「 安倍氏『回顧録』、戦い続けた生涯の記録 」
『週刊新潮』 2023年2月23日号
日本ルネッサンス 第1037回
『安倍晋三 回顧録』が出版された。聞き役を務めた読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏は、本書は1年前に完成していたと語る。にも拘わらず出版が遅れたのは安倍氏自身が待ったをかけたからだ。
「総理を辞めて安倍派の会長になった。体調もよくなり、政治的影響力は強くなる一方だった。そこに本音で語った本書を出すと、余りに影響が強すぎるからでしょう」
安倍総理の本音の数々は一部の人々にとっては衝撃であろう。だが、回顧録が世に出ていたはずの昨春がすぎてわずか3か月、安倍総理は突如、凶弾に斃れた。刊行を許可したのは昭恵夫人だったというが、本書を残して下さったこと、安倍総理が如何に全力で戦っていたか、その記録を残して下さったことに私は深く感謝している。そして思う。安倍総理の闘いはなんと国を想う知恵と戦略に溢れていることか、国民への優しさに満ちていることか、と。2月10日、言論テレビで橋本氏が語った。
「神は細部に宿ると言うでしょ。多彩なエピソードがもの凄く面白い。それだけだったら単なる居酒屋での話だ。しかしそこに、話を大きく包む戦略がある。周到な準備と人物への厳しい鑑識眼があって、立体的に場面場面の情景が浮かんでくる」
私の読後感は一言で済む。先述のように、「安倍さんはこんなに戦っていたんだ」ということだ。戦った相手は朝日新聞などのリベラルなメディアだけではない。政敵だけでもない。プーチン、習近平、オバマ各氏ら、世界の首脳だけでもない。首相が掲げる政策の実現に、経験と頭脳の限りを尽くして知恵を出し支えるべき官僚群と烈しく戦っていたのだ。なんと官僚たちは自分たちに従わない政治家、安倍晋三を倒しに来たのだ。その筆頭が財務省だった。
安倍氏は消費税を2014年4月に5%から8%へ、19年10月には10%へ、二度、引き上げた。但し、二度目の引き上げは2回の延期を経て行われた。2回延期の理由は明らかだ。8%への増税で景気の冷えこみが酷過ぎたからだと、安倍氏は語っている。財務省はそのとき「8%に引き上げてもすぐに景気は回復する」と説明していた。だが、彼らの見通しは完全に外れ、GDPはマイナス成長となった。国民生活を考えれば増税の余地などなかった。だからさらなる増税を拒否したのだ。
そこで彼らは麻生太郎副総理兼財務相に安倍氏説得を働きかけた。安倍氏は景気の冷え込みを数値を示して説明し、逆に麻生氏を説得した。すると財務省は驚くべき工作を始めた。回顧録にはこう書かれている。
「この時、財務官僚は谷垣禎一幹事長を担いで安倍政権批判を展開し、私を引きずり下ろそうと画策したのです。彼らは省益のためなら政権を倒すことも辞さない」
企みは谷垣氏が乗らず失敗した。安倍氏は最初から財務省を退けたわけではない。第1次政権では「財務官僚の言うことを結構尊重」した。その安倍氏が財務省批判に転じた唯一の理由は「デフレ下の増税は政策として間違っている」からだった。
財務省の力の源泉
「ことさら財務省を悪玉にするつもりはないけれど、彼らは税収の増減を気にしているだけで、実体経済を考えていません」「国が滅びても、財政規律が保たれてさえいれば、満足なんです」「そして内閣支持率が落ちると、財務官僚は、自分たちが主導する新政権の準備を始めるわけです」と安倍氏は語っている。
財務省の力の源泉について橋本氏が説明した。
「予算の箇所付は主計官が決めます。国会議員は政策のためにも地元のためにも予算をつけてもらわなければ困る。つまり国会議員が主計官に頼むわけです。政治家はみんな財務省に借りがある。そこが強み。それに何といっても国税を握っていますからね。(査察に)入るぞとは言わなくても、(政治家は)もうお手上げです。こうして財務省は人脈を張り巡らしていくのです」
橋本氏はこうも語る。
「財務省の力は強い。安倍政権はおそらく、財務省と徹底的に対決して長期政権になった唯一の例かもしれません。適当に、うまくやった方がいいわけですからね」
だが政治家が財務省と適当にうまくやって、財政規律ばかり気にした結果が、失われた30年だ。財務省が日本経済を順調に成長させ、若い世代が就職するのに困らない社会を実現したのなら、批判する理由は全くない。けれど日本は世界でたった1か国、他国が成長を遂げてきた何十年もの間、殆ど成長しなかった。
白川方明日銀総裁時代の凍りつくような金融政策もあって、日本経済はデフレの中で苦しみ続けた。経済成長も雇用創出も果たせなかった財務省。このような財務省の倒閣運動に対抗するために、安倍氏は増税延期を掲げて選挙戦に臨んだ。14年12月の衆院選、16年7月の参院選がそれだ。そして安倍氏はいずれも圧勝した。
保守主義者の矜恃と楽観
回顧録で橋本氏が尋ねている。7年9か月の安倍内閣の間中、財務省との暗闘が続いていたのか、と。
「増税先送りの判断は、必ず選挙とセットだったのです。そうでなければ倒されていたかもしれません」と、安倍氏。
再度強調したい。内閣の方針に従うべき頭脳集団が逆に倒閣を仕掛けてくる。本末転倒のあるまじき状況が続いていたのだ。その圧力を、安倍総理は、国民の支持は我れにありと示すことで、撥ねつけた。財務省路線でさらなるデフレに落ち込み、就職もできない若い人たちが多勢生まれる社会など、もう真っ平ご免だ。だから国民は朝日新聞が何を言おうが、財務省が何を仕掛けようが、安倍氏を支えたのだ。
だが、暗闇の中から狙いを定めて政権の足を引っ張るのは財務省だけではなかった。本書342頁などに詳述されている厚生労働省も同類だ。
心打たれるのは、こんな酷い状況下でも安倍総理が保守主義者の矜恃と楽観を失っていないことだ。困難な課題に取り組むことを「時代に選ばれた保守政権の使命だ」と受けとめていた。
外国要人とのエピソードも痛快だ。冗談を解さないオバマ米大統領が、日本はアメ車を買わない、非関税障壁ゆえだと論難したことにどのように反論したか。沖縄の米軍基地の土地は米国のものだと思い込んで、普天間基地の土地の値段を尋ねたトランプ大統領にどう対処したか。習近平国家主席が実は共産主義も社会主義も信じていないと、事実上、打ち明けたことなど、仰天の話が続く。
小泉純一郎氏も小池百合子氏も登場する。政治は権力闘争なのだ。非情でドライな絵が描かれている。
国民と日本のために、これほど戦った政治家がいた。そのことに深い感動を覚えた回顧録だった。