「 日本と世界が知るべき日本軍の真実 」
『週刊新潮』 2016年12月1日号
日本ルネッサンス 第731回
近隣諸国から歴史問題を突き付けられる年月が重なり、それでなくても、GHQの占領政策に始まる戦後教育で「軍国主義」の弊害を教えられてきた日本人は、軍や戦争などというと、ほぼ自動的に全て悪いことばかりだったと思いがちだ。
「日本だけが悪くて戦争をしたのではない。戦争に至った事情をよく見れば、当事国全てに相応の原因と責任がある」と主張してきた私でさえも、旧日本軍を人間的側面から正当に評価してきたかといえば、そうではない。
この点に関して、非常に多くを教えてくれる本に出会った。『七歳の捕虜・ある中国少年にとっての「戦争と平和」』光俊明、社会思想社・現代教養文庫)である。
著者の光俊明氏は昭和10(1935)年10月、中国山西省南部の山岳地帯に生まれたらしい。生地一帯は耕地が少なく中国の最貧地区のひとつだ。貧しくとも、父母と妹の4人家族で幸せに暮していたが、父が徴兵され、生活は一変する。まず幼い妹が養女に出され、それでも苦しくて、母は再婚、再々婚を重ねた。彼女は心中固く、俊明少年に教育を受けさせたいと願っていたが、農民の夫は教育は無用と考えた。
町に国民党軍が入ってきたとき、夫に棒でひどく殴打されても意思を変えなかった母は、郭中尉に俊明を預け、教育してくれるよう要請した。俊明7歳のときである。
郭中尉は俊明を部隊に引き取り、駐屯先で学校に通わせた。ちなみに俊明(チュンミン)は郭中尉のはからいでつけた名で、俊明は自分の本当の名も父母の名も完全に忘れてしまった。
時は日中戦争の真っ只中だ。郭中尉の部隊は黄河の向こう岸の洛陽を目指した。移動は昼夜の別なく、降り続く雨の中、決行された。全員、下着まで濡れ、重い荷物を背負っての行軍でも、国民党軍の兵士たちは、幼い少年を励まし、手を引き、守りながら進んだという。通州事件で日本人を惨殺した中国兵の姿からは想像できない、幼い者に対する優しさが伝わってくる。
「痛かったろう」
しかし彼らは昭和18年6月、黄河に到達することさえできず、日本軍に投降、全員捕虜となった。「鬼のような日本軍」と信じ込んでいた俊明少年は、殺されるかもしれないと考える。だが、河南省済源県王爺廟(おうやびょう)に置かれた日本軍の本陣に到着したとき、彼は全く思いがけない取り扱いを受けた。俊明の足の傷に気づいた日本兵が駆け寄ってきて、口々に言ったのだ。「痛かったろう。さぞ痛かったろう」と。
「まるで自分たちがけがでもしたようにいたわって、いろいろな薬をつけ、真っ白な包帯を巻いてくれました」と、氏は述懐する。第37師団歩兵第227連隊でのことだ。
彼は日本兵は「自分には何も害を及ぼさない、むしろかわいがってくれるかもしれない」と直感したと振りかえっている。
彼はまだ7歳、皆が彼を「チュンミン」ではなく、「俊明(としあき)」「俊坊(としぼう)」「俊(とし)ちゃん」と呼んで可愛がった。軍医の加地正隆大尉は、十分な食事と清潔さを保たせるなど、少年の健康に心を配った。中国語が堪能な倉内軍曹はまるでわが子に教えるように「毎日熱心に」日本語を教えた。鹿児島出身の彼は絵葉書を見せて、故郷の山や海、そこを行き交う船の様子も語ってきかせた。
「俊坊」は「大きなだいこん、きれいな女の人に、きれいな景色。殺風景な所でばかり育った私は、こんな美しい所があるのかと、びっくり」した。
捕虜になって4か月、俊明少年は国民党軍の捕虜が、郭中尉を含めて全員、北京に移送されたことを告げられる。倉内軍曹は、無邪気に遊ぶ俊明が郭中尉の移送をどんなに悲しむかと思って言えなかったとして、こう説明したという。
「俊坊のことについては、彼(郭中尉)とよく相談し、話もいろいろ聞いた。郭中尉は、もう私は俊明に何もしてやれないから、日本軍の方で立派に育ててやってください、と頼んでいったよ」
国民党軍の中尉は、1人の貧しい母親から託された子供を大事に守ろうと最大限の努力をし、彼らを捕虜とした日本軍もまた敵軍の中尉と相談したうえで幼子の運命に責任を持とうとしたのだ。
事実、俊明氏は、「中国軍捕虜が北京に送られて行ってしまってから、日本の兵隊さんたちは、いっそう私をかわいがってくれるようになりました」と書いている。
俊明少年はその後ずっと日本の敗戦まで、加地大尉や倉内軍曹らと行動を共にする。それは華北から武漢、広東、華南、ベトナム、タイまでの約7000キロを歩いて移動するという信じ難くも壮大な行軍だった。7000キロを、戦火をくぐりながら10歳に満たない少年が踏破したのだ。日本軍はただでさえ大変な行軍の中で、少年を守り通した。軍事作戦上、それは決して少なくない負担だったはずだ。
軍人の人間的側面
途中幾度も、加地大尉は、八路軍や国民党軍との戦闘地域に進軍しなければならず危険なので、後方に残るのがよいと俊明少年に勧めている。その度に彼はそれなら自殺すると言い張って加地大尉らにぴったりくっついて離れなかった。
実は、俊明少年はこの戦場で日本への憧れの気持ちを抱き始めている。凄いことではないか。それだけ日本軍兵士の、少年に対する愛情が本物だったということだ。1人2人の兵ではなく、部隊全体に幼い少年を守ってやりたいという愛情が存在したことの証であろう。その想いが俊明少年の心に染み透っていたからこそ、彼はずっと一緒に行動することを望んだのだ。
37師団がベトナムに到達したとき、すでに日本は敗戦を迎えていた。全員がイギリス軍の捕虜となり、中国は戦勝国となった。
中国側が、俊明の身柄引き渡しを要求して引き取りにきたとき、彼は中国に戻ることを激しく拒否した。加地大尉が、日本は敗戦国だ、戦勝国の母国に戻るのがいいと説得すると、俊明は泣きながら町を飛び出し、虎がいるといってこわがっていたジャングルに逃げ込んだ。その姿を見て、加地大尉は「日本に連れていって大学まで出してやろう」と決めたという。
全員が昭和21年5月に日本に引き揚げた。俊明は満10歳になっていた。山西省山間部から7000キロ、3年余の旅をようやく終えたのだ。彼は加地氏の故郷熊本で、加地氏の子供として育てられ、大学まで進み、熊本出身の女性と結婚した。
その一生を辿れば、国民党軍、大日本帝国陸軍の軍人に共通する人間的側面があたたかく伝わってくる。このような日本軍の側面を、いまこそ私たちは語り伝えたいものだ。