別々に表明されました。
この結果、手作業による新たな再集計が実質的に禁じられ、投票から36日後にブッシュ候補の勝利が確定したのです。
連邦最高裁はきわめて迅速に、しかも大統領選の結果を左右するという最も重大な事件に対して明確な判決を下しました。三権分立の1つの長として、十分な機能を果たしたと言えるでしょう。
これがもし日本であれば、どうだったでしょうか。一審の判決が出るまでに何年もかかり、その間に総理大臣の任期はとうに終わり、その間に何人も総理大臣が交代していることでしょう。笑い話のようですが、1票の格差をめぐる裁判では、同様のことが現実に何度も起こっているのです。
もちろん米国の裁判制度にもいくつも問題点はありますが、少なくとも司法が社会と共に呼吸して生きていると言えます。一方、日本の司法は過去の遺物のごとくで、現実的な解決策になりえない。司法が司法として機能していないのです。
そのことが社会に及ぼす損失、害悪は計り知れません。法曹界はそのことを肝に銘じ、司法改革に取り組んでいかなければなりません。そして私たち国民もまた、重い責任を背負う覚悟で司法に参加していかなければならないと思います。