「引き延ばす弁護士、覇気のない検察、無関心な被告 私が『麻原オウム裁判』で実感した、これは『司法の自殺』だ 」
『SAPIO』 2001年3月14日号
司法改革が日本を変える 第9回
オウムに関する事件で松本智津夫被告の裁判は検察側の立証すらいまだに終わらない。このオウム裁判は、日本の司法が抱える問題点をそのまま表わしていると言えるだろう。
日本の裁判の特徴の一つが、時間がかかりすぎることです。事実審理を尽くして、公正な裁判を行なうことが重要なのは言うまでもありません。かといって、事件の本質とあまりにかけ離れた詳細な尋問を展開して時間を費やすことは、司法機能停止を招きかねません。その意味で麻原彰晃こと松本智津夫被告の裁判は日本の司法の危機をもっともわかりやすい形で表わしています。
一連のオウム裁判のほとんどは一審を終え、7名に死刑判決が下されました。一方、それらの裁判のなかで首謀者と認定された麻原自身の一審の裁判は、いまだに続いています。一審の判決が出されても、最高裁までいって刑が確定するには、数十年はかかるということさえ言われています。
麻原は一連のオウム事件、17件で起訴されました。国選弁護人が12人も立てられ東京地裁で初公判が開かれたのは96年4月24日のことです。
その後、起訴件数と被害者があまりにも多く、裁判に時間がかかりすぎるという理由で、検察側が17件のうち4件を取り下げる異例の措置がとられました。それでも麻原裁判は遅々として進みません。いったい法廷ではどんな尋問が行なわれているのでしょうか。
今年1月26日、東京地方裁判所104号法廷ではサリンプラント建設による殺人予備罪で懲役8年が確定して服役中の滝澤和義と、2つのサリン事件をはじめほとんどの事件に関与したとされる中川智正が証人として出廷し、弁護側の反対尋問が行なわれました。
麻原の法廷は物々しい雰囲気です。警備が少なくとも10名はつきました。麻原は両脇前後を囲まれて入廷し、歩くのを嫌がるように一足一足、ステップを突っ張るために背後から押し出される形で席に着きました。最初からぶつぶつと独り言を吐き、自分が率いていたオウム真理教の犯行で、どれだけの人が亡くなり、今も苦しんでいるなどにはまったく興味がない様子です。尋問で証人が麻原について述べても、どこ吹く風で体を揺らしてみたり、眠りこけたように前傾して警備の人に揺り起こされたりしていました。途中、阿部文洋裁判長に「ちゃんと背筋を伸ばして座っていなさい」「被告人、起きていなさいよ」などと注意される場面が再三ありました。
オウム信者と思われる数名の男女が傍聴席の最前列に陣取っていました。彼らも麻原同様異彩を放っていました。真剣にメモを取り続けている者がいるかと思うと、別の一人は眠りこけて裁判長に退席を命じられ、一人は突然泣き出しました。しかし、何より異様だったのは、法廷で繰り広げられた尋問そのものでした。
滝澤証人に対する弁護人の尋問の一部を書き出してみましょう。
弁護人「この写真で、壁に沿った、これも青というか、空色というのか、配管が壁に沿って、壁に一番近いところ、正面にありますね。これは材質は?」
滝澤証人「これは塩ビですけれども」
弁護人「これは塩ビですよね」
滝澤証人「恐らく塩ビだと思うんですけれども」
弁護人「これは塩ビですよね。そうすると、この塩ビのパイプというのは、この現場見取り図15でいうと、どの部分にあたるんですか」
滝澤証人「これは恐らく第7サティアン3階の風呂場の下水です」
こんなやりとりが、延々と続き、法廷には弛緩した雰囲気が漂います。ときおり、検察官が「主尋問の範囲外です」つまり、この裁判には無関係だと異議を申し立てて、裁判長も簡潔に尋問を行なうように再三、弁護人に注意を与えてます。しかし弁護人は相変わらず配管や素材について、この裁判の本質とどう関係してくるのか、理解し難いような尋問を続けます。
弁護人「第1行程の過程で、遠心分離機でN、Nジエチルアニリン塩酸塩をとるということでしたね」
滝澤証人「はい」
弁護人「簡単にいうと、それはその後どうなるのですか。どこに行くのですか」
滝澤証人「どれがですか」
弁護人「塩酸塩なんですけれども。塩酸塩がどこに行くかというのは……」
滝澤証人「それはかなり時間がかかると思います。関連がないと思います」
尋問されている滝澤証人も、「関連がないと思います」というような尋問を、弁護人はまだまだ延々と続けます。さすがに阿部裁判長が言いました。
裁判長「(それは聞かなくても)いいじゃないですか」
素人の目にも弁護人の尋問はあまりにひどいとしか見えませんでした。焦点が絞られておらず、ダラダラと質問しているようにしか、どうしても見えません。弁護人自身も緊張感を欠いているのか、ときおりトンチンカンな尋問もありました。
弁護人「平成6年2月につくった30kgぐらいのサリンというのは、いつごろつくったものですか」
この尋問には滝澤証人がこう切り返しました。
「期日は今弁護士さん自身がいっているじゃないですか」
弁護人も人間ですから、このようなおかしな尋問も、ごくたまにはあるでしょう。しかし麻原法廷の弛緩したやりとりの中でこれを聞くと「引き延ばしを狙っているのではないか」と朝日新聞などが指摘しているのはこういうことかと納得してしまいます。裁判長もさすがにイライラして「いいじゃない、そんなの」「そんな細かいことはいいじゃないですか。簡単に」と注意を連発します。数えてみたら、この日の法廷で、裁判長の簡潔な尋問を促す注意は12回に及んでいます。午前10時から午後5時までの法廷で、昼食休みと午後の休憩時間を除けば5時間強の尋問で12回の注意です。ざっとみて30分に一度は裁判長から指導されている勘定です。
このことも異例だと思いますが、もっと奇妙だったのは、弁護人の尋問のペースが異様に遅いのです。
しかも証人が答え終わってから、弁護人が次の言葉を発するまでの間が、ものすごく長いのです。余りにその間が長いので、私は最初は弁護人に異変が起きたのかと思いました。気分が悪くなって言葉が出てこないのか、目まいがして頭の中がまっ白になり、次の質問が咄嗟に出てこないのか、一体どうしたのかと思い身を乗り出して様子を窺ったほどです。それほど弁護人のとった間合いは長かったのです。これまでに傍聴したどんな法廷にも、こんな長い沈黙を頻繁に間にはさみ込んだ尋問は聞いたことがありませんでした。そこで、どの位の間隔をとるのか私なりに計ってみました。25秒、4秒、10秒、18秒……という具合でした。ちなみにこのタイムは、ニュース報道の現場で長年仕事をしてきた私自身の秒感覚で計算したもので、それ程はずれてはいないと思います。会話や尋問の合間にはさむ沈黙の時間としては異常に長い時間です。しかもこれは「あー」でも「えー」でも、何か声を発するまでの時間で、意味のある言葉を言うまでにはさらに時間がかかっています。
一方の検察側も、弁護人に対して口をはさむことも少なく、おとなしい印象でした。虚しく時間が流れていく状態に馴れきってしまっているようです。本当にやりきれない思いの募った法廷でした。
作家の佐木隆三さんは、当初は麻原裁判に期待していたといいます。
「東京地裁が早い段階から東京の3つの弁護士会に推薦を依頼し、結果として12人の弁護士がついたので、私は正当な裁判活動がなされると思っていました。これだけ大きな組織犯罪ですから、故意に裁判を遅らせるようなことはまったく想定していなかったのです」と佐木さんは語ります。
そもそも12人もの国選弁護人がつけられたのは、麻原が関わった数多くの事件に対して、裁判を迅速に進めるためだったはずです。ところが最初に、裁判所が事件を3つにグループ分けして月6回の公判を求めたのに対し、弁護人が猛反発、公判をボイコットしました。結局、月約4回のペースで公判が開かれることになりました。
彼らはどのように作業を分担しているのでしょうか。佐木さんが驚くべきことを語りました。
「TBSの『ニュースの森』でも放送されたんですが、弁護団長の渡辺脩さんは、尋問する担当をどうやって決めているのかという問いに、“あみだくじですよ”とはっきり答えていました」
佐木さん自身、渡辺弁護士らとの会議の席で、翌日の尋問を誰が担当するかを弁護団があみだくじで決めるのを目撃したと語る。こうしたことが事実なら、麻原の裁判においては公判の準備をきちんとして弁護活動をしている弁護人がいるとは思えなくなるのです。
佐木さんが語ります。
「準備をきちんとしているなんて思えませんよ。だから、ダラダラ尋問になってしまうんですよ」
となれば、法廷での、長い沈黙の末の無意味な尋問の意味もよくわかるのです。
麻原裁判の国選弁護人の12人の弁護士には、1開廷につき1人15万円が支払われているといいます。通常は3開廷で8万円程度と言われますから、まさに破格です。麻原裁判は今年1月までに182回の公判が開かれ、そのたびに12人に15万円ずつ支払われたとすると、その額は莫大です。しかもそれは国民の税金から出されているのです。こうした批判に対して渡辺弁護士は『麻原裁判の法廷から』(晩聲社)の中でこう述べています。
「弁護団には引き延ばしの意図は全くない。……いまなお残っている根拠のない非難がこの『反対尋問批判』です。尋問の目的がはっきりしない。理解できないと言われても、こちらの狙いをいちいち説明していたらそもそも反対尋問にならないし、反対尋問などできないんです」
長年オウムの取材を続けており、自らもオウム真理教に命を狙われ、自宅周辺にVXガスをまかれたジャーナリストの江川紹子さんはこう話します。
「“引き延ばしではない”というのはウソだと思います。やはりギブアップしてしまったらすぐに裁判が終わり死刑ということになるわけですから、引き延ばすしかないというのが本音でしょう」
前書の中で渡辺弁護士は「極悪人とされている人であればあるほど、きちんとしたまともな弁護を受ける必要がある」「特に麻原被告の裁判がいい加減なことになったら、刑事司法というものはひどいことになる」「適法な証拠にもとづいて、正確な事実を明らかにしていって、責任があるのなら責任の所在を明らかにしながら責任の限度だとかいうものを見極めていく」などと発言しています。
弁護人側のこうしたもっともな主張に対して江川さんは厳しく言いました。
「その言葉だけをとってみれば、原則は正しいんです。だけど原則を生かすのと、原則だけを独り歩きさせるのとは違う。すでに他の裁判で明らかになっている事実がほとんどなのに、弁護人は麻原だけを切り離してしまっている。麻原ワールドを作り、そこだけで原則を適用しているから一般の人が理解できない事態になるんです」
その結果、他の法廷ですでに証言されたことも繰り返し尋問して時間がすぎていくという現状が生まれているというわけです。当初は麻原弁護団を高く評価していた佐木さんはこう述べました。
「はじめはこういう弁護団がいるから日本の司法はまだ信頼を勝ちえていると思っていました。今も、そう思っているケースは多いのですが、麻原弁護団のやり方だけはどうしても納得できません」
こんな弁護人たちの引き延ばしを止める方法はないのでしょうか。
再び佐木さんが言います。
「専門家に聞くと、日本の刑事訴訟法というのは性善説によって成り立っているから、弁護士が審理を尽くして真実発見に努力をするということが前提で、故意に引き延ばしをするようなことは想定していないということです。ですから、公訴事実の厳密なチェックという言い方をして細かい反対尋問をすれば、よほど強力な訴訟指導がないかぎり、延々とできる。それを麻原弁護団が、今、証明して見せているわけです。まだまだ我々は引き延ばしてみせるぞ、と」
弁護士に問われる誠実義務と真実義務
なぜ麻原弁護団が裁判の引き延ばしにこれほどまでに躍起になっているのか。その理由は、麻原弁護団は主任弁護人をはじめ、ほとんどが死刑廃止論者だからだと佐木さんはいいます。
「今の日本で死刑廃止論者がなしうることは、とにかくなるべく判決を先送りして、死刑判決を確定させないことだ、という信念に基づいて弁護活動をやっているのです」
しかし皮肉にも、こうした麻原弁護団の引き延ばしゆえに、死刑になる被告人が増えている可能性がある、と江川さんは指摘します。
「被害者からすると、麻原の裁判が進まないと、他で裁かれている者に怒りの気持ちが移ります。麻原裁判が長引くことによって被害者感情が厳しくなり、他の被告人たちに対する刑罰が厳しくなった面もあるのではないでしょうか。麻原弁護団としては、麻原の裁判が続くかぎり弟子たちの死刑は執行されないだろうから、弟子たちの命も守ってやっているという意識はどこかにあると思う。だけど私は、麻原裁判が長引いているおかげで、死ななくてもいい人間が死刑になっているかもしれないという気がする。麻原が一番最初に、首謀者として死刑判決を受けていれば、実行犯に対する被害者の感情の向き方は違っていたと思います。
何だか意味もよくわからずについていって重大な罪を犯し、本当に悔いている人たちもいる。やったことの責任が問われるのは当然ですが、彼らがどんどん死刑判決を受けているのに、首謀者がああいう状態では納得いきません」
また、別の視点から、佐木さんも言います。
「検察側にすれば、“麻原の裁判は長引くぞ、どんどん外堀を埋めていこう”ということで、私の言葉で言えば、今まで死刑判決を受けた被告人たちは血祭りに上げられている。もし麻原の裁判が順調に進んでいれば、かくも多くの死刑判決が出ただろうか。そんな意味でも、弁護団の罪は重いのです」
かつて部下であるオウム信者への想いだけでなく、被害者への想いを欠いているのが麻原弁護団だと佐木さんは言います。
「息子の坂本弁護士だけでなく、関係のない嫁の都子さんと孫まで殺された坂本さちよさんの検事調書を裁判所が採用してその要旨の告知を法廷でしました。その中で、『出来ることなら、昔のはりつけのようにして私も一刺しさせてもらいたい、そのぐらいの気持ちです』というくだりがありました。すると弁護団が異議あり!と。この煽情的な内容を法廷で読み上げるのはいかがなものかといって抗議しました。けれどさちよさんにしてみれば、嫁と孫まで殺されたのです。その悔しさを反映した文言ですよ。それに対してあそこまで抗議するのかと思いました」
佐木さんは、麻原裁判では裁判に時間がかかりすぎるという理由で、2つのサリン事件の重軽傷の被害者たちについて検察側が訴因変更したときの弁護団の反応についても、憤りました。
「あのとき、弁護団長は“我々の勝利である”と言ったのです。つまり、実際に被害にあって後遺症に苦しんでいる人がいるのに、法律的にはあなたがたに対する犯罪はなかったんだと。東京地検の検事正は民事裁判などで不利にならないように最大の努力をしますと重軽傷者一人一人に文書を送ったそうですが、本当にむごい。あまりにも被害者を無視していますよ、あの人権派と称する弁護団は」
こんな麻原弁護団の姿勢について、弁護士でオウムにサリンで命を狙われた滝本太郎氏は、こう説明します。
「依頼者、被告に対して誠実に働く義務が先決であって、真実義務は劣後する。それが弁護士の当然の倫理であって、この点は誤解されていると思います。被告なり被疑者なりの秘密、正当な利益を守るのが弁護士の本質で、依頼者の言うことをまずは信じてやる。検察なり相手との攻撃防御のなかで、裁判所が真実を発見するものですから、真犯人だとわかっていても、捜査機関に言わないことも当然あります」
しかし極論すれば、一人の依頼人に対して誠実であるがために、社会的不正義が行なわれることになるのではないでしょうか。この疑問に対し、滝本弁護士は「その場面においてはあり得ます。ですから耐えられないときは自分が辞任するわけです」と答えました。
しかし辞任をせずに弁護を続け、本当は真犯人であることを知りながら無罪にしてしまったとしたら、殺された人や被害にあった人はどうなるのでしょうか。どう考えても誠実義務が真実義務に優先するというのは納得できません。
もちろん滝本弁護士は、麻原弁護団の対応に対しては批判的です。
「人間の一生は70、80年そこそこですから、あらゆる裁判は10年以内に確定までいかなければ裁判の意味がないと思います。起訴件数も多く大変なのはわかりますが、弁護人を12人もあえてつけた以上、弁護人としても10年以内に判決の確定までやっていくことを前提で動かなければいけないはずです。まず第一にその点の配慮がない。
第二に、弁護人として一番大事なのは被告人と意志疎通をなんとしてでもとること。難しい被告は松本智津夫に限らずいくらもいますが、その努力がまだまだ足りません。今や被告人である松本智津夫は完全に蚊帳の外ですよね。このままでは歴史に残る恥ずかしい弁護になってしまうと思います」
麻原弁護団は、被告人との意志疎通が図れない状況だと言われています。それでは麻原弁護団はいったい何を守るべく働いているのでしょうか。
「被告人松本智津夫ではなく、刑事訴訟法を弁護している。目的と手段が逆転しているんです。刑事訴訟法の細かい規定一つ一つを形式的に行ない、一つ一つの証拠について疑義を出す。細かいさまざまな権利を形式的に守って、引き延ばそうとしているわけです」と滝本弁護士は断じ、麻原弁護団の対応は、さらに大きな問題を招きかねないと危惧します。
「このまま引き延ばしを許しておくと、刑事訴訟法自体の改正問題になると思います。刑事訴訟法を利用してあれだけ引き延ばしが図れるのはおかしいじゃないか、刑事訴訟法自体を変えろと。今は起訴状一本主義といって、裁判官は最初は起訴状しか見ませんが、戦前のように、検察官があらゆる証拠を最初から裁判官に見せてもいいような法律に変えろという声が出てくる可能性もあるのです。しかしそれは裁判官に予断を与え、冤罪を招く温床になる。“角を矯めて牛を殺す”ということにならなければいいのですが」
麻原裁判の問題が弁護人だけにあるわけではありません。江川さんは検察側の対応を批判します。
「迅速さを弁護人だけに求めるのではなく、検察官も努力しなければいけない。何度も死刑にするわけにはいかないのですから、2つのサリン事件と坂本弁護士事件など、大きな事件に絞って短縮させる。そうして裁判を進めていけば、もうとっくに終わっていると思います。私が狙われた事件は殺人未遂でしたが、裁判の迅速化のために起訴猶予にしますと言われた。なのに懲役2年にすぎないサリンプラントの建設を扱っている。検察も、もう少し迅速化のために頭を使ってほしい」
薬害エイズ裁判の法廷と比べても麻原裁判の検察官は迫力を感じさせない、というのが率直な感想です。その原因は何なのでしょうか。
「初期の頃は、検察官にも、もっと意気込みがあった。今は黙っていても有罪にできるということで、つつがなくいこう、5年先、10年先には終わるだろうというあの人たちなりの読みがあると思います。しかしその読みは、私たちの感覚からいうとあまりにも遅すぎる。法曹界の常識というか感覚と、私たちの“裁判はこれぐらいで決着つけてほしい”と思う感覚があまりにもかけ離れているのです」(江川さん)
滝本弁護士は、確定までに10年以上もかかる裁判は「司法の自殺」と語りました。そんな愚かしい裁判が、今、私たちの目の前で繰り広げられています。弁護士のモラル、検察官や裁判官の対応を問うのは当然にしても、そもそも現在の裁判制度がこうした裁判の遅延に対して有効な手だてをもっていないことこそが問題なのではないでしょうか。
麻原裁判は日本の司法そのものの億弱さを映し出しているように思えるのです。