「 保守の面目躍如、サッチャー氏の軌跡 」
『週刊新潮』 2013年4月18日号
日本ルネッサンス 第554回
元英国首相のマーガレット・サッチャー氏が4月8日、87歳で死去した。私は彼女の語る英語がとても好きだった。文節を明確に切るその語り方はいつも耳に心地よく響いた。党首討論で野党の批判に間髪を容れずに反論する姿も小気味よかった。彼女の言葉は、主張を貫く論理と確信、理性的でありながら熱く迸る情熱ゆえに一層魅力的に響いた。
11年にわたった英国保守党党首、また首相としての氏の働き振りは真に尊敬に値する。氏には大局観があった。彼女は事柄を歴史に則して考える縦軸と、現在進行形の国際情勢の詳細に通ずる横軸に置いて分析し、基本をおさえた政策を打ち出し続けた。国家基盤を堅固に作り直すには、何よりも国民の意思と覚悟、国民を率いる政治家の意思と覚悟が大事であることをサッチャー氏はよく知っていた。
保守党が労働党から政権を取り戻したとき、英国の影響力はあらゆる意味で長期にわたって低下し続けると見られていた。英国は非常に弱体化した中級国家と位置づけられていたが、彼女は首相就任当時こう感じていたと語っている。
「私は自分がこの国を救うことができ、ほかの誰にも救うことはできないことを知っている」(『サッチャー回顧録』日本経済新聞社)
なんという確信であろうか。私はこれを単なる自信とは受けとめていない。命かけて天命を尽すという覚悟の言葉であろう。英国の運命を担うその立場に立った自分を、全面的に信ずる言葉である。勇気溢れる武者震いが伝わってくるようだ。
この言葉は18世紀の英国の政治家で首相を務めたチャタムのものだが、サッチャー氏は心の底から、その言葉に同感したのだ。
1959年に政界入りした彼女は79年までの20年間に、保守党の失敗を実体験を通じて学んだ。英国労働党が事実上の社会主義を実施してきた中で、政権交替で保守党が与党になったとき、保守党は労働党よりも尚社会主義的な「大きな政府」へと走った。そうした安易な迎合が、問題解決どころか、問題を悪化させ、英国病を蔓延させた。英国保守党は大きな理想に向かって突き進むよりも、「現実への譲歩」を重ね悉く失敗した。そのことをサッチャー氏は痛感していた。
宰相たる者
政権奪取前の4年間、野党議員として彼女は全国を回り、有権者の意見に耳を傾け、国民が社会主義的価値観を厭い、祖国の「衰退を逆転させるために必要な苦しい手段を受け入れる覚悟が、多くの国会議員以上にできていた」ことに気づく。回顧録にはこう書かれている。
「もしわれわれがUターンによって急進的な保守主義の公約を破れば、強烈な非難を浴びることになるだろう」「それは、保守主義への道を突き進むことで社会主義者から浴びせられる非難よりもずっと大きいものだろう」
彼女が首相に就任した79年末、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した。ソ連を信頼して融和政策を進めようとしていた米国のカーター大統領が「自分は間違っていた」と告白する場面が私たちの眼前で展開されるという劇的な年だった。国民一般の意見と懸け離れたところで政策が決定される一党独裁と社会主義の本質を、カーター氏は見誤っていたのだ。社会主義国家と自由主義国家の本質的相違について、彼女は明確に表現している。「対立する二つの体制は双方とも核破壊の手段をもっているので、共存のためには適応と妥協をしなければならないが、結局は相容れないものである」。
宰相たる者にとって、共産主義、社会主義国家への幻想こそ、国を過つものだということだ。現在の中国に十分当てはまる視点ではないか。
冷戦の真っ只中にあった国際社会で強力なリーダーに駆け上がったサッチャー氏は82年初頭にフォークランド紛争を戦った。映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」にも非常にリアルに描写されている戦いである。
如何に対処すべきか、重大な決断を迫られる場面で、彼女は強い不安を覚えながらも、原則をゆるがせにはしない。一旦奪われてしまえばフォークランド諸島は取り戻せないと、英国国防省が分析したとき、氏は断固として反論する。「取り戻さなくてはならない」と。
サッチャー氏は、「鉄の意志で」戦った。最終的に商船も戦列に加え、100隻を超える船と2万5,000の人員を投入した。英国の総力をあげての戦いだったと言ってもよいだろう。英国が勝利したとき、英国の国際社会における立場は大きく変わった。すでに喪ったと見られていた国家としての強い意志を、英国は国際社会に示したのだ。英国は大国であり、誇りある国であることを、具現化してみせ、衰退する国家という位置づけに、断じて甘んじなかったのである。
自主独立の精神
無論、フォークランド紛争だけで英国病に象徴される疲弊しきっていた国家の立て直しが実現したのではない。その前から、サッチャー政権は国家再生戦略を実施しており、フォークランド紛争はそれに大きな弾みをつけたにすぎない。
英国の再生は、ではどのようになされたのだろうか。彼女は書いている。自分は貧しくもなく、豊かでもなく、時たまの贅沢を楽しむには日々の生活を節約しなければならないような家庭に育ったと。自分の生活や楽しみ、豊かさは自ら工夫し、切り開くことから始まるといっている。食料品店を経営していた父は、自分の店の成長を国際貿易の大きく複雑な世界に結びつけるのが好きだったと。庶民の生活を支える経済は世界とつながっているのであり、広く外に開かれなければならないと語っているのだ。
サッチャー氏は、国に依存する社会主義的価値観や福祉の過剰な重視に替わるものとして、自主独立の精神を尊ぶ教育改革を行った。英国人はどんな人々だったのか、英国の誇りとは一体なんだったのかを教える歴史教育にはとりわけ力を注いだ。
現在の日本にとっても大いに参考になる多くの政策を実施した氏は、首相退任後の90年代に少なくとも3度来日した。私は95年と97年の2度、公開の対談及びセミナーで同席する機会を得て、食事も共にした。「鉄の女」という形容詞とは程遠いにこやかさと、他者の発言に耳を傾けるときの真剣な眼差しが印象的だった。一緒に写真におさまったとき、彼女のドレスの大きな飾りボタンがとれて床に落ちた。すると、彼女はさり気なく、手にしていた銀色の小さなバッグで、とれたボタンの跡を隠し、私を見てニコッと笑った。実にチャーミングな笑顔だった。