「 『フロンティア』は目の前にある 」
『Voice』 2001年1月号
竹中平蔵・櫻井よしこ連載対談 目を覚ませ、日本人 第1回
竹中:いよいよ21世紀ですね。新しい時代は、豊かで楽しくて知的な日本の社会のなかに住んでいたいものです。
櫻井:ほんとうに、そう思います。いまの日本は何か、先行き不安の想いのなかにあって、自信をなくしていますから。
竹中:ただ、そうした社会をこれからつくっていくにあたって、もうしばらく暗い時期を我慢しなくてはいけないでしょうね。最初の5、6年は、いままでのツケを払わなくてはならないでしょうから。これからの長い100年にやりたいこと、夢はたくさんあるにもかかわらず、「負の遺産」の支払いから始めなくてはいけないというのは、ちょっと辛い。しかし逆の見方をすればフロンティアが開けている、楽しみの多い時代ともいえるかもしれません。
具体的にいえば、20世紀の終わりに2つのフロンティアが急に開けてきたと思います。ひとつはグローバリゼーションというかたちでマーケットのフロンティアが拡大しました。もうひとつはIT革命というかたちでもたらされた技術のフロンティアです。ところが、ここ2、30年の日本を考えると、どちらもあまり得意な分野ではない。先ほどの「負の遺産」と合わせて、私たちは二重の苦闘から出発するのです。ただ、ものは考えようで、これ以上悪くなりようがないところからスタートするのですから、今後はよくなるに決まっています。その意味でも、チャレンジング・スピリットをもって臨むべき21世紀が始まるのではないでしょうか。
櫻井:私も、21世紀のスタート時点では、日本は他の国に比べてマイナス要素が大きいと思います。それはたんにグローバルマーケットや技術革新の波にどれだけ乗り遅れたかということ以前に、心の問題があるのだろうと思います。あえていえば国民教育において日本はハンディを背負っている。何をするにも「私たちにはそれほど力がないんじゃないか」と思ってしまって、素直に前に進めない。それどころか一瞬戸惑って、むしろ半歩後ろに下がる心理がある。悪いことに、国際的には半歩下がるような国に対してはもっと下がらせるという力学が働くのですが、そうした力学の犠牲者に、喜んでなるという心理が、戦後50年のあいだにできてしまったと思います。
また、IT革命に乗るにしても、それには想像力が要るのですが、日本は知的なバイタリティをなくして、想像力に欠ける民族になってしまいました。いまの日本のどこにフロンティアがあるかといえば、政治にも行政にもない。経済界のごく一部にしかない。それが日本全体を引っ張っていく活力になりうるか。
私は、日本が日本らしさを発揮できるのは環境面だと思います。21世紀、地球の最大の問題が環境問題であることは明らかですが、この分野でイニシアチブを発揮する技術も実績も、日本には十分にあります。環境問題を引き起こしては、それに対処してきた。事後対策でありつづけるのは情けないのですが、それでも環境改善技術はすばらしいものをもっている。この分野でならリーダーシップを発揮する技術があるのに、この面でも後れをとっているのは残念です。
竹中:先の「21世紀日本の構想」懇談会の報告書のなかに、「フロンティアはわれわれ自身のなかにある」という興味深いキーワードがありました。アメリカ西部開拓時代、荒地を見た人には二種類のタイプがいたと思います。強い意欲と野心をもっている人は大きな希望を感じたでしょうし、そうでない人にとってはただの荒地でしかなかった。
櫻井:絶望でしょうね。
竹中:絶望です。しかし、それがフロンティアというものでしょう。われわれの心構えを映す鏡なんです。意欲と希望さえあれば、どんな道も怖くない。問題は、その意欲と希望が日本人にあるかということです。
教育について、面白い調査結果があります。「あなたはこの1年間、仕事以外に自己研鑽のために何か勉強をしましたか」というアンケートに「イエス」と答えた人の割合が日本では9.2%つまり11人に10人は勉強をしていないのです。8年前の同じ調査では9.4%でした。そんなに変わっていないじゃないか、なんて思ってはいけません。この数年間、「これからは会社だけに頼ってはいけない、自分の技能を高めて自己責任で生きていけ」という議論をさんざん聞いてきました。グローバリゼーションだから英語ぐらい話せるようになりましょう、IT革命の時代だからパソコンぐらい触ってみましょう、とね。だから9.4%が20%くらいに上がっていると思いきや、逆に下がっていたわけです。
いま教育が問題になっていて、若者の学力が落ちたとか子供の心が荒んでいるといいますが、日本の教育の最大の問題は、大人が勉強しなくなったことです。高度成長期の日本人はこんなに情けなくなかった。チャレンジング・スピリットをもって、なりふり構わず何かやってみようという、いわば無節操さこそが日本の活力だったのです。しかし「勤勉な日本人」はもう昔の話です。勉強が必要なことはわかっているのに、やらない。この後ろめたさこそが、私は閉塞感なのだと思います。「負の遺産」のいちばん大きな問題です。
櫻井:負の遺産といえば、2000年5月に福岡で起きたバスジャック事件について、日本では「17歳の少年の犯罪」であることが重視されましたね。しかし外国の人は、それ以上にバスの後ろの窓から男性の乗客が逃げたことを重視しているのです。もちろん、あの方には逃げる権利も自由もありますし、その場にいなかった者が軽々しく論じられる問題ではないので、あくまで一般的な話です。ただ、外国人の記者たちから「日本の男は逃げるんだねぇ」といわれ、嫌な気分になったことは確かです。「あなたの国ではああいう状況で、逃げるチャンスがあっても逃げないのか?」と聞き返しましたら、たいがいの人が「Absolutely No(絶対に逃げない)」というんです。「どうしてか」と聞けば、「男というのは逃げないものだ」というのです。さらに、「絶対にどうにかなるはずだ」ともいっていました。男の人が5人も乗っていて、あんな少年1人、飛び道具をもっていたわけではないのだから、というのです。私はこの話を聞いて、物事を解決するうえで、「どうになかなるに違いない、どうにかしてみせる」という心意気が、日本人から失われつつあるように思いました。あまりにも優しく、お行儀よくなってしまったんです。奇妙な「優しさ」が、日本中に溢れています。地球に優しい、子供に優しい、お年寄りに優しい、あれにもこれにも優しい……。ほんとうの優しさは強さを伴ったものであるのですが、強さが出てこない。教育の場でも、表面的な優しさは教えても、その優しさを実践するために、人間としてどういう知性がなくてはいけないか、どんな勇気が必要なのかをまったく教えていないのです。大人の教育も同じです。
まもなく自民党が潰れカオスが起きる
竹中:いまおっしゃった「力を合わせればどうにかなるはずだ」というのは論理力の問題です。大人の社会に、論理力が決定的に欠けている。日本人は感性を大事にしてきた民族で、そのすばらしさはたしかにもっているのですが、その裏に本来あるべき、ベースとしての論理力を失って、感性だけに流されています。そしてこれをいちばん失っているのが永田町なんです。民主主義は論理に裏づけられた形式なのですが、それをまったく無視したことが平気で行なわれ、かつ、それに論理で対抗する手段をわれわれはもっていません。本来ならば「一票の格差はおかしい」というのが当たり前の論理ですが、「論理はそうだけれど済んでしまった選挙はいいことにする」という判決を出したりする。
また、政策にはアメとムチが必要なんですが、日本の政策にはアメしかない。それが巷に溢れる「優しさ」です。ITに関していえば、国民是認が親しめるような教育が必要だということでいくつかの政策が検討されたのですが、うまくいかない。アメだけだったんですね。しかし逆に、ムチだけの政策をとることもできるのです。たとえば、極端な例かもしれませんが、「住民票は市役所では受け付けません、ネットでお願いします」とすれば、ネット人口は一気に広がります。大学生がインターネットを始める最大の理由は、就職試験のためです。ネットから登録しないと企業に相手にされない。だから、ぶつぶついいながらも否応なくやるんです。ムチだけでいいとは思いませんが、ムチとアメの組み合わせ、論理力と感性のバランスを考えなくてはならない時期にきているのではないでしょうか。
櫻井:論理力を育てることは現実を見るところから始まりますから、建て前よりも本音の世界でより強く出てくる性質のものだと思います。日本で最も本音で勝負するのはビジネスの分野です。そこでは、竹中さんがいわれたように荒野を夢の土地と見る発想が生まれてきますが、政治はどうでしょうか。なかなか本音がいえない。建て前を重視しなければならないのが、政治ではありますが、日本の政治はあまりにも本音を恐れています。憲法問題など典型的な事例です。となると、政治分野では必ずしも“夢の土地”ばかりではないように思います。アメリカは、日本はグローバリゼーションの暴力的な力で経済のみならず、政治も安全保障も変わらざるをえないと見通しているようですが、私としては半世紀前のように日本が再び他国の力で変えられるのはよくないと考えています。IT革命が、日本が自ら変わっていく手立てになってくれないかと考えているのです。ITという神さえもびっくりしてしまうようなすごいツールが、経済にとどまらず、戦後日本の閉塞感を打ち破る手段になるのではないかと、大きな期待をかけています。
竹中:私は経済学者ですから、少し理屈っぽくいいますと、市場メカニズムというのは論理です。高い物は売れず安い物は売れる、いい物は売れて悪い物は売れない。そして論理の世界では、「変なことは長く続くはずはない」。これは政治にも経済にも、あてはまらなくてはいけないんです。バブルのときにそう思っていれば早く収束していたのですがね。何がいいたいかといいますと、マーケットとは論理であり、グローバリゼーションとIT革命はマーケットメカニズムが速やかに働くような圧力をかけたということです。マーケットメカニズムが働くためには三つの条件が必要です。それは、売り手と買い手が多数いること、参入と撤退が自由であること、どこがよくてどこが悪いかという情報を、売り手も買い手ももっていること。そのときにマーケットメカニズムが働く、つまり理屈どおりになります。そしていま、グローバリゼーションで売り手と買い手が増え、規制緩和で参入と撤退が自由になり、IT革命で完全情報公開になったのです。規制に守られた状況から変わらざるをえなくなってきました。問題は変わり方です。ヨーロッパでは、大陸からイギリスを見て「11時50分の国」というそうです。
櫻井:11時50分の国?
竹中:ぎりぎりになるまで何もしない、ということです。つまり、シンデレラは12時直前に帰る準備をするから、慌てて靴を落としていくというのです。これは、危機管理に対して鈍感な島国の特徴だそうで、日本も同じです。その一つの証拠に、日本はカオスのなかでしか変わらない。明治維新も戦後も、カオス状態からの変革でした。しかしカオスで変わると、ご指摘のように自分たちで制度設計ができなくなり、外圧に影響されてしまうのです。だからカオスが起こる前に変わりたいというのが、政策研究者の立場です。ではなぜ、日本はここまで悪くなったのか。じつはそれが最大の問題で、「カオスが起きない」というカオスに陥っているのではないでしょうか。
櫻井:でもカオスが起きないカオスというのも、いま、とても揺らいでいますね。
竹中:カオスまで、もうだいぶ近づいているでしょう。
櫻井:ええ、1300兆円個人金融資産があるとはいえ、目減りしていますし、郵便貯金は実質的に不良債権になっています。それを払い戻すためには税金から補填しなくてはいけないということにもなりかねない。年金も破綻します。これは完全なカオスです。
でも、いちばんわかりやすいカオスは、自民党が潰れることから始まるのではないか。首相が近々代わるかどうかは別にして、あと1回か2回の選挙で、自民党が消滅しても驚きません。なぜかといえば、自民党は利権政党であるからです。中選挙区制時代から、農業であれ漁業であれ建設業であれ、業界団体の利権を守ることで票をとってきた政党です。しかし、あっせん利得処罰法が成立しました。連座制も成立しています。インターネットで情報は入ってくるし、情報公開法も施行されます。サんな時代に、これまでの利権政治が成り立つはずがありません。先の総選挙で、自民党の古参議員がかなり落選しました。民主党は3分の1が新人です。政界全体で世代交代が激しく、従来の利権構造がそのまま続くことは難しい状況になっています。イタリアのキリスト教民主同盟は40年間、共産党に政権を渡さないためにいろんな政党と連立を組み与党を維持してきたのですが、日本と同じように小選挙区制になり、制度改革や社会変革が起きるなか、わずか2回の選挙で消えてなくなりました。カナダでも、与党の議席がゼロになるという事態が起きています。まもなく、自民党にそれが起きると思います。かといって、民主党がすぐに政権政党になれるかというと、そうはいかない。ここに、政治的なカオスが起きてくるでしょうが、私たちはそれを恐れてはいけません。むしろ、カオスを楽しむくらいの余裕をもつべきです。
竹中:おっしゃるように、政治の世界はすごく若返っています。一方で、若返っていないのが財界です。財界の高齢化はすごいものですよ。
櫻井:でも、財界もいままでのようなコンベンショナル(因習的)なスタイルのビジネスではもうやっていけないのですから、それこそITを取り入れた技術革命を行なって、生産性を上げ、人事面にも資産運用にも反映させるとなると、若い経営者でなければやっていけなくなるでしょう。財界も世代交代を迫られていくのではないでしょうか。
竹中:このあいだ、中谷巌さんが面白い話を教えてくれました。アスクルという、いま話題の会社に行ったら、取締役が30歳ちょっと過ぎで、ジーンズとTシャツ姿で働いていたというのです。しかもビジネスのために24時間、頭脳を働かせて、若いエネルギーを全部、注いでいるという。「ああいう人に、70歳の社長が勝てるわけがない」というわけですよ。しかしこういう時期にきて、いまだに日本では世代交代論が出てこない。不思議です。戦後、日本経済が一気に発展した一つのきっかけは、GHQのパージで上の人が全部いなくなって世代が若返ったことです。いまの財界の長老たちも、40歳そこそこで大会社の社長になったのです。
最近の例では、野村證券が一時、経営が悪くなって、その後よくなりました。理由はいろいろあるでしょうが、最大の要因は取締役を「総とっかえ」したことだと思います。
櫻井:なるほど。
竹中:一人や二人の若手を起用するのではなくて、全員、代えたのです。そういう動きがこれから積極的に出てきてもいいと思うのですが、日本はやっぱり優しいんですかねぇ。みなそう思っていても、誰もいわない。
櫻井:猫に鈴をつける人がいないわけですね。
竹中:いまの大学生から見たら、私も古い世代でしょう。その私から見た古い世代でITになどついていけないと思っている人たちが組織の代表者をやっているのは深刻ですよ。
環境対策こそ日本の強み
櫻井:このあいだ、西澤潤一さんの『人類は80年で滅亡する』(東洋経済新報社)という恐ろしいタイトルの本を読んだのですが、いまの地球エネルギーの消費度合いにしても二酸化炭素の増え具合にしても、人類が自然の体系を踏み外して、もうまもなく不可逆的な、修復不可能なところまでに立ち至ってしまうということでした。先ほども申しましたが、地球環境プロジェクトには日本が中心となって取り組んでいかなくてはいけないと思うのですが、いまの日本では環境庁長官は内閣のなかでもけっして中心的な存在にはなりえない。こういった発想を変えて、環境対策を国家プロジェクトとして扱い、お金をかけていく必要があります。
竹中:環境問題にも、先ほどの世代間のギャップがありますね。私はこの問題についてすごく勉強しているつもりだし、行動もしているつもりなんです。でも若い人と話すと、危機感の度合いが違うことにショックを覚えますね。といいますのは、以前にも環境問題が深刻に取り沙汰されたことがありました。マルサスの「人口論」しかり、ジェボンズの「石炭限界説」しかり。しかしこれらは、技術革新によって次々と克服してきました。だからわれわれ中年以上の人たちは、今度もどこかに生きる道はあるはずだという変な希望を抱いている。しかし、「今度こそ、狼はやってくる」んです。その危機感をわれわれの世代以上がどれだけもてるか。
日本に関してもうひとつ厄介な面は、一度、公害問題を克服していることではないでしょうか。なぜなら、かつての公害問題といまの問題は、根本的に違うからです。かつては、加害者と被害者が、立証できるかどうかは別として完全に特定できたのです。しかしいまは、全員が加害者であり、同時に被害者でもある。まさにグローバルな問題になっています。希薄な危機感では到底、解決できません。
しかし日本は過去に、私たちに勇気を与えてくれるような輝かしい実績がありました。キャノンの成功物語です。一カメラメーカーにすぎなかったキャノンが「世界のキャノン」になるのに二つのステップがあったといいます。第一はコピー機、第二はプリンターに進出したときです。第一はコピー機進出当時、専門家が「ゼロックスの独占は、今後25年間崩れない」というほどゼロックスの力は強かった。そこに、のちに社長を務められた山路敬三さんという若い技術者が、ゼロックスのコピー機にひとつだけ欠陥を見つけたそうです。それは、コピー機内のドラムをコートしていた重金属が有害物質だったことです。1社に1台の時代から家庭にコピー機が入っていく時代に変われば、かならずこの部分が問題になる、だからそれを克服する技術をもてば、キャノンだってコピー機業界に入っていける可能性があると考えたというのです。そしてその分野で特許をとり、世界のキャノンへと成長していった。何をいいたいかというと、「ここの100メートルを思い切り走れ」といわれたらアメリカが強いのですが、低い天井があって、その下を「くぐりながら走れ」といわれると日本が強い。制約条件の下での開発には日本は実績がある。環境問題においても日本のアイデンティティを探して攻めていかなくてはいけません。
櫻井:3年前に京都でCOP3が開かれたとき、二酸化炭素の排出量規制に反対の身勝手なアメリカと、規制を主張するヨーロッパの中間に立った日本はどっちつかずで、リーダーシップをとれずに会議は不評のまま終わりました。今年のオランダのハーグでのCOP6でも、日本は地球環境を改善するのにいちばんの障害になっている化石のような国だといわれました。しかし、日本は二酸化炭素排出削減にたいへんな努力を重ねてきた国です。そして、そのための高い技術ももっています。ですから、自信をもって自己主張し、発展途上国に対しても技術を教えるようなことをすべきです。
竹中:おっしゃるとおりです。いま核心の問題を指摘してくださいましたが、あえて私なりのキーワードを申し上げれば、21世紀の日本の課題は「ソフトパワー」だと思うのです。これはジョセフ・ナイが使った言葉ですが、パワーの源泉にはハードパワーとソフトパワーがある。ハードパワーというのは相手に直接行使する力で、軍事力と経済力です。一方、国際世論に影響力を与えたり情報を発信したりする力を総称してソフトパワーと呼ぶんです。日本はこれまで、物をつくって売るというハードパワーにおいては存在感を示せたけれど、ソフトパワーにおいては圧倒的に見劣りがします。アメリカも、軍事力と経済力というハードパワーの二要素をもって世界の覇権国になった。ところが「21世紀は再びアメリカの世紀になる」というときのアメリカのイメージは、けっしてハードパワーではありません。世界に情報を提供し、ルールをつくる力、ソフトパワーです。
そこでアメリカと比較すると、日本の身近な3つのソフトパワーの弱さに気づきます。一つは情報。アメリカはCNNが、アメリカの価値観に基づいた情報を世界中に発信しています。2番目が知的なソフトパワー。いま、リーダーになろうとする世界中の人が、アメリカの大学に留学したいと思っています。そうすると結局、アメリカの人脈と価値観に基づいて英語でコミュニケートすることになります。そして第三は、プロフェッショナルな力です。中国で会計基準原則をつくるとき、アメリカの国際公認会計士が中国に指導に出かけました。国連やWTOで裁定をするのは、ほとんどアメリカ人の法律家です。日本国内では弁護士や会計士は力をもっているかもしれませんが、国際弁護士や国際公認会計士なんて聞いたこともありません。こうしたソフトパワーを磨いていかないといけないのです。
櫻井:その点は日本にとってこれからますます難しくなりますね。おっしゃるように、いま“アメリカ流”が世界中に広まっています。司法改革にしてもビジネスモデルにしても、日本はアメリカに追いつくしかありません。追いついて、それを超えて日本独自の価値観を国際社会に何らかのかたちで反映させることができるかというと、そこまで走るのはかんがえるだにたいへんなほど、彼我の差は現状では大きい。気持ちは“追いつかなければならない”という地平でとまっていて、それより先には行かない。前向きになっていない。ですから、知識とか情報とか発想の力をつけることも大事ですが、その前に活力を生み出さなくてはいけないと思うのです。21世紀にいちばんやらなくてはいけないことは、大人も含めた「国民教育」です。自分の足で立って、自分の責任で人生を切り開き、社会をつくっていく。その力があることを認識できれば、いろんなことができると思います。
竹中:大学で教えていて感じますのは、日本の若者って意外と捨てたものではないということです。慶応の湘南藤沢キャンパスでは入学した瞬間から24時間、インターネット使い放題です。すると、あっという間に使いこなせるようになっていくんですよ。私は教育のキーワードは「エンカレッジメント」に尽きると思います。「おまえはできるんだ、やってみろ」ということですね。しかしいまの日本の教育は、まったく逆です。
櫻井:「できるんだ」ではなくて「できなくてもいいんだよ」というのが日本の発想になってしまっています。2002年度から新しい学習指導要領が実施されますが、「ゆとり」が三割も増えます。「やらなくてもいいよ」と子供にいうのは、ほんとうに問題だと思います。
党主導か、官邸主導か
櫻井:アメリカの外交が変わりつつあります。リチャード・アーミテージとジョセフ・ナイが出した『日米・成熟したパートナーシップに向けて』というレポートには、日米同盟は米英同盟をモデルとすべきだと書いてあります。つまり、完全に対等の関係で、助け合い競い合う関係です。日本に対する米国の期待が質的に変化いているのではないでしょうか。
竹中:日本の外交のアイデンティティが、いままで以上に厳しく問われていますね。
櫻井:国益が最も先鋭的に論じられるのが外交ですが、それを担う外務官僚が一貫した政策を失いつつあると思います。中国外交はこれまでも多くの人が指摘してきましたが、ロシア外交までが九七年のクラスノヤルスク合意以降、不必要な譲歩を繰り返しています。外務官僚だけではないでしょうが、官僚が日本の足を引っ張る存在になっているという心配があります。アメリカでは政権交代とともに官僚も代わりますから、一つのポストにずっと居座るということはなく、自分の任期中に実績を上げようと頑張ります。一方、日本は官僚はずっと官僚です。国益という観念が薄れてきたなかで「何のため