「 中国の脅威を前にTPP推進で経済基盤の健全化を図るベトナム 」
『週刊ダイヤモンド』 2012年5月19日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 936
シンクタンク「国家基本問題研究所」代表団の団長として、11年ぶりにベトナムを訪れた。30度台後半の気温と高い湿度で少々疲れたが、興味深い現象を見てきた。
首都ハノイは以前にもまして二輪車の洪水だった。信号待ちのバイクは言葉の正確な意味で無数であり、いまにもレースが始まるかのような雰囲気だ。二輪車の多くが「ホンダ」製で、韓国製や中国製より割高でも、日本製品の品質に対する信頼は抜群であることを示していた。
どの街のどの店にも人が溢れ、彼らは路上に椅子を持ち出したり、じかに座ったりして、ほとんど例外なく飲食をしている。ベトナムの国民所得は年間1,170ドル、10万円程度だ。その所得で、無数のバイクを買う余裕はどうして生まれるのか。現地の三井物産支社長の佐藤元信氏が笑って解説した。
「この国は豊かなんです。コメは三毛作で、食べるには全く困りません。また、国連の統計などからは見えてこない収入を、ほぼ全員が得ていると思っていいでしょう。所得と収入の2つの概念があって、表に出てくる所得と、実際に手にする収入の間には大きな差があると見てよいでしょう」
みずほコーポレート銀行ハノイ支店長の長谷川光伸氏が説明した。
「表に出ない大きなおカネの流れがあります。ベトナム人は収入を得ると、自国通貨のドンをドルや金(きん)に交換する例が多く、政府は国の経済活動の全容を把握できていないと言ってよいと思います。ドンへの信頼が不十分なために、ドン貯蓄が少なく、国民貯蓄が国内インフラに投資されるという、日本の開発と成長を支えてきた仕組みが、ここでは機能しないのです」
ベトナム人が好んで貯め込む資産としての金については、幾通りかの試算が行われているが、アジア諸国の中ではインドに次いで突出した量だそうだ。問題はこうした資産がタンス預金の形で眠っていることだ。国は貧しく、社会開発と経済発展を支えるための資金需要は高いにもかかわらず、国の徴税機能は不十分で、国民の富は闇の中に隠され、活用されないのだ。
このことは、利権ビジネスの横行と表裏一体で、貧富の格差拡大にもつながっている。ハノイで見かけたベントレーなどは、その一端であろう。
こうした状況を改善しなければベトナム経済の活性化はあり得ない。経済基盤が健全でなければ、政治も安全保障も安定しない。そこでベトナム政府が考えたのがTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)である。
周知のようにベトナムは早い段階からTPPを進めてきた。加盟国の総意で決定されるルールが全加盟国に適用されるTPPでは、必然的にルールは普遍的な価値観を反映するはずで、各国を開いていく方向で機能する。共産党一党独裁のベトナムにとって、TPPが現体制を緩やかに変質させていくことにはならないか。そのことを彼らはどう意識しているのか。
そう尋ねると、ベトナム社会科学院の研究者らは、そうしたこと以前に、TPPでベトナム社会の旧弊を打破出来ることのメリットを強調した。確かに、外圧で国内改革を推進する手法は、日本もたびたび体験済みだ。
共産党中枢部や特権階層の力を弱める結果になりかねないTPPをベトナム政府が推進していることは、その将来像を推し測る重要な鍵となる。東南アジアのもう一つの社会主義国、ミャンマーの民主化にベトナムはおおむね好意的で、この点も中国と大きく異なる。中国の脅威の前で、ベトナムは中国離れの印象を与えて刺激することのないよう慎重な外交、安全保障政策を展開中だ。そのベトナムが一党体制に影響しかねないTPPを国力整備の基本政策と位置づけ、自力を高めようとしている。野田佳彦首相はこのベトナムの姿勢に倣うべきではないか。