「 最高裁で平等を担保するより責任ある大人として振る舞うこと 」
『週刊ダイヤモンド』 2013年9月14日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1001
結婚していない男女間に生まれた非嫡出子(婚外子)の遺産相続分を嫡出子の半分とする民法の規定は法の下の平等を保障した憲法に違反すると、最高裁判所が9月4日、判断した。
発表文には、国民意識の変化、国際社会の勧告などに加えて、非嫡出子の相続を嫡出子の半分とすることの合理性が認められないと書かれている。
結婚と子育てを含む家族のあり方はその社会とそこに住む人々の価値観を最も濃密に示している。社会の基盤は家族にあるという価値観を日本が尊重するのなら、現行民法には十分な合理性があると、私は思う。社会のルールはその民族のよい面を後押しするものでありたいとも、私は思う。
善と悪、真面目と怠惰、正直と不正直など、相反する価値観が同居しているのが人間という生き物だ。その中のよりよい価値観を後押ししてやるのが社会のルールであり政治だと思う。婚外子と嫡出子の差をなくす方向にすべての法を改正することは、間違えば、家族や結婚の否定につながりかねないが、それでよいのだろうか。
「子は平等」「子に罪はない」「子は親を選べない」と言われれば、反論のしようはない。すべての子が等しく幸せに育ってほしいと思わない人はいない。だからこそ、日本社会は多くの努力を重ねてきた。婚外子を嫡出子と区別する戸籍の記述は撤廃され、就職に際しての身上調査も、差別と言われることを恐れて企業側は家庭環境調査などをあまり行わなくなった。
差別をなくす方向で社会が変化してきた中で、違憲判断が出された。婚外子は嫡出子と同じだけ相続出来るようになる。よいことである。
それを逆の側から見るとどうなるのか。婚外子の反対側にいる嫡出子、婚外子の母の反対側にいる妻などの心の葛藤や悲しみである。
私の家族がそうだった。父は事業家で女性にもてた。私の母を正妻として、私の知る限り別の2人の女性に子どもが3人生まれた。母も兄も私も長い時間をかけて、私たちに突きつけられた、これ以上ないほど厳しいと、私たちが感じた現実を受け入れた。
父が亡くなったとき、母と私たちは婚外子全員に全く平等に遺産を分け、差別しなかった。けれど、父の生き方によって味わった悲しみや憤りを乗り越えるほど大人になり切れていなかった私だけは、私に与えられた父の遺産を、全部使い果たした。父の遺産は一円でも手元に残したくなかったのだ。
婚外子に差別される側としての悲しみがあれば、嫡出子にも裏切られたという悲しみがあるということだ。子どもがそうなら、妻の懊悩はどれほど深いことだろう。そうした点も考えるのが良識ある大人というものだろう。
今回の違憲判断に伴って、関連法規が変えられていくことだろう。
気になるのはすでに長年、日本の税法は結婚している人々に対してよりも、結婚せずに子どもを産み育てる人々に対して、より有利になっていることだ。シングルマザーへの税制上の支援の手厚さと家庭人としての母親への支援の手厚さは、少なくとも平等でなければならないだろう。いまでもそれは逆転しているといってよいが、この傾向がさらに強化されれば、結婚や家族そのものを否定する方向へと、インセンティブが働きかねない。
はたしてそれでよいのか。日本人として本当に考えるべきだ。
非嫡出子の相続分が嫡出子の半分であることがいけないというが、家庭外で子どもをつくることはそういう結果を伴うという覚悟を、母親の側が持つのが本来の姿であろう。父親は、婚外子にも平等に分けてやろうと考えれば、その旨、遺言を残すことができる。最高裁の判断で平等を担保するより、日本人が責任ある大人として考え、振る舞えばよいことなのだと私は思う。