「 読みやすさ優先で見失った『漢字』の表現力と奥深さ 」
『週刊ダイヤモンド』 2002年6月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 448回
日ごろ気になることの一つが、言葉である。私たち日本人は、言葉や言葉遣いをどの程度、意識しているのかと折々に思ってきたが、5月27日付「毎日新聞」の「発言席」欄に谷川健一氏が書いておられた。
日本の新しい自治体の名前が安易すぎないかと。2005年までに全国の市町村の合併が進み、現在の3300から1000へと減少する。当然、誕生する新自治体には命名の問題が生じるが、谷川氏は、由緒ある地名を歴史的見地に沿って保存しようとしている立場から、看過できない事態が多発していると警告するのだ。
ちなみに、谷川さんは日本地名研究所所長である。
地名ではないが、今年の4月29日のことが、私にはとても気にかかった。この祝日は昭和天皇のお誕生日である。しかし、なぜか「昭和の日」でも「昭和天皇の日」でもなく「みどりの日」と命名された。
「みどりの日」とは、なんと理解に苦しむ命名であることか。いっそのこと「ブルーな日」とでもすれば、アンニュイな一日でも過ごそうと思うのかもしれないが、みどりの日には、ブルーな日ほどのメッセージ性さえない。
で、テレビ欄を見ても、昭和史や昭和天皇にまつわる番組があるわけでもない。NHKが樹海の森についての番組を報道していたが、これなどは「みどりの日」の「みどり」を「みどりの自然」に結びつけて企画したものなのかと考えてしまった。
いずれにせよ、「みどりの日」などと無意味な命名をする程度の素養しかないのが、現代日本の実態だということになる。
谷川氏が嘆く。「読みやすい、書きやすい、あたりがやわらか」というだけの理由で「漢字を捨てて、仮名文字にする」と。例として「さいたま市」を挙げ、「埼玉」には「岬に宿る神霊の意」があったが、平仮名ではそんな意味は不明になり果てたとの指摘だ。
尊敬する白川静氏の多くの書物のなかにも、文字、漢字の大切さが書かれている。白川氏が繰り返し述べていることは、言葉や文字を離れて、人間の思索はありえないということである。
氏の著書は、休みの日などにどれでもよいから1冊、手にしてみると興味深い。そのうえで、たとえば漢字を知らない若い世代に「あり」と読む字を書かせてみるとおもしろいだろう。
「存」「在」「有」「或」の四字を書ければ、白川先生と同じ水準だとほめてやればよい。「在」の字、つまり「存在」としての「あり」は「時間的、空間的、状態的に継続していることを示す」のであり、「有」または「或」の「あり」は「所有的な関係を一般化したもの」であると、この辺までは教えることが、今のおとなにはなんとかできるだろう。
ここから先は、白川氏の著書を読み、子どもや家族といっしょに学べば、なおおもしろい。「有」というのは「肉を手にもって、これを神に侑(すす)める形」なのだそうだ。これを卜辞(ぼくじ)(甲骨文)などでは「又(あ)り」と書く。「手にもつこと、手中にあること、自己の所有にあるもの、支配し得るもの、認識の範囲にあるもの」を指し、「或り」というのは、そうしたことが「限定的にある」ことをいう。だから「或」は「地域」の域となり、条件によって選択的である状態の「あるいは」「ときには」の意味となるそうである。
90歳を超えてなお、すばらしい活動を続ける白川氏の頭のなかには、こうした文字と、その文字のもたらす意味がぎっしり詰まっているに違いない。それはすなわち、深く豊かな思索が白川氏の頭と心を満たしているということだ。漢字も文字も貪欲に学んで、薄っぺらなわかりやすさなど吹き飛ばしてしまう日本人を増やしたいものだ。