「 人類の希望は混じり合う世界から 」
『週刊新潮』 2024年3月28日号
日本ルネッサンス 第1091回
伊藤穰一氏は心優しい天才だ。2011年から19年まで、科学の分野で世界最先端を走る米マサチューセッツ工科大学(MIT)のメディアラボでアジア人として初めて所長を務めた。現在は千葉工業大学学長として、社会に大いなる変革をもたらそうと挑戦中だ。伊藤氏の変革は米欧の真似ではない。日本の文化、伝統、哲学を踏まえて、日本独自のあたたかい変革で人類全体に貢献しようというものである。
その伊藤氏が日本の地平を切り拓く人材を育てたいとの思いで一歩を踏み出した。これまで必ずしも大切にされてこなかった人々に光をあてる試みだ。伊藤氏が4月発売の著書『普通をずらして生きる』(プレジデント社、松本理寿輝氏との共著)の中で語る。
「誤解を恐れずにいえば、私がMITで出会った人々のほとんどは、私の目にはニューロダイバージェントに映りました。またスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツ、マーク・ザッカーバーグやイーロン・マスクといったテック系経営者たちの奇矯な言動がクローズアップされてきたことも、ニューロダイバーシティの観点から評価すべきなのかもしれません」
ニューロダイバーシティという言葉を説明する前に、『普通をずらして生きる』からもうひとつ拾ってみる。
自閉症を持ちながら動物学者として世界で活躍してきたテンプル・グランディンという人物はしばしばこう語るという。「ほとんどの天才は自閉症である」と。しかし、その後にこう続けるそうだ。「ただし、ほとんどの自閉症は天才ではない」。
そして伊藤氏は続ける。自分もMITで数多くの突出した能力の持ち主と知り合ったが、その多くに自閉症やADHD(注意欠陥・多動性障害)の人々特有の行動様式をみた。そうした人々の多くが、生活全般では集団行動や他者への適応に苦労するものの、特定の思考・行動においては傑出した能力を示す、と。
そこでニューロダイバーシティである。「脳神経の多様性」と訳される。より正確に言えば、一人ひとりに固有の脳神経の働きがもたらす多様性である。日本語で自閉症または発達障害というと、否定的な意味合いがついて回る。そうではなく、障害も個性も全てを多様性としてとらえるのが「脳神経の多様性」の真の意味だ。
生き易い国を創る
逆側から見れば、自閉症でも発達障害でもないいわゆる普通の人々も多様性の一部なのだ。『普通をずらして生きる』ではそういう普通の人々をニューロティピカルと呼んでいる。それを含めて全てを前向きにとらえて、皆が自分の特徴から喜びや楽しさを生み出し、カッコよさをまとって生きる社会をつくりたいと伊藤氏らは考えている。
実は伊藤氏も松本氏も「個性を持つ子どもを育てて」いる父親であり、「自分の子どもを通わせたい学校を作る」プロジェクトを共同で進めている最中だ。自閉症の子どもも普通の子どもも共にすごす学校である。「普通をずらした」場で、障害や特性の有無にかかわらず、全てを多様性としてとらえるニューロダイバーシティの学校だ。
それがどれほど急務か。二つの数字がある。日本の公立学校に通う小中学生の内、学習面や行動面で著しい困難を示す児童生徒は8.8%に上る。1割近い。少なくない数だ。別の国際調査では自閉症の人の47%が自殺未遂をしており、自殺を検討した人は実に72%に上る。彼らにとって、いかに現代社会が困難に満ちた息苦しい場所であることか。彼らがもっと生き易い国を創ることは、創造性や新たに切り拓く力を失いつつあるといわれる日本を再び活性化させる起爆剤にもなるだろう。
もうひとつ、伊藤氏はある双子の兄弟の話を紹介している。兄弟は知能指数が各々60しかないが、記憶力と計算力は飛び抜けている。何万年前、或いは何万年後の日付でも瞬時に曜日を言い当て、自分たちが4歳になってからの日付では、その日の天気と出来事を詳細に語ることができる。彼ら2人だけの遊びは6桁の数字を言い合っては笑い合うというものだそうだが、その数字を調べてみると、全てが素数だというのだ。
こうした子どもたち、そして大人たちの特徴を理解して支援し、科学や医学に基づいてさらに彼らの能力を抽き出せる先駆的な教育や施策について、世界は、そして日本も遅れている。伊藤氏らはそうした子どもたちのための学校を今年秋、ニューロダイバーシティの考えを基にNeurodiversity School In Tokyo(NSIT)として東京都港区南青山に開校する。
冷たい社会
定員は当初15人程を予定するという。入学対象の児童は3歳から9歳まで、自閉症の子どもといわゆる普通の子どもを混ぜ合わせてすごさせる。迎える側は総合的立場から監督するディレクター、教師、保育士、セラピスト、発達支援の専門家など、充実した態勢だ。通常の学校に通う前のプレ・スクール、もしくは放課後の学校として子どもたちを見守る。言語は日本語と英語のバイリンガル。第4次産業革命とも呼ばれるAIやWeb3など、デジタル技術に基づく教育も当然行われ、先端を行くインターナショナル・スクールになるだろう。伊藤氏はこう語る。
「AIは価値観も、目指すべき未来も持っていない。選択肢を提示することはできても、自らの内在的動機から突き動かされて選ぶことはない。内在的動機をもたらすものは、多様な経験が折り重なってできた解釈の束である」
氏は哲学者の西田幾多郎が『善の研究』で提示した「純粋経験」の考えから、色々な子どもを混ぜて共に学ばせるNSITへのインスピレーションを得たと言う。
混ぜ合わせて、のびのびとすごさせ、彼らを導くのではなく、彼らの関心を抽き出し、思いの儘にすごさせることが、なぜ、大事なのか。
氏はざっと以下のように考える。現代人は多くのことを経験する前に「知識」として知ってしまっている。知識はAIも含む誰かによって意味づけされ、分類され、結論までパッケージとなって提示される。ビッグデータやAIによって右のプロセスは無限に反復される。反復の中では経験も解釈もあらかじめデザインされているために全てが予想通りの結論になりがちだ。人類全体の考えは多様性とは正反対の方向に行き、先細りする。深い洞察、叡智、哲学から離れ、多様性とは対極の何も混じり合うことのない冷たい社会が待ち受けている。
NSITで構想している混じり合う世界は、むき出しの手つかずの経験に満ちた驚きの世界になると伊藤氏は言う。ニューロティピカルの間では不変に見えた経験がニューロダイバージェントの手でぐちゃぐちゃにかき回され新たな相貌を見せる、と。私は学校の開校を心から楽しみにしている。