「 スズメの子育てを眺めるぜいたくでゆったりした時間 」
『週刊ダイヤモンド』 2013年6月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 988
関東地方が梅雨入りである。平年より1週間も10日も早いそうだ。私は母と同じく晴れ女とよく言われるのだが、雨も好きである。
強い雨が木の葉を打ち、地面をぬらし、屋根をたたいて軒先から落ちてくる。あの雨垂れの音がいい。まだ若くていまよりずっとたくさん時間があったころ、窓や扉を開けてよく雨の音を聞いた。長い午後をずっと聞き入っても、少しも飽きなかった。雨の音はあのころの私に、なぜ、あんなに優しく響いてきたのだろうか。
本当にまだ子どもだったころも、きっと私は雨が好きだったのだと思う。雨が上がって庭に出て、水たまりで遊んだ鮮明な記憶が残っている。水たまりは子どもだった私にとって、とても大切な世界だった。
その小さな水の世界をのぞき込むと思いがけないものが映し出されている。庭のグミの実がハッとするほど鮮やかな赤い色で、水たまりの中になっていたこともあった。田舎の庭の、変哲もない大小さまざまな水たまりがあれほど大事だったのは、母がたくさんの物語を読み聞かせて育ててくれたために現実離れした世界をその中に描いて、楽しむことができたからだと、いまでは思っている。
書斎から雨の庭を見ているこの時間は、なんとぜいたくでゆったりした時間だろうか。翼がぬれるのも構わずに、スズメの一群が飛んでくる。彼らはいま、子育ての真っ最中だ。彼らの早朝の食事から夕方まで、実は私はこのところずっと眺めている。連日原稿執筆に追われて早朝から夕方まで、というより夜遅くまで、デスクに座って升目を埋めているからだ。
書斎は庭に面していて、二面が床から天井までガラスになっている。日中の強過ぎる光などは障子で遮断するのだが、庭に向いた面は、できるだけ障子も全開にしておくのだ。空が白み始めるころ、そこにスズメたちがやって来る。親子連れが、少なくとも三組はいる。
子スズメの両羽を小刻みに震わせて餌をねだる姿を、私は飽きずに眺める。母スズメはベランダにまいた玄米を素早く啄(ついば)み、口移しで子スズメに与える。子スズメはすっかり甘えて、文字通り口を大きく開けて、母スズメにねだり続けるのだ。
野生の生き物の場合、できるだけ早く自立を促さなければならないはずだ。母スズメはどのくらいの期間で子スズメを独り立ちさせるのだろうか。個体の識別ができないために、そのへんはよくわからない。けれど、母スズメがいずれもとても優しく甘い母親であることは、なんとなく見て取れる。母スズメは子スズメに、幾度も幾度も口移しで食べさせるのである。
見とれて、ある日、数えてみた。1回、2回、3回…。なんと一七回も口移しで食べさせた。ということは、米粒17粒である。人間にとってはなんということのない量だが、あの小さなスズメ、とりわけ子スズメにとっては凄まじい量だろう。私は勝手に丼飯、少なくとも2杯に当たるのではないかと想像した。
やがて子スズメが自分で食べ始めたとき、今度は何度続けて、自分で餌を口に運ぶか、辛抱強く数えてみた。啄むたびに、無事に米粒が子スズメの口の中に入っていっているのかどうかは、わからない。けれどもこの丸々と太った子スズメは、母スズメから口移しで食べさせてもらうのと同じくらいの回数、自らも啄んだのだ。
物の本によると、スズメは自分の体と同じくらいの分量の餌を食べるそうである。小さなかわいらしい大食漢というところだろうか。子スズメも母スズメもこの雨にぬれて、冷たい思いをしないように、私は今度、庭の片隅の背の高い木の上に、スズメの集団住宅を作ってやりたいと本気で思っている。