「 オバマ大統領の広島訪問で考えた 指導者の「言葉」と「行動」のギャップ 」
『週刊ダイヤモンド』 2016年6月11日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1136
5月27日、オバマ米大統領の広島訪問のテレビ中継に見入ってしまった。大統領が被爆者の森重昭さんを原爆慰霊碑の前で抱き寄せた姿には、誰しも感動したことだろう。原爆を投下した国とされた国、その2つの国の思いを背負った2人の人物が、71年後に思わず知らず、歩み寄り、抱き合った。
その瞬間に生まれた心の通い合いの意味を、私は決して否定するものではない。しかし、一瞬の間を置いてわれに返った。考え始めたといってよい。果たしてこれでよいのか、と。その思いはおのずとオバマ大統領の広島訪問の意味を、その直前に行われたスピーチと重ね合わせて考える作業につながった。
「私の国のような核保有国は恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければならない」「広島と長崎は核戦争の夜明けとしてではなく、道徳的な目覚めの始まりとして知られるだろう」
オバマ大統領が発したメッセージの主眼が核廃絶にあることは明らかだ。周知のように氏は2009年4月、チェコのプラハで核なき世界を目指すと演説し、その理念故にノーベル平和賞を受賞した。2期8年の間に、では、氏はどれだけ核廃絶に向けての実績を残しただろうか。
事実は極めて冷厳である。5月28日付の米「ニューヨーク・タイムズ」紙は大統領の核なき世界に向けての理念と、理念実現に向けての実績に、「驚くべきギャップ」があると指摘した。「国防総省の最新の統計に基づけば、冷戦後歴代のどの大統領に比べても、オバマ氏の核弾頭削減数は少なかった」のだ。核なき世界を標榜しながら、一番核を減らさなかったのがオバマ大統領だと、興ざめ気味に同紙は報じた。
もう一点留意すべきは、オバマ大統領が米国の保有する核兵器の品質保全と機能改善のために、今後30年間で1兆ドル(110兆円)という膨大な予算を確保したことだ。あまりにも明白な言葉と行動のギャップではないか。
昨年7月に達成したイランとの核合意も問題含みだ。同合意は、今後10年間はイランの核開発を止めることはできても、その後の保証はなきに等しい。10年など歴史においては瞬時に過ぎる。その後、イランは必ず核開発の道に進む、そのための抜け道だらけなのがオバマ合意だというのが、少なからぬ専門家の分析である。
イランの核保有はサウジアラビアや他のアラブ諸国を核保有へと走らせるだろう。テロリスト勢力のIS(過激派組織「イスラム国」)などの手に核が渡る危険性も高い。近未来に中東さらに北アフリカに核が拡散すると考えなければならない。オバマ大統領の合意で、世界はそのような危険な局面に立たされている。
「核なき世界への挑戦」という自身の夢の形を整えるためにイランに譲ったという根強いオバマ批判は、現実を見れば当然である。核も争いもない平和な世界は、確かに全ての人の願いである。政治の責任はその実現にある。理想に1歩でも近づいたという実績を残さなければならない。オバマ大統領は、しかし、理想から逆に遠ざかった大統領と位置付けられる。
核を落とされた日本は、では、氏の広島訪問をどう捉えるべきか。オバマ演説に、その一言がなかったように、非人道的行為の極みである原爆投下に関して、米国の大統領として謝罪する気はなかったことを、日本国も日本人も、国際関係の冷徹さとして忘れてはならない。
オバマ大統領の広島訪問は、自身の語る核なき世界の夢への最終章以上でも以下でもなかった。広島でも、中東でも、南シナ海でも、言葉は美しくとも、行動の伴わない指導者だった。これがオバマ大統領に関する冷たい現実である。