「 金正日の御用詩人が語る北朝鮮の真実 」
『週刊新潮』 2013年10月17日号
日本ルネッサンス 第578回
脱北者の張真晟氏の『金王朝「御用詩人」の告白』(文藝春秋、10月11日発売)が衝撃的である。
氏は、2008年6月26日号の当欄で紹介した詩集、『わたしの娘を一〇〇ウォンで売ります』(晩聲社)の著者である。
氏は1971年生まれ、平壌音楽舞踊大学及び金日成総合大学を卒業し、詩人としての才能を認められて2000年に統一戦線事業部に抜擢された。氏は突然、北朝鮮の絶対的な権力である中央党の部員に推挙され、金正日を讃える叙事詩などを書き始めたのだ。
だが、金正日を讃える一方で、氏は愛する古里の惨状や人々の絶望を秘密のノートに詩にして書きため、それを持って、2004年に脱北した。『わたしの娘~』はそうした命がけの脱北から生まれたもののひとつだった。
以来、氏は北朝鮮の権力内部の実相を告発する本を書こうとした。しかし、韓国政府の保護の下にあり、国家情報院傘下の国家安保戦略研究所で働く氏には、当然、機密情報公開に関して厳しい制約がついて回った。私は氏への取材をもとにして、2009年1月1・8日号の本誌で拉致問題を特集し、その中で拉致問題解決に当たって、小泉純一郎氏の政権が北朝鮮側に1兆円の支払いを密約していたとの情報を明らかにした。
この件について、当時の交渉に携わった日本側要人らは真っ向から否定した。片や張氏は同件について韓国国情院から厳しい叱責を受けた。
その後東京で再会した折、私の記事で氏に迷惑をかけたかと問うと、氏は黙って笑った。苦労をかけてすまなかったと労うと、氏は「真実だから問題ない」と語った。
このような時期を経て、氏は10年12月に国家安保戦略研究所を離れ、脱北者のインターネット新聞『ニューフォーカス』を発刊した。書くことも自由に出来るようになり、本書が出版されたのだ。
『金朝実録』
張氏は世界には2つの北朝鮮があると言う。実際の北朝鮮と一部の北朝鮮研究者たちが作りだす虚構の北朝鮮だ。北朝鮮の発表だけを信じて自由民主主義社会の価値観で判断すれば、当然錯誤が生じ、虚構の北朝鮮が出来上がる。本書で描かれているのは想像以上に興味深い、氏が体験した北朝鮮権力内部の実相である。
張氏は金王朝の公式の記録『金朝実録』の編纂を指示された。朝鮮王朝にさえ『李朝実録』があるというのに金日成、金正日の時代を輝けるものとする『金朝実録』がないのは怪しからんという理由から、このプロジェクトは考えられた。おかげで氏は金一家の神格化とは関係のない歴史文献研究所の資料に自由に触れることが出来た。一連の資料を読みといた氏は重大な歴史の真相も本書で描いた。そのひとつに、今でも韓国の学会が抱く疑問、朝鮮戦争で北朝鮮がソウルを占領した時、なぜすぐにさらに南下せず3日間も祝杯を挙げソウルに留まったのかという疑問への答えである。
同件について金日成が76年にこう語っているという。
「私がいつも南朝鮮を解放させられたのにと胸をかきむしって痛嘆するのが、あのソウル占領の3日間だった。あの時ソウルで3日間も休まず、勢いに乗じて押しまくっていたら、米国のやつらの考えも変えられた。ところがソ連が、くれると言っていた武器をくれなかった。はじめからスターリンは米国が怖くて、武器をくれる気などなかった」
スターリンは、金日成をそそのかして戦争を起こした後、米軍を呼び込み、中国を引き入れ、韓国を米軍と中国の対決の場にしようと意図した。そうなればスターリンの悪夢だった米中接近は遮断される、と計算したというのだ。
さらにスターリンはこう見ていた。米国は、膨大な兵力を保持する中国に勝てない。従って米国は近い将来、第三次世界大戦を引き起こせない。これでヨーロッパにおいて、社会主義を強化する時間が稼げる。さらに米国と中国の闘争は、極東の全地域を革命化する、と。
朝鮮戦争の背後でこのような戦いが展開されていたことを、現在の日本人は鋭敏に受けとめなければならないだろう。朴槿恵大統領の下で韓国は左傾化し、米国が内向きになり、ロシアが力を落としている。韓国が今にも中国に吸引されそうな状況下、戦略的な見方が如何に大事かということだ。
本書には拉致に関する重大な証言も含まれている。02年、小泉首相(当時)一行が平壌を訪れたときの状況が詳細に描かれているのだ。拉致問題に関して、北朝鮮側は当初から外務省と対南工作部が激しく対立していた。
北朝鮮は外務省が先行して日本との交渉に当たったが、北朝鮮外務省は日本の援助を引き出すことが第一で、拉致問題は人道主義の観点から赤十字レベルで扱えばよいと考えていたという。
自力更生の指示
だが工作活動を専門にしてきた対南工作部は事は簡単には済まないと予測した。部分的な認定であっても、拉致を認めることは絶対にまずいとして、当初から反対を主張する連名の提議書を出したという。
だが交渉は外務省レベルで進み、日朝首脳会談の日程も決まった。北朝鮮外務省は首脳会談の日本側の主目的を、・小泉政権の支持率アップ、・拉致解決の具体策よりも政権レベルの合意をめざしている、ととらえた。
一方、北朝鮮外務省が目指したのは①植民地時代の謝罪を前提とする国交正常化、②経済支援だった。
北朝鮮が当初400億ドル(1ドル=100円換算で4兆円)を要求したのに対し、日本側は驚くべき緻密な計算をして結局、双方で「114億ドル」で合意したという。
金正日総書記は日本から得る資産を前提として、114億ドルで、自力更生を可能にする経済基盤構築のための計画を作成するよう指示を出した。特に経済再建の中心事業として、全国の鉄道の複線化事業を夢みていたと張氏は指摘する。
拉致は事実上あと回しにし、日本から兆円単位の援助を引き出すことに金正日総書記も北朝鮮の幹部らも、いわば夢見心地になっていた様子が描かれている。
ところが日朝首脳会談は思わぬ方向に転じた。午前中の会談で拉致も認めず、謝罪もしなかった金正日総書記の態度に納得できなかった安倍晋三官房副長官(当時)が、昼食休みに「北朝鮮側が拉致を認めず、謝罪もしないなら、平壌宣言に署名せず、帰りましょう」と語ったのを盗聴した金総書記が、午後の会談の冒頭で拉致を認め謝罪したのは周知のとおりだ。
北朝鮮の実相に加えて小泉氏の訪朝の裏事情も詳細に伝える本書が、朝鮮半島や外交について日本人の目を呼びさましてくれると思う。