「 事実上プライバシー保護に役立たないにもかかわらず出版禁止決定の政治的意味 」
週刊ダイヤモンド 2004年4月3日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 537
『週刊文春』と田中家の長女の争いで、東京地方裁判所の大橋寛明裁判長、金子直史、塚田奈保両裁判官の下した決定は、どう考えてもスッキリしない。同時に、今回の裁判が言論、報道の自由を狭める結果につながることを、私は非常に危惧している。
田中家の長女のプライバシーを守るために、大橋裁判長らは「出版禁止」という、メディアにとっては死刑に等しい厳しい決定を下したが、「決定」の理由には次のように、裁判所の迷いが見えてくる。
「離婚の事実やその経過の公表が、常に重大な損害を生じ、これを公表する表現行為の価値より優越することが明らかであるとまでいうのは、困難である」「(『週刊文春』の記事によって)債権者(田中家の長女)らの被る損害が真に重大というべきかどうかについては、議論の余地があり得る」。
「議論の余地」があるのに出版禁止にするのは、鶏を割くに牛刀を以てするの感がある。なぜこうなるのか。
「田中家」が大きな要素だと、どうしても思ってしまう。長女の主張は、祖父角栄、両親の眞紀子、直紀両氏は政治家だが、自身は公務員でも選挙立候補者でもなく、政治活動もしていないため、あくまでも私人だという。
確かにそのとおりだ。眞紀子氏の娘というだけで注目されるのは気の毒である。私生活を書かれるのはたまらない、というのも理解できる。だが、世の現実は、彼女が眞紀子氏の娘であるがゆえに注目する。理由はさまざまだ。
眞紀子氏がどんな価値観で子育てをしたのか、どんな家族関係を築いているのかなどは、公人である眞紀子氏への、国民の当然の関心範囲内ではある。
加えて、今回の長女の訴えを見ても、裁判所の取り扱いを見ても、“田中家の影響”とでも呼びたくなる特別な要素が見えてくる。
長女側は自身の記事を掲載した「週刊文春」の販売差し止めなどを求め、それが行なわれないときは、1日につき3,383万円の賠償を求めた。東京地裁は販売停止を決定し、文藝春秋に通告、しかし、そのときまでに、77万部のうち74万部がすでに流通経路に出ていた。販売停止は文藝春秋の手元に残された3万部に関しての判断とされたが、出荷ずみ部数の多くは読者の手に渡っているだろう。残り3万部の販売停止が、実際どれだけ彼女のプライバシーを守るのか、理解できない。
彼女のプライバシーは、この決定では守られないと思うが、反対に、メディア規制という意味で、今回の決定の政治的意味は非常に深刻だ。
文春だけではないが、雑誌ジャーナリズムは往々にして、新聞やテレビが果たしえない調査報道の先頭に立ってきた。だからこそ、圧力も強い。「田中角栄の人脈と金脈」で、文藝春秋は“つぶされかねない圧力”を受けていたはずだと立花隆氏が語っていた。その田中氏の裁判では、高裁判決までに約11年の歳月がかかり、最高裁で6年余も放置され、角栄氏は死亡した。司法が政治に従属し、最高裁は判決の確定を避けたと断ぜざるをえない。
後に、眞紀子氏の秘書給与流用、詐取疑惑が浮上したが、検察当局は、疑惑はない、お構いなしだとした。だが、だからといって、国民が納得しているわけではない。田中家は特別扱いなのかと思う気持ちはどうしても残る。
そして今回、「損害が真に重大というべきかどうかについては、議論の余地」があるとしながら、裁判所はメディアの「出版禁止」というきわめて重い決定を出した。繰り返すが、長女のプライバシー保護にこの決定は事実上役に立たないのに、である。司法は雑誌を排除したいのか、あるいは田中家に尻込みしなければならない理由があるのかと疑い、言論、報道の自由が脅かされる時代を憂うのだ。