「 穏やかさと優しさの新元号「令和」 」
『週刊新潮』 2019年4月11日号
日本ルネッサンス 第847回
資料を午前中一杯で読み終えて午後は執筆にかかろうと、早朝から書斎にこもっていた。しかしそれどころではない。上空をヘリコプターが飛び交い、騒然たる状況だ。新元号の決定と発表の日であるから、当然だろう。
落ち着かなくなり遂にテレビをつけた。時々刻々、状況が伝えられ、多くの人々が発表を待ちわびていた。皆、同じ気持ちなのだ。4月1日は新元号の発表日で、新天皇のご即位はひと月も先なのに、気のはやい私たちはこぞって新時代の到来を寿(ことほ)いでいる。
秘書たちと一緒に私は官邸の会見室の映像を見つつ、その瞬間を待った。公益財団法人モラロジー研究所教授の所功氏が出演していたが、元号について第一人者の解説には安心して耳を傾けられる。
予定を過ぎた11時40分、菅義偉官房長官が会見室に姿を見せた。
「新しい元号は『令和』であります」
はっきりした口調とキリッとした表情には威厳があった。「令和」は万葉集の「梅花の歌32首の序」に依るとの説明に嬉しさが満ちてきた。
『万葉集』とは、なんと心憎いことか。中国の古典に加えて日本の古典からも採用し得ると公にされたとき、「記紀」を想定した人は多かったはずだ。だが、『万葉集』も日本の誇るべき国書、これこそ国民文学の粋である。
早速書棚から、昭和53年8月15日出版の講談社文庫『万葉集(一)』(中西進・校注)の初版を取り出して、菅氏の説明の、メモしきれなかった部分を補った。
そこには「天平二年正月十三日に、帥(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く」とある。
「時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きようぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す」と続いている。
中西氏はこれを次のように現代語訳した。
「時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている」
全国民の歌
典拠となった「序」は大伴旅人が書いたと中西氏は解説し、さらに「序」は次のように描写する。
「ここに天をきぬがさとし地を座として、人々は膝を近づけて酒杯をくみかわしている。すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦み、大自然に向かって胸襟を開きあっている」
究極の平和と人々の睦み合う美しい風景である。その中で32人は4組に分かれて円座で歌を廻らせたと思われる。
安倍晋三首相の会見は正午を5分過ぎて始まった。200年振りのご譲位を支障なくここまでやり遂げ、無事新元号の発表に漕ぎつけた首相には、さぞかし感慨深いものがあるはずだ。選んだ「令和」には、男女、階層、職業の別なく全員が参加する豊かな国民文化への誇りが込められている。
なんといっても1200年前に編纂されたわが国最古の歌集には、天皇や皇族から農民、防人まで、まさに全国民の歌が4500首も収められているのだ。首相は語った。
「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく」
自然を愛で人間を大切にする日本の特質は、先の32首が詠み人各人の名前と肩書きと共に明記されていることにも表れている。そのような扱いは身分のある人々に限られるものではなく、663年に日本が惨敗した「白村江の戦い」の後、九州辺要の地の守備にあたった防人たちも同様だったのである。戦いから約90年後、約100首が防人たちの名前と、その妻のものさえ一緒に『万葉集』に編入された。
このようなことは当時の大国、中国の隋や唐でさえありえなかった。彼の地では農民や兵士は使い捨てだったが、わが国では農民や兵たちは大御宝(おおみたから)と呼ばれた。彼らは歌を詠み、その歌が歌集に残され、1200年後の今に伝えられている。
中西氏によると『万葉集』の歌の約半分は作者未詳である。氏の説明だ。
「無名歌を残したような人々が『万葉集』の根幹を構成する人々である。(中略)多数の人々の歌を、歌として認定し、その中に有名歌人の作も交えるのが『万葉集』である」
日本が一人一人の人間を大事にして、国造りを進めてきたことの証のひとつが『万葉集』であろう。
歌は人の心、感性を表現し、神話は民族の心と感性を表現すると言ってよい。その神話の性格が、わが国と他国とは根本的に異なると指摘する一人が『アマテラスの誕生』(岩波新書)の著者、溝口睦子氏である。
大和の道を選んだ
同書によると、日本の神話や伝説には民間の古い創世神話や英雄伝説が大量に取り込まれているが、たとえば朝鮮半島の神話・伝説の主文献である『三国史記』や『三国遺事』に記録されているのは「王権や支配者の起源を語る神話や伝承」だという。重視されていたのは庶民の幸福や楽しみよりも、支配者の権力や権威だったと見てよいだろう。
万葉の歌人たちがのびのびと大らかに謳い上げている、迸(ほとばし)る情熱が特徴でもある『万葉集』から新元号が選ばれ、日本の長い元号の歴史で初めて漢籍から離れたことは、きっと日本の歴史への深い興味をもう一度、呼び起こすことだろう。
わが国が未だ文字を持たなかった時代、私たちは中華文明の影響を受けて文字を学んだ。聖徳太子は中国を尊びながらも、わが国を勝手に属国と見做す中国に、607年、日本は中国と対等の国だと宣言した。
その誇りと気概は受け継がれ、女帝、斉明天皇は朝鮮半島に兵を出し、唐と新羅の連合軍と戦う決断をした。日本は唐・新羅連合に敗れはしたが、唐に和睦を乞わなかった。女帝の皇子たち、天智天皇と天武天皇は撤退したものの、唐の脅威に果敢に立ち向かった。
天智天皇は中華帝国に対する軍事的防護を強化し、天武天皇は日本人の日本人たる精神的支柱を打ち立てた。それが、日本の民間の古い創世神話や英雄伝説を大量に取り込んだ『古事記』である。
その先に、まさに慈悲と徳を実践した聖武天皇の政治がある。
『万葉集』の編纂は聖徳太子亡き後に始まり、聖武天皇の崩御後、完結したと見られる。民族の生き方として中華の道ではなく大和の道を選んだ歴代天皇の時代を通して編纂されたことになる。
こんな歴史を想い起こさせるのが新元号だ。即位なさる陛下と、国民の心が固く結ばれ、その歩まれる道が明るく照らされ、良い時代になることを心から願っている。