「 藩校サミット、現代の殿様勢揃い 」
『週刊新潮』 2009年7月2日号
日本ルネッサンス 第368回
6月20日の土曜日、新潟県長岡市で、かつての大名家の末裔の方々30人が集い、「藩校サミット」が開かれた。藩校サミットは、2002年に、「日本の学校教育発祥の地」ともいわれる、東京お茶の水の湯島聖堂で始まった。
時代が変われば人も事物も変わるとはいえ、あまりにもいまの日本は日本らしくない佇まいになってしまった。だからこそ、かつての日本の類稀なる在り様や価値観を振り返ることで、現在の日本人が自信を取り戻し、将来への手懸りを得られればよいのではないか、私はそんな想いで、藩校サミットに参加した。
会場となった長岡市立劇場の舞台上には、德川宗家18代当主の德川恒孝(つねなり)氏を真ん中に、左右にずらりと、各藩の〝御当主″が並んだ。北は弘前藩の津輕承芳(草冠に承、芳 つぐよし)氏から南は薩摩藩の島津修久(のぶひさ)氏まで、30人の“殿様”たちである。
殆どの方が、背筋をピッと伸ばして、軽く握った掌を両膝に置いている。一人ひとりの紹介のときには、真っすぐ前方を見詰め、威厳のある姿勢と佇まいを保っている。中に一人二人、ずっと視線を下に落とし、背中を丸めている人がいたのは御愛敬か。明治維新から早くも141年、德川治世260年余のすでに半分以上がすぎ去って今日に至る。いくら御当主の末裔とはいえ、殿様らしくない姿勢になった人がいても仕方がないだろう。
その中に一人、他の御当主よりも若い人がいた。板倉重徳氏、34歳である。備中松山藩の板倉宗家19代に当たる。備中松山藩は、陽明学の泰斗、山田方谷を重用した藩である。方谷に全幅の信頼を寄せ、取り立てた藩主、板倉勝静(かつきよ)の御子孫が、重徳氏であるわけだ。
「稀に見る幸福な国民」
それにしても、陽明学は江戸幕府から危険視されていたはずの学問だった。にもかかわらず、現実には、陽明学は学ばれ、実践されていた。私が中学高校時代をすごした長岡は、長岡藩の伝統を継ぐ土地柄だが、長岡藩の河井継之助は山田方谷を師と仰いでいた。もうひと言つけ加えれば、私も山田方谷の教えを心の糧のひとつとするものである。だから、備中松山藩と聞いて、とりわけ興味を抱いた。その現代の若き“殿様”はいま、伊勢丹に勤務し、好きなテレビ番組は「ガイアの夜明け」だと自己紹介の欄にあった。
私は勝手に、壇上の彼らに着物と裃を重ね合わせて、想像を膨らました。まるで、侍が統治した江戸時代のイメージが浮んでくるようだった。
『江戸の遺伝子』(PHP研究所)の著者としても知られる德川恒孝氏が基調講演で語った。
「戦国時代と江戸時代は、同じお侍様が統治する同じような政治形態と考える向きがありますが、両者は根底から異なります」
德川氏は、二人の外国人の文章を紹介した。まず、ポルトガル人の宣教師ロドリゲスが『日本教会史』に残した文章だ。
「土地は全て耕作されることもなく、また耕作されていたところは種を蒔いたままで荒らされ、敵方や隣人によって強奪され、絶えず互いに殺しあった。日本全体は極度の貧窮と悲惨に陥った。商取引についても法も統治も無く、各自が勝手に殺したり、罰したり、国外に追放したり財産を没収したりした」
ロドリゲスの来日は1577年、1613年まで36年間の滞在で、戦国時代末期の日本の様子を描いたのが右の文章である。安土桃山時代に発達した日本の華麗なる文化、芸能。茶道、能楽をはじめ、狩野派を含む絵画、工芸の見事さは言うまでもなく、同時代の如何なる他国と較べても抜きん出た水準だった。その日本の実情を思えば、ロドリゲスの描写は余りに一方的である。とは言っても、信長、秀吉、家康ら、各武将が天下統一を夢見て激しく戦った時代の日本の庶民の生活は、德川氏の指摘するように大変だったことも確かだろう。
氏が紹介したもうひとりの外国人がドイツ人の医師、ケンペルである。ケンペルはこう書いた。
「この国の民は習俗、道徳、技芸、立ち居振舞いの点で、世界のどの国にも立ち勝り、国内交易は繁盛し、肥沃な田畑に恵まれ、頑健強壮な肉体と豪胆な気性を持ち、生活必需品は有り余る程に豊富であり、国内には不断の平和が続き、かくて世界でも稀に見る程の幸福な国民である」
ケンペルが描いたのはロドリゲスの文章から約100年後の日本の姿である。德川氏は、この両者の違いを生み出したのが乱世に平和をもたらした家康の治世だった、その特徴は書籍を以て人倫の道を明らかにしたことだと強調する。
文武両道の国造り
氏のお話で初めて知ったのだが、家康公は日本の活字印刷の「事実上の創始者」なのだそうだ。
「まだ関ヶ原の前に伏見城におりましたとき、木で活字を十数万作り、色々な漢籍の活字印刷を始めました。木活字による出版技法は30年程続きました。次に十数万の銅の活字を作りました。ちなみに銅活字印刷を担ったのは、朝鮮の戦役で日本に捕虜となってやってきた朝鮮の技術者たちでした。そういう形であっという間に江戸の初期から、書籍ブームが興って参りました」
当初は、漢籍が圧倒的に多かった。しかし100年後の元禄時代には、大変な出版ブームが起きた。刮目すべきは、刊行された本の8割近くが仮名混じり本だった点だ。読書が武士、医師、僧侶などから、一般の庶民や女性へと、広がっていったことがわかる。平和で豊かな時代は、人々が書を読む時代と重なるのだ。
家康は「書籍で道理を身につけなければ、平和は来ない」と語っているが、その教えの意義を德川氏はとりわけ強調する。書を読み、武芸で鍛錬を重ね、文武両道ですばらしい国造りに成功したのが德川時代の日本だった。本も読まず、肉体的頑健さも胆力も喪ったかのような現代人へのメッセージがここにある。
さて、こんな面白いサミットを主催したのは一体、誰か。主催者は「全国藩校サミットin長岡実行委員会」と漢字文化振興会だ。前者は長岡市と新潟県と新潟市である。長岡市が350万円を、残り二者が各々10万円を拠出した。漢字文化振興会は50万円を拠出。ちなみに漢字文化振興会と、漢字検定をめぐって逮捕者を出した日本漢字能力検定協会は、何ら関係がない。
その他に600万円を超える市民からの寄付があり、合わせて約1,000万円ですべての運営費を賄ったそうだ。来年の藩校サミットは、美しいお城と掘割りが残る城下町の松江で開催される。きりりとした風貌を宿す現代のお殿様と共に、日本の過去、現在、未来について想いを語り合うのもよいかもしれない。