「 ダライ・ラマ法王の中国観 」
『週刊新潮』 2013年12月5日号
日本ルネッサンス 第585回
チベット仏教の精神的指導者、ダライ・ラマ法王14世が来日し、関東、関西地域で幅広く、日本の人々に語りかけた。11月15日の来日から26日の離日まで、都合3回、私は法王の話を聞いた。
昨年に続いての取材で見た法王は極めて健康そうだった。11月16日、千葉工業大学での学生との対話の後、私たちは少人数で昼食をとったが、法王は健啖家だった。専属の料理担当者が調えた食事は大きめの重箱に色彩豊かな野菜中心の惣菜が詰められていた。小さめながら丼によそったご飯も一緒だ。日本のおコメが好きという法王は惣菜の多くを平らげ、ご飯のお代わりを頼んだ。始終、笑い声をたてながら、如何にも、日本のおコメが好きといった風情で召し上がる。食べっぷりの良さがエネルギーの素なのだ。
法王はどこに行っても、自分は現在70億の地球人口の皆と同じ人間だと語る。自分は特別の人間ではなく、「あなた方と同じ」なのだと言って、人懐こい笑顔を見せる。人は皆一人の人間として、幸福を求めること、自由に考え、自由な発言を許されることが大事だと説く。法王の発言は、チベット人やウイグル人、モンゴル人を弾圧し殺害し続ける中国への批判と重なる。だが、法王の真意は必ずしも中国非難にあるわけではない。
11月19日、スペインの全国管区裁判所が江沢民元国家主席、李鵬元首相、喬石元全人代常務委員長ら5名にチベット族の大虐殺に関わった容疑で逮捕状を出したことについて、法王に尋ねると、法王は、スペインの司法判断の是非を判ずる前に、「複雑な事情」を読みとることが大事だと指摘した。
「人間の行いの背後にまで目を向けてみれば、江沢民は、中国共産党一党支配の下で、世界から、現実から、真実から、遮断されていました。閉鎖された社会の体制が虐殺に走る指導者を生み出すのです」
穏やかな対中アプローチ
つまり江沢民も李鵬も皆、中国の体制ゆえに弾圧や虐殺を指示したりすると、法王は指摘するのであり、それは必ずしも個々人の責任ではないという論理だ。現在も若いチベット僧の焼身自殺が続くほど、中国共産党と漢民族によるチベット人迫害は凄まじい。幾百万のチベット人が拷問の末、殺されたことを思えば、スペインの司法判断は当然だという反応があってもおかしくない。だが、法王は、必ずしもそのように結論づけない。中国の体制が間違っているのであり、個々のリーダーの責任はその枠組みの中で捉えなければならないと語る。
このような穏やかな対中アプローチは、習近平主席への評価にも反映されている。法王はこう語った。
「現在の指導部、つまり習近平氏は現実的に物事を見ようとしています。彼は胡耀邦の手法を高く評価しているようです」
胡耀邦は文化大革命で失脚し、その後復権を果たした。1980年に中国共産党総書記となるが、学生や市民に共感を示したことで、最高実力者、鄧小平の不興を買う。当時少しずつ知識層に広がっていた自由主義的傾向に対処するよう、鄧小平は胡に指示した。鄧は自由主義的思想を「精神汚染」とまで呼んで忌み嫌い、胡に関して「自由化に対する弱腰の姿勢は基本的な欠点だ」という非難の言葉を浴びせている。こうして87年1月に胡は総書記を辞任、89年に死亡したが、その死を悼む集会が天安門事件に発展したのは周知のとおりだ。
中国の学生や知識人の間では胡の人気はいまも高い。人間的な指導者と見られているのだ。その胡を、習近平主席が尊敬していると、法王は、次のように語る。
「習主席に会ったことのあるインドの友人たちの多くも、習にはよい印象を抱いています」
中国の現指導部へのこの種の前向きの評価を、日本各地での講演で法王は語っている。そのことと合わせて印象的だったのが、11月20日に参議院議員会館の講堂で開催された国会議員向けの講演会での発言だった。
自民党議員103人をはじめ8党で合わせて141人の参加者を前に、法王は水資源などの環境問題や中国で相次ぐチベット僧たちの焼身自殺などについて語った。昨年、法王との集会に参加した議員は232人、また昨年は「チベット支援国会議員連盟」が結成されたが、今年は主催が議連ではなく、有志の会に格下げとなっていた。集まった参加議員も講演中に中座するなど出入りが激しく、どう見ても法王の講話を真面目に聞いているとは思えなかった。1時間枠で設定された法王との対話が終わりに近づいた頃、法王は明らかにもっと話したがっていた。
非情かつ強大な脅威
「皆さんの都合さえよければ、もう少し話しましょう」
だが、議員らは次の委員会などの予定が入っているらしく、会場に残ったのはわずか20人程度だった。その少ない人数に向かって法王はこう語ったのだ。
「2年前、私は政治権限の全てをロブサン・センゲ首相に渡し、本来なら政治の問題について発言しないのですが、強調したいことがあります。我々は中国からの独立は求めていないということです。我々は中国に安全保障も外交も任せる。我々は中国の一部でよい。チベット仏教、言語、文化を守って暮らすことが大事で、独立は目標ではないのです」
中国への明確なメッセージであろうか。習近平にまつわる寛容な論評と重ねれば、法王の一連の発言は、習近平体制の中国共産党がチベット問題で新しい動きをとることへの期待感をにじませているともとれる。
他方、法王の発言は安倍晋三首相に向けた発言ともとれるだろうか。今回の法王の訪日に関して最も注目されたことのひとつが安倍首相との会談は実現するのかという点だった。
中国政府が法王と日本政府の接触を非常に気にして、あらゆるレベルで介入したであろうことは容易に想像出来る。そのような状況の中で、法王はチベットの精神的指導者として中国の指導者たちに悪意は抱いていないこと、中国から分離独立することなど考えていないことを強調して、安倍首相が会い易い雰囲気作りを目指したのだろうか。
最後に法王は相次ぐ焼身自殺について大きく息を吸い込んで、語った。
「非常に深い悲しみを感じています。幼い子供2人を残して焼身自殺した母親の運命を思うと、これ以上の悲しみはありません。しかし、チベット人が焼身自殺してもそのこと自体は中国を変える力にはなりません」
そのとおりなのだ。中国共産党はチベット人の自殺に心動かされるほどヤワではない。そのような非情かつ強大な脅威の前で生命を削りつつ暮らすチベット民族の支えに、日本国こそなるべきなのだ。