「 外国特派員団に南京事件否定論 」
週刊『週刊新潮』 2007年4月19日号
日本ルネッサンス 第260回
4月2日、立命館大学教授の北村稔氏が東京有楽町の外国特派員協会(FCCJ)で講演した。テーマは「南京事件」或いは「南京大虐殺」である。氏は『「南京事件」の探究 その実像をもとめて』(文春新書)の著者で、今回は同書の英訳本『The Politics of Nanjing』(University Press of America)を引っ提げて、「南京大虐殺」は存在しなかったと主張する展開となった。日本人が、このような説を外国特派員団を前に主張するのは、恐らく初めてである。
実は私は同講演には出席出来なかったのだが、北村氏に激しく迫った特派員がいたことを知り、早速講演録のテープを聞いてみた。
冒頭、氏は南京事件研究についての自らの姿勢を説明した。それは、虐殺の有無を性急に論ずるのでなく、まず、中国政府や連合国が、旧日本軍が「大虐殺」を犯したと断定する根拠となった証左を徹底的に検証することで、彼らの日本断罪が事実に則し、理に適うものだったか否かを判断しようとするものだ。その際、日本人の反論や証拠資料は全て排除した。それらを用いれば、「日本人の自己弁護」ととらえられ、信頼してもらえない可能性があるからだ。北村氏の南京事件の調査研究は、中国をはじめとする諸外国の資料、証言のみに基づいて行われたわけだ。
このようにして先入観なしで研究した結果、旧日本軍が南京で゛無秩序〟や゛混乱〟に陥って便衣兵や捕虜を殺害したことはあったが、一般市民を対象とした゛虐殺〟(massacre)はなかったとの結論に達する、と北村氏は語った。
南京事件は、1937(昭和12)年12月、南京に入った旧日本軍が以降3か月にわたる軍事占領の間に、最大で30万人を組織的に虐殺したとするものだ。氏は虐殺がなかったことの決定的証拠として、わかり易い事例を特派員らに紹介した。
「ラーベ書簡」の読み方
それは当時、南京安全区国際委員会委員長だったドイツ人、ジョン・ラーベの書簡である。ラーベは後に、旧日本軍は虐殺を行ったとの立場に立つのだが、旧日本軍が彼らの言う゛大虐殺〟の最中にあったはずの1938年1月14日付で、日本大使館の福田篤泰氏宛に手紙を書いていた。このラーベ書簡こそ、大虐殺を否定する、というのだ。
手紙には、198年1月に、日本側が南京市内の安全区(主に外国人らが居住する地域)以外の中国住民のために、米や小麦粉を大量に供給したことについて、極めて礼儀正しい表現で感謝の気持ちが綴られている。南京の軍事法廷では、旧日本軍は37年12月から38年2月末頃まで、来る日も来る日も、゛朝から晩まで〟中国人を殺し続けたと断罪された。しかし、実際には、旧日本軍は大量の食糧を供給し、その輸送手段についても協力していた、第三者のドイツ人で安全区の国際委員会委員長だったラーベがそのことで感謝の気持ちを書き送っていたのだ。
北村氏はラーベを、゛ジェントルマン〟と呼びながらも、彼がナチスの一員であること、ヒトラー政権下のドイツと親しかった国民党の蒋介石は、シーメンス社を介してドイツから武器を輸入していたことを語り、ラーベと国民党との親密さを暗示した。
氏は南京大虐殺が゛事実〟とされたのは、物事を大袈裟に言い立て、結果として嘘をつく中国人の文化的特性と、日本を戦争犯罪国に位置づけようとした連合国の思惑とが相俟ってのことだと結論して講演を終えた。
日本在住が長いドイツ人のG・ヒルシャー氏が早速問うた。何人以上なら虐殺なのか。虐殺と大虐殺はどこで線引きするかと。
北村氏はざっと以下のように答えた。旧日本軍が便衣兵だと考えて殺害した人々の中に一般市民もいた。捕虜を食糧不足故に殺害したケースもあった。戦闘及び戦争行為としてのこれらの殺害は無秩序、混乱と呼ぶべきものだ。一方、虐殺は戦争とは無関係の一般市民の殺害である。ナチスドイツがユダヤ人を殺害したホロコーストのような行為だ、と。
ヒルシャー氏は、定義を訊いているのではない、10万人なら虐殺なのか、1,000人でもそうなのか。大虐殺なら数字は変わるのか。ホロコーストは無関係だ、と迫った。
しかし、日本人としてはナチスのホロコーストと南京事件を一緒にされるのは不本意だ。当然、ここは明確にしてほしい。北村氏にかわって、氏の著書を英訳し、731部隊関連の著書もあるハル・ゴールド氏が答えた。
「数字で言うことは出来ない。飽くまでもどのような状況での殺害かが問題だ」と。
事実と誠実に向きあえ
別のドイツ人が質した。北村氏はラーベをジェントルマンと言い、武器商人だと言い、ナチス党員だと言うが、ジェントルマンと武器商人のイメージは合わない、どっちが真実なのか、また、これらのことについて証拠を出せと、テープで聞く限り、かなり感情的な声音で迫っている。
北村氏は、一連の発言についての確かな証拠があることを説明したうえで、「ジェントルマン」を「マン」(あの男)と言い換えても差しつかえないのだと答えた。このあたりは丁寧語を使いがちな日本人なら、相手が如何に変な人物でも、゛あの方は〟という意味合いで゛ジェントルマン〟と言うのはわからなくもない。しかし、外国人は発言を額面どおりに受けとめる。丁寧すぎる表現は国際社会では疑問のもととなる。
他にも特派員らから質問が相次いだが、その中で一人の日本人が異彩を放つ問いを発した。「南京大虐殺説を決定づけたのが英国紙の特派員、ティンパーリーが書いた『What War Means』(『日中戦争南京大残虐事件資料集』青木書店所収)であり、それを書いたティンパーリーは公正中立の記者ではなく、国民党中央宣伝部の要請と資金提供を受けていたのではないか。まさにその点を決定的証拠を以て証明したのが、北村氏の著書の意義であるのに、なぜ、その点を今日は語らないのか」と。
答えは実に意外だった。氏の講演が特派員を対象にしたものであり、ティンパーリーの正体を暴くことは同じ職業の特派員に対して失礼かと思ったというのだ。こんなふうに気を遣いすぎるのは、日本人の習い性なのか。兎も角、この問いに背中を押されるようにしてようやく、北村氏はティンパーリーの実像について語った。
この講演で特派員らが南京事件についての見方を変えたとは、到底、思えない。が、事実に誠実に向き合おうとする記者なら、自分自身で新たな調査や取材をするであろう。北村氏の゛日本的なプレゼンテーション〟が、その扉を開くことになってほしいものだ。