「 『教育』が危ない 」
『週刊新潮』 2007年3月8日号
日本ルネッサンス 第254回
[拡大版] 第二回 今も学校を徘徊する「日教組支配」
安倍晋三首相が力を入れる教育再生への動きが急である。教育関連法案について検討している中央教育審議会は2月25日、学校教育法と教員免許法の改正について基本的合意に達した。
文科省が中教審に示した学校教育法改正案には教育の責任の所在を明確にするための校長以下の縦の指導系統として、副校長、主幹、指導教諭の新設とともに、「我が国と郷土を愛する態度」が規定されている。戦後失われて久しい日本の文化文明への親しみと、そこから自然に生まれる祖国愛の涵養で、まさに安倍政権の教育再生の目玉である。
改正教育基本法にも書き込まれた日本への慈しみがどれほど消失してしまったか。下村博文官房副長官は、学校現場が必要以上に萎縮していると指摘する。
「富山県のある小学校で給食のときに皆で『いただきます』と手を合わせていた。すると、親から『宗教的だ』と抗議が来た。親の主張は非常識であるにもかかわらず、学校は『いただきます』を一時中断したのです。また10年前、伊勢神宮を参拝する修学旅行の高校生は60万人程だった。ところがこの1~2年は2~3万人で推移し、しかも学校側は生徒を内宮に参拝させることなく、鳥居前で解散し、自由行動をとらせるのです。どちらも特定宗教の押しつけなどではなく、日本の伝統文化を感じ、理解するための教育です。学校現場の萎縮がここまで深刻ないま、私たちは『我が国と郷土を愛する態度』を具体的にどう学ばせるのかを、学習指導要領に書き込まなければなりません」
では、現場はどうなっているのか。私の手元に大分県民間教育臨時調査会(民間臨調)による県下95の公立小中学校の「卒業式の実態調査報告」がある。06年3月の同調査は安倍内閣の目指す「国を愛する」心や態度の涵養が、日教組との厳しい闘いに他ならないことを痛感させる。
民間臨調は06年2月に、日教組などが教育現場に余りにも強い影響を及ぼしていることに危惧を抱いた有志約80人が結成した。彼らはいう。
「地元紙は教育環境が整っていると報じますが、私たちはその実態を把握する必要があると考えたのです」
まず、彼らが調べた県下公立学校での昨年の卒業式の形態である。卒業証書を壇上で授与したのは28小学校で全体の42%、中学校は16校で57%だった。つまり、小中各々58%と43%が卒業証書を平場で渡していたのだ。この「フラット形式」は10年程前から採り入れられるようになったという。
「当初は生徒を式典の主役と位置づけて卒業生を壇上に上げ、本来壇上にあるべき国旗を床に降ろしたのです。校長先生は床上に立ち、壇上から降りてくる卒業生に証書を授与したのです。この2~3年は、校長、生徒、全て床上で式典を行う方式が主流です」
『学問のすゝめ』を著した福沢諭吉は中津の出身で、中津を含むかつての大分県人は幼い頃から「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という諭吉の言葉を教えられた。その諭吉はこうも語っている。「今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」
なぜ、人間には結果として大きな差が生まれるのか。
歌われない「君が代」
諭吉は、理由は明確で、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」と説く。学ぶことが大事であり、「学問するには分限を知ること肝要なり」として、分限をわきまえない自由は真の自由でも独立でもなく、わがまま放蕩で許されないと教える。
大分県下の公立校での卒業式典の様子は、諭吉の教えた学びの精神から遠く離れた、異質の世界のものだ。生徒の側の分限の弁えも、知識を伝える教師への当然の尊敬の念も存在しない。
民間臨調は、国歌斉唱についても調査した。すると、「君が代」を斉唱する生徒が一人もいなかった小学校は24校、36%、中学校は19校、68%にのぼった。伴奏は大部分の学校で歌詞入りテープを使用、生徒も教師も歌っていないのに、しっかりと響き渡るのが゛奇妙な感じ〟と報告されている。
国や郷土を愛する想いは丁寧な国旗の扱いや熱い国歌斉唱にも反映されるはずだ。しかし、大分県下の状況は索漠たるものだ。横浜市の状況も大分県同様に厳しい。同市教育委員会は昨年、今後10年間の教育の基本や目標を定めた「横浜教育ビジョン」を発表した。だが、そこには「国家」「国民」の言葉はなく、代わりに「市民」が多用されている。横浜市立中学校社会科の教員が語った。
「教育委員会でさえも、国民とか国家という言葉を使おうとしない。下は推して知るべしで、日教組の影響力は強いのです」
先の教員は中学の卒業式の式次第に「国歌斉唱」と書くか、単に「国歌」と書くかで、職員会議が一時間も揉めたと語る。
「国歌斉唱とすべきだと主張したのは私一人で、あとは皆、『国歌』だけでよいというのです。君が代は個人崇拝の歌だから、主権在民に反する、強制的に歌わせるのは内心の自由に反するなど、まさに一時代前の理由故でした。その間、校長は何もいえないのです」
斯くして式次第には「国歌」のあとに「校歌斉唱」と書き込まれた。
大阪市内の小学校教諭も、出席した卒業式の異常な様子について語った。
「03年の卒業式では国歌斉唱のとき、先生は誰も起立しませんでした。児童も立とうとしません。私は思わず、全員起立!と号令をかけ、児童たちは立ちました。しかし、君が代は歌いません。式典のあと、私は先生方から式を乱したので謝れと糾弾されました。私は彼らの方こそ、きちんと指導していないと反論しました。すると彼らは、内心の自由に従って立つも立たないも自由だと指導していると言いました。これが彼ら、組合員のいう『きちんとした指導』です」
教師は同じ学校での05年の卒業式を黙ってビデオカメラで撮った。それを府議の一人に送り、大阪府議会が問題にし、結果として校長が交代した。
「世の中は少しずつ変わり、起立は当たり前、君が代問題も改善傾向にあります。しかし、これからがもっと難しい。教師、児童が実際に歌うようにしなければなりませんから。学習指導要領では小学校のいずれの学年でも君が代は教えなければならないのですが、日教組や全教の教師が教えるはずがありません」
日本を卑下し、他国を賞賛
国歌を教えない教師たちの日本に対する冷たい視線は、朝鮮半島や中国に想いを注ぐ゛民族教育〟と背中合わせである。05年まで鎌倉市議を4期16年務めた伊藤玲子氏が語る。
「七里ガ浜小学校では1年を通して毎日一時限目の授業の前に10分間、韓国語で韓国の劇を練習させていました。国際化教育ならまず自国文化をしっかり身につけさせることが重要ですが、日本の子供の韓国人化教育のようになっているのです。
また平和教育の名の下に反戦教育を施された子供たちが、『お祖父ちゃんは人殺しをした。日本なんて大嫌い』『中国の人は随分我慢したと思う。本当に可哀想』等と感想文を書いてきました」
伊藤氏の指摘に、同校校長は、事実の確認は出来ないが、現在はそのような教育はしていないと明言する。今は、ハングルではなく、声に出して読みたい日本語の冊子で学ばせていると、校長は繰り返した。
それにしても、日本を貶め、他国を賞賛する奇妙な民族教育は想像以上に根深い。大阪府八尾市の三宅博市議が語る。
「04年10月16日、八尾市の大正中学校の文化祭でのことです。2年生のクラスが『戦争と平和』という展示をしました。馬上の昭和天皇とヒトラーの写真が並んでいました。『上海の゛慰安所″の前に立つ日本軍兵士と従軍慰安婦』とキャプションのついた写真も、『強制連行された朝鮮人』『南京大虐殺』の写真も並べていました。
歴史事実と異なる偏向した写真や説明の数々が、恰も真実のように展示されていました。このクラスの担任は勿論、組合員でした」
同中学では憲法記念日の前に9枚のプリントが社会科の授業で配られた。三宅氏は言う。
「そのなかに何故か、『朝鮮と日本の歴史』というプリントが添付され、『日本の朝鮮侵略』『中国大陸侵略』などと共に『皇民化』とは『朝鮮民族の誇りや文化、伝統を根こそぎ破壊する民族抹殺政策』などとも書かれているのです。そのあとのプリントでは、自分の名前までハングルで書かせていました。この教師は『プリントは家に持って帰ったらあかんで』と生徒に言ったそうです。このことはプリントを入手した父兄が私のところに持ってきて、はじめてわかったのです」
こうした告発に、大正中学校の校長は、「何も話せない」としながらも、「地域の特性というものがある。三宅議員の言うことだけが真実ではない」と弁明した。この種の偏向教育の指導は圧倒的に日教組の教師たちによるのではないか。
だが、日教組広報担当者は反論する。
「私たちは、国旗・国歌の強制に反対しているのであって、各国に国旗・国歌があることを否定しているのではありません。韓国や北朝鮮を賛美したことは一度もありません。互いの文化や歴史を知ることが重要だと考えているだけです」
日教組の彼らは、そもそもどんな価値観に固執しているのか。高崎経済大学教授の八木秀次氏が指摘した。
「日教組の本質は昭和27年の『教師の倫理綱領』に現れています。綱領には、教師は科学的真理に立って行動する、とあります。科学的真理とはとりも直さず、マルクス・レーニン主義のことです」
なぜ破綻したマルクス・レーニン主義に、彼らは未だに呪縛されるのか。それは社会主義は理論的で肯定されやすく、資本主義の価値は経験的にしか理解されにくいからだと武蔵野大学教授の杉原誠四郎氏はいう。
「社会主義者が資本主義者に対して貧富の差が出るからけしからんといえば、理屈としては成り立つのです。
しかし、資本主義の優位が明確になっても、日教組は資本主義体制を崩壊させる路線を続けました。また社会主義国は資本主義国よりも愛国心を強調しています。にもかかわらず、日教組は愛国心を否定し、政府の力を殺ぎ、体制を破壊しようとした。その路線の異常性が今の学校の荒廃に現れています」
「尊敬するのは金日成」
日教組の異質性を、拉致問題を例にして語るのは前出の伊藤玲子氏だ。
「97年には北朝鮮による拉致疑惑が明らかになり、家族会が結成されました。しかし日教組は翌98年に川上祐司委員長自ら北朝鮮に行き、100万円をカンパ、日教組と『朝鮮教育文化職業同盟』などとの交流を深めると確約したのです。その日教組に日本の子供が教育されている。日教組支配を断ち切らなくては日本の教育はよくなりません」
八木教授も強調する。
「日教組元委員長の槙枝元文氏は『金日成主義研究』02年2月号に一文を寄せました。氏は世界の中で尊敬できる人物は誰かと聞かれれば『真っ先に』金日成の名を挙げるとして、『朝鮮人民が心から敬愛し、父と仰ぐにふさわしい人物であることを確信したから』と書いています。さらに金日成と金正日が二重写しになって『何の疑念もなく金正日総書記のことを信頼出来るようになりました』とも書いています」
これは拉致問題が明らかになっていた段階での一文である。八木氏は日教組に「日本教職員チュチェ思想研究会」が健在であることも指摘し、彼らが組織率低下で力を落としていると考えるのは間違いだと警鐘を鳴らす。
「文科省の統計でも、日教組と全教を合わせれば公立校教職員の40%近くが組合員です。残りは殆どがノンポリですから、組合員は第一勢力です。加えて組合員は明確な目的意識の下で政治闘争を行い、必ず職員会議でも発言します。声は大きく喧嘩腰です。こうして彼らは職員会議も学校現場も支配する。校長も教育委員会も彼らの協力なしには、その地位に就くことさえ難しい状況があります」
村山内閣当時の地方分権で文科省は教育委員会に対する監督権限を失い、日教組の支配はさらに強化され今日に至る。だが、いま、教育基本法の改正で、「法に則って行われる介入は教育への不当な介入ではない」とされた。日教組が文科省などの指導に従わないことこそが教育への不当な介入だとされたのだ。日教組はこれを逆手にとって「法律」以外の政令や省令、通達は含まれないと主張し始めたと、八木氏は警告する。
学習指導要領は法律ではないため、国や郷土を愛する態度を学習指導要領に反映させても、日教組が現場で骨抜きにする可能性があるのだ。真の教育再生はこの日教組と闘い抜き、彼らの壁を打ち破ることなしには到底達成出来ないのだ。