「 靖国で天皇も政治利用するのか 」
『週刊新潮』 '05年6月9日号
日本ルネッサンス 第168回
中国が靖国問題への批判を続けるなか、自民党中枢部に天皇家の参拝を口実とした分祀分霊論が起きている。一例が国会対策委員長の中川秀直氏である。氏は、私の知る限り2度(5月8日の『サンデープロジェクト』、5月29日の『報道2001』)、“A級戦犯”が合祀されているために陛下が参拝出来ない状態は正さなければならないとの主旨を述べた。
小泉純一郎首相に信頼され、国対委員長を務める氏は政権の中枢人物だ。保守政権を担うその人物の発言にしては意外である。なぜなら、天皇家が靖国神社参拝を控えたのは“A級戦犯”合祀とは無関係だからだ。
天皇家は、昭和50(1975)年11月21日の昭和天皇皇后両陛下の参拝を最後に、今日まで、靖国神社には足を運ばれていない。理由の説明は一切ない。ただ、推測は出来る。
時の首相、三木武夫氏は昭和50年8月15日に靖国神社に参拝したが公用車を使わず、肩書きを記帳せず、玉串料を公費から支払わず、閣僚を同行しないことの4条件を以て、「私的参拝」だと述べた。
同年11月21日、前述のように天皇皇后両陛下は靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者記念墓苑に参拝された。ところが、前日の11月20日の参議院内閣委員会で日本社会党がこれを問題にした。野田哲、秦豊、矢田部理の3議員が質問に立ったのだ。追及を受けた吉国一郎内閣法制局長官は遂に、天皇の参拝は、「憲法第20条第3項(抵触=筆者・注)の重大な問題になるという考え方である」と答えた。
「信教の自由」を謳った第20条の第3項には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と記されている。
それでも陛下は翌日、予定どおり参拝なさった。陛下の参拝とりやめは、参拝をめぐる政治的論争がおさまらないことを懸念した宮内庁が決定したものと思われる。
“A級戦犯”が靖国神社に合祀されたのは、それから3年後の1978年秋の例大祭のときである。そのことが新聞やテレビで報じられたのはさらに半年後の翌79年春の例大祭の直前である。3年の時間差と前後関係から、陛下の靖国参拝中止と“A級戦犯”合祀を因果関係で結ぶのは無理だ。陛下が参拝出来る状況を作るために“A級戦犯”を分祀するという主張は俄に説得力を失う。
中国に屈服する政治家たち
自民党中枢に位置する中川秀直氏がこうした事実を意図的に曲げているとは考えられない。誤解かもしれない。だが万が一、誤解なら、速やかにその誤解は解かねばならない。解かずに、陛下も参拝出来ない状態ではまずいから、“A級戦犯”を分祀すべしと主張し続けることは天皇の政治利用であり、これこそ許せない。天皇の政治利用こそ憲法違反であり、政治家として踏み込んではならないものだ。もしそこまでして“A級戦犯”を分祀させようとするなら、その政治姿勢は日本の国益や名誉よりも中国の国益と面子を重んじるもので、中国への屈服外交だと非難されても仕方がないだろう。
昭和天皇は、自らの名の下に日本が戦った第二次世界大戦とその犠牲者について、誰よりも深い哀悼の想いを抱いておられたはずだ。戦いで、或いは東京裁判をはじめとする戦争裁判で、犠牲になった全ての人々の慰霊を何よりも大切な務めだと思っておられたはずだ。だからこそ、陛下は靖国神社に関して悲痛ともいえる和歌を残している。
「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」と詠まれたのは、昭和61(1986)年8月15日である。前年の85年、中曽根康弘首相が靖国神社を公式参拝し、中国がそれを非難した。氏は中国の非難を恐れてその後は参拝を中止した。右の歌はそのような政治の軋轢のなかで翻弄される靖国神社と、合祀されている“A級戦犯”をも含めた全ての人々に対する深い想いを表現したものだ。
昭和63(1988)年8月15日、崩御の4ヵ月半前にも和歌を詠まれた。
「やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」
何の兆しがあるかの解説は、無論ない。だが、世の中の靖国を巡る空気は、たしかに柔らいでいたのではないか。たとえば、1975年には天皇の参拝は憲法20条第3項の重要な問題とされたが、77年には三重県津市の地鎮祭訴訟の最高裁判決が、88年には殉職自衛官合祀訴訟の同じく最高裁判決があった。いずれも合憲との判断を通して、政教分離についての考え方も変化してきた。
政教分離は、国家と宗教の関わりを全面否定したものというより、信教の自由を守るための保障だという考えが認識された。津市が神道式の地鎮祭をとり行うことが他宗教への圧迫や干渉にはならないという考えでもある。最高裁の判例は、憲法にうたわれている政教分離は限定的なものだと言ったに等しい。
国に殉じた人々への想い
崩御の少し前に出されたこれらの最高裁判決を“きざし”と解釈された可能性はあるのではないか。いずれの歌からも靖国神社参拝を熱望なさる心情が伝わってくる。陛下の心中の“うれひ”は“A級戦犯”合祀よりも、国に殉じた人々への政治家たちの言動に対する深い失望ではなかったのか。再度、中曽根氏の公式参拝を振りかえってみる。
日本政府は、首相による靖国神社公式参拝について、1980年の鈴木善幸内閣のときに「違憲の疑いは払拭できない」という政府見解を出していた。だが、85年には、同見解は大きく変更された。藤波(孝生)官房長官名の談話には、公式参拝は「今回のような方式によるならば、社会通念上、憲法が禁止する宗教的活動に該当しない」と書かれていた。
「今回のような方式」とは、二礼二拍手一礼などの神道の祭式を一礼のみにするなど簡略化した方式のことだった。中国に気兼ねしてこのように定めて、参拝したにもかかわらず、中国の一喝で中曽根氏は挫(くじ)けたのだ。
首相が国民を代表して国に殉じた人々に感謝し慰霊することが憲法違反であるはずがない。遅まきながら、政府は統一見解を変更して公式参拝は違憲ではないとした。当然のことを認めた矢先であるにもかかわらず、中曽根氏は外国の意向故に、日本国の土台を揺るがせた。陛下はそのことを悲しみ、「うれひはふかし」と詠まれたのではなかったか。
天皇の心をこれ以上曲解し、踏みにじることは許されない。国民と共にありたいとする天皇家の想いに配慮するなら、“A級戦犯”を含む全ての人々の慰霊のためにこそ、靖国神社にお越し頂くのがよいのである。努々(ゆめゆめ)、“A級戦犯”を外して、などと考えてはならない。まして「陛下のために、A級戦犯を外す」などとは、万が一にも言ってはならない。