「 脆弱な日本のテロ対策を支える男たち 」
『週刊新潮』 2025年12月11日号
日本ルネッサンス 第1175回
『CBRNE(シーバーン)戦記』(産経新聞出版)を一気に読んだ。杏林大学病院の救命救急センター長であり、東京都災害医療コーディネーター、東京DMAT運営協議会会長を務める山口芳裕氏の著書は、日本人全員に火を噴くような勢いで警告を発している。わが国に迫るテロ、安全保障上の危険をもっと切迫した危機として認識せよと訴えている。あらゆるテロに対して国家としての備えが世界一といってよいほど甘いわが国の現状を抉り出している。
シーバーンとはC(化学物質)、B(生物)、R(放射性物質)、N(核)、E(爆発物)の頭文字である。今日の安保上の脅威の内で非対称兵器として恐れられている筆頭である。世界のテロ国家、テロリストたちが強い関心を持っていることでも知られる。その理由はコストパフォーマンスが抜群によいからだと山口氏は別の書、『国力研究』(共著、産経新聞出版)で次のように説明している。
「一キロメートル四方の住民を殺傷するためのコストは爆薬など一般兵器の場合は二〇〇〇ドルであるのに対し、核兵器では八〇〇ドル、化学兵器では六〇〇ドル、そして生物兵器ではわずか一ドル」だ。安価に大量殺人をやってのけられる手段をテロリストは見逃さない。9.11を仕組んだオサマ・ビン・ラディンはインターネットで炭疽菌を1キロ20ドルで売り出していた。
ロシアがウクライナに侵略戦争を仕掛けた2022年2月以来、世界は目に見えて変わった。国際社会の秩序が破壊され、力が物を言う時代に逆戻りし、戦争の戦い方が劇的に変化し、一言でいえば非対称兵器の時代になった。
今年9月、山口氏がシーバーンの専門家として参加したロンドンでの欧州最大規模の防衛装備・技術の展示会「DSEIUK2025」では、10年20年先の戦争を念頭に置いた未来型の展示物ではなく、戦場ですぐ使える即時型・現実型の展示に力点が置かれていたという。とりわけ圧倒的なボリュームで展示されていたのがドローンやAIを搭載した無人航空機、船舶、地上走行車輌、軍用犬ロボットなどだった。
大谷選手らがテロの標的に…
ウクライナ軍は11月28日も、ロシアのタンカー2隻をわずか数十万円の水上ドローンで攻撃、炎上させた。9月11日には黒海艦隊所属の数十億円もする艦艇をこれまた安価な水上ドローンで戦闘不能に陥らせた。6月1日には「クモの巣作戦」でロシアの虎の子の戦略爆撃機41機をドローンが破壊したことも記憶に新しい。
ドローン自体、文字どおりの日進月歩である。高度1万5000メートル以上を24時間以上飛行し、最高時速は2000キロ、航続距離1600キロなどというものもある。AIを搭載することで標的を追跡、捕捉し破壊する。1人のオペレーターが数百機のドローンを操る時代になった今、この分野の開発に遅れればその国家は脆弱極まる存在となる。
山口氏はあらゆる事態に備える米国の努力を紹介しているが、彼らの危機意識の高さとわが国のそれを較べれば背筋が寒くなる。今年9月、ロサンゼルス警察のセキュリティ担当者らとテロ対策について協議した折、彼らはテロリストの米国攻撃の可能性を幾通りも想定し、最も蓋然性の高いシナリオとして、大谷翔平選手や山本由伸投手らが活躍するドジャー・スタジアムでの化学物質の散布を想定していたというのだ。5万人超の観客で満席になったスタジアムに敵対勢力のテロリストが「カルフェンタニル」を散布すれば死者は数千人に上るだろう。
カルフェンタニルという名称から、米中間の深刻な摩擦の原因となっているフェンタニルが連想される。山口氏はカルフェンタニルはフェンタニルの100倍、モルヒネの1万倍以上の強力な毒性作用をもつと指摘、食卓塩わずか数粒、0.6ミリグラムに当たる分量で成人を死亡させる。
カルフェンタニルは無色、無臭の粉末で、これをエアロゾル(霧状)にしてドローンから散布する。吸い込んだ人は呼吸停止と意識障害を起こして短時間で死亡するそうだ。
カルフェンタニルが使用された事例は実はすでにあるのだ。02年モスクワ劇場占拠事件の時だ。ロシアの特殊部隊は922人の観客を人質にしたチェチェン独立派武装勢力制圧のために、ロシア連邦保安庁の特殊部隊を劇場内に突入させた。その時に使用したのがカルフェンタニル含有ガスだった。作戦で制圧には成功したが、人質922人の内129人もが死亡した。
生物化学兵器による殺人において、ロシアは悪名高い国だ。プーチン大統領はこれまでに数限りない政敵、ジャーナリストらを悪魔的手法で殺害してきた。そして実は中国も同類だ。
麻薬戦争は終わらない
中国共産党が戦略的に米国にフェンタニルを流入させていることは、当欄でも度々指摘してきた。山口氏も同様の見地からこう書いている。
「中国の治安当局は、違法フェンタニル買売を捜査する米国の法執行機関から協力を求められても応じないばかりか、捜査対象者に通知(内通)することさえあったという。(中略)フェンタニルは中国政府の意図的な戦略により、満員のボーイング737型機が毎日墜落するのに匹敵するほどの命を奪い、米国民に壊滅的な影響を与え続けている」(『CBRNE戦記』)
中国の習近平国家主席は「国家の安全」を何よりも重視する戦略を打ち出している。中国が米国より強くなるという戦略だ。軍事的に強くなるのは無論のこと、国家社会の統一性、安定性において中国は米国より堅固な基盤を築くと決意しているのだ。合成麻薬の摂取で米国の若者たちが死亡し、米国が内部から弱体化していくのは大歓迎だろう。
フェンタニルそしてカルフェンタニルに関する米中交渉では、習氏は幾度も密輸を止めると約束した。しかし、習氏は確信犯である。米国人の平均寿命を下げさせるところまで死をもたらした麻薬戦争は容易には終わらないだろう。
さまざまな危険から国民の命を守ることの困難さが、山口氏の著書には綴られている。身体をひどく損傷した患者に文字どおり全力で救援の手を差しのべる氏の姿は深く私の心を打つ。東京電力福島第一原発事故の際、東京消防庁指令室からの要請で氏は直ちに現場に向かった。そのとき、氏は大学生になった子息に遺書を書いてメールで送った。遺書を書かなければならないほど、危険な任務だったのだ。
「お母さんと沙希子のことを頼む」と結んだメールに長男はすぐに返事を書いてきた。
「死の覚悟をもって福島の地に赴かんとする父を誇りに思います。幾多の苦難を乗り越えてきた父上、必ずや責務をまっとうされることを信じます。どうかご存分の働きを。ご武運を祈ります」
こんな立派な日本人に私たちは守られている。












