「 五輪、北京に開催の資格はあるのか 」
『週刊新潮』 2021年3月4日号
日本ルネッサンス 第940回
国際平和と友好を象徴し、政治を超越したスポーツの祭典とされながら、五輪はおよそいつも高度に政治とカネによって差配されてきた。だからこそ、いま警戒すべきは約1年後、北京冬季五輪の成功を介して勢力拡大をはかる中国共産党政権の目論見である。
北京五輪より前の7月開幕予定の東京五輪は、五輪組織委員会会長に橋本聖子氏が就き、再起動した。前会長、森喜朗氏の「女性の多い会議は時間がかかる」という趣旨の発言が「女性蔑視」、五輪憲章の精神に著しく反すると、内外で激しい反発を招いた。
森氏の発言は確かに不適切で、氏は謝罪し辞任した。視点を少し遠くに置けば、森発言への反発を北京五輪に敷衍して考えることの重要性が見えてくる。なぜなら、北京五輪開催を構える中国政府の所業は、森発言とは異次元の究極の人道に対する罪に相当すると見られているからだ。そんな中国が北京五輪の成功を引っ下げることで、国際社会において信頼される大国としての地位を固めようとしているのである。
北京政府は100万人規模のウイグル人を厳しい監視下におき、信教、思想、言語、文化、あらゆる面において、全ての自由と民族的特性を奪い去りつつある。ウイグル人女性たちは毎晩のように連れ去られ、兵による集団レイプを受けている。ウイグル人は男女を問わず、多くが避妊手術を強制され、中国共産党の民族浄化作戦の下で、この世の地獄を生きている。
このように書くと中国共産党政府は真っ向から否定する。続けてウイグル問題などは全て中国の国内問題であり、外国政府や外国人の干渉は許さないと強弁する。さらに表向きの第三者に、中国政府のウイグル人政策を褒め讃える論考を書かせる。
かつて毛沢東は米国人記者のエドガー・スノーを味方に引き入れ、中国共産党を理想の党として描かせた。今は新華社がパリで暗躍中だ。2月18日、新華社は「新疆を二度訪れ、西側の嘘を暴く」と題してフランス人作家のインタビューを配信した。
人道に対する罪
彼は新疆ウイグル自治区は「急速に発展」しており、ジェノサイドなどはデマだと語っている。中国の思惑にぴったり合致する言葉の数々だ。時代が変わっても中国人の戦略は基本的には変わらない。ある種の既視感を覚えた。
ウイグル人がどれほど弾圧され、ウイグル人女性がどれほどレイプされ、殺されているか、すでに漫画家の清水ともみさんと静岡大学教授の楊海英氏が『命がけの証言』(WAC)にまとめている。ちなみに清水さんはモンゴル人についての著書も間もなく上梓する。
米国議会は中国共産党の民族弾圧に関する詳細な報告書をすでに発表しており、共和、民主両党の共通認識となっている。共和党から民主党への政権交代時に、両党はウイグル人に対する中国共産党の所業がジェノサイドであるとの認定を共有した。ジェノサイドは人道に対する罪で、時効がない。米国の決意は固い。
ポンペオ前国務長官は2月16日、FOXニュースの番組に出演して、北京五輪をナチスドイツが主催した1936年のベルリン五輪になぞらえ、冬季五輪の開催地変更をIOC及びバイデン政権に提案すると語った。1月22日には、共和党上院議員7人が同趣旨の決議案を提出済みだ。
問われるべきは、ジェノサイド疑惑の北京政府に五輪開催の資格を与えてよいのかということだ。中国共産党の本質に正面から向き合うことだ。これまで日本も国際社会も、中国共産党の本質を読み違えてきた。かつてと同じ間違いをしてはならない。2008年の北京五輪のとき、世界は中国共産党によるチベット弾圧に目をつぶった。チベット人は焼身自殺という最も苦しい死を選んで、世界に中国共産党の非道を知らせようとした。それでも私たちは北京五輪に参加した。
それ以前の1989年、北京政府は天安門で学生や市民多数を殺害した。だが、対中制裁に、とりわけ我が国は消極的だった。ブッシュ(父)米政権は天安門事件発生からひと月後に、スコークロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官を北京の鄧小平の許へ密使として送り込み、中国共産党を支えた。こちら側の一連の甘く寛容な対応を北京政府は嗤っていたに違いない。その証拠に彼らは時代が下ると共に弾圧を強めて今日に至っているからだ。
中国共産党は一党独裁体制を守るためには漢民族、異民族を問わず、血の弾圧をやめない。これからも続けるだろう。そうしなければあの政体はもたないからだ。チベット、ウイグル、モンゴル、香港、さらに劉暁波氏のような中国共産党一党独裁に立ち向かう漢民族。やがて台湾も搦めとられる危険性がある。沖縄も例外ではない。中国政府が重ねてきた人道に対する罪の事例には事欠かない。
冬季五輪の開催地変更を
にも拘わらず、日本も世界も中国市場の大きさに幻惑され、目先の利益を追う。或いは、深い歴史と文明に魅了され、中国の本質を見誤る。独裁性、非民主性、残虐性、国際法違反を特徴とする共産党政権のおぞましさにも異を唱えきれない。今日の状況を招いた責任の半分は、物を言わずにきた私たちの側にある。
だからこそまず、私たちは自問すべきだろう。私たちは世界を大中華主義で染めたいのか。人権弾圧を許して民主主義を息絶えさせたいのか。現在の国際法に替えて中華の法を確立し、世界秩序を大転換したいのか、と。中国の言動をこのまま受け入れ続ければ、いつか世界全体が中華の支配するところとなる。
そんなことはおよそ誰も望んでいない。現行の民主主義がたとえ不完全であっても、地球社会は民主主義体制の下にある方が幸せだろう。国際法を遵守し、人権を尊重し、人種、民族、宗教に拘わらず全ての民族、全ての人々の自由と尊厳を守るにはその道しかない。中華帝国の下では、人間は幸せとは遠いところに連行され打ち捨てられるだろう。
バイデン大統領は今年、民主主義グローバルサミットを開くと公約した。まさに価値観の戦いの戦端を開くということだ。中国の一党独裁専制政治とは正反対の道を探る米国に、わが国でも協調の動きが出始めている。
超党派の「対中政策に関する国会議員連盟」はジェノサイド疑惑についての調査の必要性を訴えている。自民党の「日本ウイグル国会議員連盟」が古屋圭司会長の下、超党派議連に発展改組する。各議連に期待しつつ、具体的行動として、まず北京冬季五輪の開催地変更を世界に呼びかけることが必要だ。アジアの大国、日本が声を上げることが大事だ。米国と明確な形で協調することだ。中国との熾烈な価値観の戦いで、いままた少しでも譲ることは、民主主義の道を喪う結果となるだろう。