「 仏知識人の世界観と日本の国防戦略 」
『週刊新潮』 2022年11月17日号
日本ルネッサンス 第1024回
欧州の大国のひとつ、核を保有するフランスから歴史人口・家族人類学者、エマニュエル・トッド氏が来日した。シンクタンク「国家基本問題研究所」の15周年の会員の集いで、3時間半にわたって行ったセミナーは刺激に満ちていた。
旧ソ連の崩壊を、その15年も前に予測して世界的名声を得たトッド氏は、ロシアのウクライナ侵略戦争をとば口として、世界はすでに第3次世界大戦に入っていると見る。だが、第1次、第2次大戦と、トッド氏の言う「今次の大戦」の大きな違いは、前者が各勢力が上り調子の中で発生したのに対し、後者は各勢力のいずれもが力を衰えさせる中で発生したことだという。
トッド氏はまた、米露は共に凋落していく大国であり、中国は異常な出生率の低さ(1.3)故に中長期的には世界の脅威になり得ず、これまた衰え行く国だと見る。欧州の雄、ドイツについては独特の見方をとる。ドイツはただでさえ政治的機能不全に陥っているが、ウクライナ戦争でアメリカに潰された、と言うのだ。フランスに関しても、アメリカがフランスの軍需産業を潰しにかかっていると述べる。イギリスはEUから離脱したにもかかわらず、経済は全くふるわないと切り捨てる。
トッド氏の発言は、たとえば中国がなぜ大きな脅威ではないかという重要な点について、十分な裏づけを示さないために、少々物足りなかったのだが、氏の言わんとすることの中で最も重要なのは米国と、北大西洋条約機構(NATO)の他加盟国やEUとの距離が拡大したという点に凝縮されるのではないか。
米国のユーラシア戦略は、同大陸を「コントロール」し、ドイツと日本を抑えこむことだと、氏は主張する。わが国は現在、年末に向けて国防戦略などの大幅な見直しの作業中だ。戦後体制を変える勢いで国防政策の根幹を変えるべきいま、最大の力点のひとつがより緊密な日米同盟の構築である。
米国は日本を抑えこむよりも、日本が立ち上がり、自らを守り、台湾防御にも貢献できる強く自立した国家になることを切望している。その点、ヨーロッパの知識人、トッド氏の対日アメリカ政策への批判には同意できない。だが、氏の発言を単にアメリカに絶望したフランス人学者の批判として聞き流すべきでもない。米欧間には明らかに相互不信の溝があること、中露両国がここぞとばかりに介入していることを、頭に入れておかなければならない。
ちなみにドイツのショルツ首相は11月4日、ウクライナ戦争勃発後、G7首脳として初めて北京を訪れた。ショルツ氏の社会民主党と連立政権を組む、緑の党や自由民主党の強い反対を押し切っての訪中だった。氏の北京滞在は11時間、宿泊せずに中国を離れたのはドイツ国内のみならず、米国や欧州諸国の懸念を考慮した結果だろう。
中国は自身の立場が国際社会で厳しくなると、必ず相手陣営の分裂を画策する。習近平国家主席はとりわけ戦闘的で強硬だ。習氏はロシアを擁護して侵略戦争を非難せず、先の共産党大会では驚くべき強権人事で専制独裁体制を強めた。結果、国際社会で孤立を深めている。
アメリカに絶望している
中国を取り巻く状況の厳しさは10月7日に米国政府が発表した半導体政策にも顕著に見てとれる。バイデン大統領が決定した半導体輸出のさらなる規制策は中国の成長の息の根を止めかねない強い措置だ。対中制裁を巡る西側諸国のこうした団結の中で、最も弱い輪だと見られているのがドイツである。
ショルツ首相は北京訪問だけでなく、それより前の10月26日にドイツ最大の湾、ハンブルク港にある4つのターミナルのひとつについて、権益の一部を中国の国有企業、コスコグループに売却した。緑の党だけでなく、ドイツ政府の経済、内務、国防、運輸、財務各省が反対した。それでもショルツ氏は売った。アメリカならずとも、ドイツの外交姿勢を牽制したくなるのは当然だ。トランプ政権以降、より顕著になった米独関係のきしみが拡大されかねない。
アメリカに絶望していると言うトッド氏の対米不信は根強く、ウクライナ戦争の原因は、NATOを東方に拡大した米国を筆頭とするNATO側にあると主張する。見解の相違としか言えないが、このような考えが欧州にあることも、知っておかなければならない。他方、米国の力が衰えているとの氏の指摘は誰よりも日本人が忘れてはならないことだ。
氏はこの戦争では西側ブロックが勝つとは思えないと繰り返す。ロシアは戦争開始直後、軍事的には強くても経済的には持ちこたえられないと見られていた。今日までの結果を見れば逆だ。ロシアは経済的には耐え続けている。その現象は、「アメリカの伝統的な力にダメージを与え、ドル基軸通貨体制に支えられた金融システムや貿易決済制度の見直し」につながっていくと、トッド氏は見る。「真の国際通貨はドルでなく石油やガスなのだと、ロシアが迫っているわけです」と語る。
「核武装すべきだ」
産経新聞特別記者の田村秀男氏が反論した。
「アメリカのドルの覇権は簡単には崩れないでしょう。ゴルバチョフのソ連を崩壊させた要因は以下の通りです。レーガン政権が高金利政策をとり、石油の値段が下がった。同時にレーガン政権はサウジアラビアを抑えこんで、石油を増産させた。一旦暴落した石油価格は元に戻ることなく定着して、結局ゴルバチョフはアメリカに対抗できずに敗北した。ゴルバチョフは後年、ソ連が敗北したのはサウジアラビアを知らなかったからだと述懐していたそうです」
米国の中間選挙で、予想どおり共和党が上下両院を制すれば、米国のウクライナ政策が修正される可能性がある。共和党内には対ウクライナ支援に消極的な意見も少なくない。米国が消極策に転ずれば、米軍支援でもっているウクライナ軍の反撃はにぶり、戦況に重大な変化が生まれるだろう。
トッド氏がこの戦争で西側ブロックが勝つとは思えない、ロシアが耐え抜く可能性がある、と主張したのはこうした状況を念頭においてのことか。ではわが国への影響はどうか。台湾、沖縄について、中国に絶対に誤解させてはならない。そのために岸田文雄首相は年末にかけてこれまでにない異次元の力強さを誇る国防戦略を打ち出すのがよい。トッド氏はこうも語った。
「ウクライナ戦争で核という武器は完全な安全を保障するものであると証明された。日本は(人口上)若者を軍事面に投入することが難しい。ならば、核武装すべきだと、私は思います。核こそ平和維持に必要だと私は確信しています」
中国に侵略戦争をおこさせないために、強い抑止力を構築しなければならない。だから核についても考えよ、とフランスの知識人は熱をこめて語った。