「 習近平は権力基盤を固めたか 」
『週刊新潮』 2017年12月7日号
日本ルネッサンス 第781回
いま64歳の中国国家主席、習近平氏はいつまで君臨するのか。毛沢東と並ぶ絶対権力者としての地位を固め得るのか、軍は掌握しているのかなど、見極めるべき点は多い。
なんと言っても、氏は中華人民共和国建国100年の2049年までに「中華民族は世界の諸民族のなかにそびえ立つ」と宣言する人物だ。
中国共産党創設から100年目が20年だが、氏は、それまでに、経済、民主的制度、科学・教育においてより充実し、調和的で人々の生活がより一層豊かな小康社会を実現させると公約した。
それからさらに15年後の35年までには、社会主義現代化を実現するそうだ。具体的にはアメリカを追い抜いて世界一の経済大国になり、中華文化の広く深い影響力を各国に浸透させることを習氏は希望している。
そこからもう一度、15年後、中国は他の国家に抜きん出る軍事力を構築するという。国を支える経済力と軍事力、「富強」の双方で人類最強の国となり、中華民族が「世界の諸民族のなかにそびえ立つ」夢を実現すると、習氏は繰り返した。
氏は「アヘン戦争(1840年)以降、中国は内憂外患の暗黒状態に陥り」苦労の連続だったが、中華民族は3段階の偉大な飛躍を実現したと強調する。それは「立ち上がり」(站起来、毛沢東)、「豊かになり」(富起来、鄧小平)、「強くなった」(強起来、習近平)——の3段階だ。自身を毛、鄧と同列に置いたのである。
こんな野望を抱く習氏が、10月の党大会で有力後継者とされた人材を排除して一強独裁体制の基盤を整えたという見方がある。他方、そうではないと異議を唱える専門家もいる。その一人が「産経新聞」前北京特派員の矢板明夫氏である。
氏の近著『習近平の悲劇』(産経新聞出版)の指摘には説得力がある。中でも習氏と人民解放軍(PLA)の関係の分析には注目したい。
軍を信用していない
PLAは鄧小平時代に7大軍区に分けられ、各軍区にはそれぞれ役割が課せられていた。習氏は16年2月に7大軍区を5大戦区に変革し、それまでできていなかったPLAの統合運用を可能とし、軍の機能も高まったと解説されてきた。私もそう考えてきた。
矢板氏はしかし、この軍改革はとどの詰まり、権力闘争だったのであり、統合運用以前の問題だという構図を分析してみせた。習氏の目標は7大軍区の内の瀋陽軍区と蘭州軍区を潰すことだったという。前者は徐才厚上将が司令官を務め、後者は郭伯雄上将が司令官を務めていた。
徐才厚、郭伯雄は共に胡錦濤政権を支えた。習氏は腐敗撲滅運動と称して政敵を倒してきたが、徐才厚は14年に、郭伯雄は15年に摘発され、胡前主席を支えた軍の最高幹部2人は物の見事に失脚させられた。
習氏は2人が司令官を務めていた瀋陽軍区と蘭州軍区も潰そうとしたが、そこまでの力はなかった。かわりに成都軍区と済南軍区を潰して東西南北中の5大戦区にした。瀋陽軍区は北部戦区として、蘭州軍区は西部戦区と名称を変えて残った。
驚くべきことは5大戦区の人事である。
「5人の司令官の内、4人までも、AからB、BからC、CからAといった形で国替えさせた」にすぎないと矢板氏は表現している。
狙いは上官と部隊を強引に切り離すことだ。習氏は現場を信用していないのだ。国家主席として軍の全権掌握を目指す習氏はこれ以外にも軍の制度改革を行った。たとえば4総部の解体である。
PLAには4総部と呼ばれる中枢組織があった。総参謀部、総政治部、総後勤部、総装備部である。これを16年1月に解体して15の局に分散した。結果、軍の全体像を把握できるのは習氏1人になった。習氏は本当に軍を信用していないのであろう。
氏は共産党中央軍事委員会の委員長だ。文字どおり、軍のトップだが、その地位にありながら、部下である軍幹部や部隊を信用していないのであれば、PLAの側にも習氏への全幅の信頼があるとは言えないだろう。
15年9月3日に、習氏は抗日戦勝利70周年の軍事パレードを、韓国の朴槿恵大統領(当時)やロシアのプーチン大統領を招いて行った。そのときに「30万人の軍縮」を突然発表したが、同削減案に対する軍の反発、不安も強いという。
今年3月に全国人民代表大会が開催されたが、直前の2月22日、数千人の退役軍人が就職の斡旋と待遇改善を求めて北京中心部で大規模なデモを行った。「退役軍人は全員、軍事訓練を受けた」人々で、「組織化され」ている。加えて治安を担当する武装警察は彼らに対して殆ど手を出さないというのだ。政権にとっては大いなる脅威であろう。
反日に走る構図
また、PLAが自らの存在価値を知らしめるために対外強硬路線を取る可能性も矢板氏は指摘する。一例が、16年6月にインドが自国領だと主張するアルナチャルプラディッシュ州に2中隊250人のPLA兵士が侵入し、インド軍が戦闘準備態勢に入り緊張が高まったことなどだ。
習氏の統治の特徴は自身へのより高度の権力集中であり、その裏返しとしての国民や軍、あらゆる分野へのより強い締めつけである。習氏が第2の毛沢東を目指していると分析される理由もここにある。
矢板氏は習氏の外交の特徴を3点に絞る。➀脱韜光養晦(とうこうようかい)、つまり低姿勢からの脱却、➁鄧小平時代以来の全方位外交からの脱却、➂胡錦濤時代まで続いた経済主軸外交からの脱却、である。
わが道(中華の道)を行くという政策だと考えてよいが、その中で政権の求心力を高める基本が反日である。12年の習政権発足以来、尖閣諸島への航空機、艦船による領空、領海侵犯が繰り返し行われた。
13年からの反靖国参拝キャンペーンでは世界各地の中国大使に任国で反靖国キャンペーンを張らせた。結果、スーダンやアルゼンチンなど、遠いアフリカ、南米諸国で反靖国の主張が展開された。
14年には12月13日を南京事件の国家追悼日として定めた。
15年には抗日戦勝利70周年の軍事パレードを突如、行った。
16年夏には尖閣諸島に漁船400隻が大挙して押し寄せた。それらに乗り組んでいたのは100名以上の武装海上民兵だった。また、16年にはそれまでくすぶっていた徴用工問題で中国の司法が積極的に対日企業訴訟を受理し始めた。
17年には731部隊が30万人の中国人を殺害したと報じ始めた。
軍との相互信頼に欠け、経済改革にも失敗している習氏が第2の毛沢東を目指し、求心力を高めるために、反日に走る構図が見てとれる。習体制の実の姿をよく見て、こちら側の備えを固めることが大事だ。