「 被災者が福島で暮らすために 」
『週刊新潮』 2012年3月8日号
日本ルネッサンス 第500回
本誌で「がんの練習帳」を連載している中川恵一氏の話を、過日、3人の福島県の知人と聞きに行った。三枝成彰氏や林真理子さんら「エンジン01」が主催する勉強会で講師を務めた中川氏は、東京大学医学部附属病院放射線科准教授で、がん治療の最前線に立つ医師である。
中川氏の語った「放射線の人体への影響」は、福島の友人らにとっていま最大の関心事だ。3人の内のひとり、西本由美子さんはNPO法人ハッピーロードネットの理事長、36歳を筆頭に3人の息子さんの母である。
「原発の被害から立ち直って新しく人生を築くにも、放射能を怖れるだけでは前に進めない。冷静に考えて、戻れる人から故郷に戻るのが一番いいと私は呼びかけてきました。まず実践だと考えて、1月に戻り、お正月を自宅で過ごしました」
西本さんの自宅は福島第一原発から22㌔の双葉郡広野町にある。原発から20~30㌔圏は緊急時避難準備区域に指定され、昨年9月30日に区域指定が解除された。いま広野町に戻っているのは全町民約5500人の内300人弱である。
戻ったとき、西本さんの自宅の庭の放射線量は1.8マイクロシーベルト、玄関周辺は3.8マイクロシーベルトだった。東京電力が除染した結果、数値はそれぞれ0.3マイクロシーベルト、1.0マイクロシーベルトに下がった。
もうひとりの朝田英洋さんは浪江町の住人だ。同町は現在、許可なしに立ち入ることは出来ない。朝田さんは13歳の娘さんへの放射能の影響を心配し、東京都江東区の公務員宿舎東雲住宅で家族3人、避難生活中である。朝田さんは浪江町では木材製造販売を筆頭に結婚式場、貸店舗、貸衣装など、従業員60名規模で事業を展開していた。
「4月1日に国は浪江町のどの地域なら戻れるのか、放射線量による区分けを発表するそうです。戻れるのなら戻って事業を再開したいです。従業員がどれだけついてきてくれるか、わかりませんが、仕事をして暮らしていかなければなりません。ただその場合、私は単身で戻ります」
「怖れすぎる」ことの弊害
朝田さんは、浪江町に一緒に戻って娘の健康は大丈夫かと心配し、自分だけ戻れば最終的に娘が故郷から離れていくのではないかと心配する。どちらにしても心は安まらない。
白河市議会議員で「放射能対策特別委員会」委員長を務める須藤博之氏は住民と直接接しながら日々、対策を決める立場にある。放射能の影響について余りにも異なる情報が溢れていて、どれを信じて対策を講じればよいのか判断し辛いと嘆く。
多様な問いかけをもった聴衆の前で、中川氏の話は明快だった。放射能の影響を過小評価してはならないが、逆に怖れすぎるのは間違いで、避難生活や失業などの精神的経済的な悩みに由来する被害の大きさを軽んじてはならないということだ。
政府は4月1日から食品基準をさらに厳格化することになった。食品に含まれる放射性セシウムによる年間被曝線量の基準値を5ミリシーベルトから1ミリシーベルトに下げるというのだ。同基準は国産食品の大半が汚染されているとの前提で算出されたが、これでは農業県福島の再生は厳しいと西本さんは懸念する。
「コメを作ってもまた廃棄される。それでは誰も作らなくなります。たとえ政府の補助が出ても、福島県人は働く意欲を失ってしまいます」
中川氏がこの種の「怖れすぎる」ことの弊害を強調した。
「日本人は平均で年間1.5ミリシーベルトの自然被曝をしています。加えて、医療被曝として平均ですでに年に4ミリシーベルトも被曝しています。胸や胃のレントゲン撮影、CTスキャンの普及など、平均して高い水準の医療を日本国民は受けていますが、その平均が4ミリシーベルトです。年間1ミリシーベルトに拘って、過剰に心配することは却って負の影響を及ぼします」
中川氏は広島とチェルノブイリを比較してみせたが、それはまさに過剰反応の被害を見せてくれるものだった。氏の論点を著書『放射線医が語る被ばくと発がんの真実』(ベスト新書)と合わせて紹介する。
氏はまず、原爆の凄まじい被害を受けた広島が、その後、日本有数の健康優良県になったことに気付いてほしいという。原爆投下直後から身内の安否を気遣うなどの理由で多くの人が広島に入り、被爆した。これら入市被爆者の平均寿命は日本の平均寿命より長く、広島の女性の平均寿命は86.33歳で政令指定都市の中では最も長いという。そして、広島の女性は出生率の高さで第2位、死産率の低さでは第1位なのである。
氏は広島女性の健康と長寿の要因の第一は被爆者健康手帳にあると分析した。1980年には37万人余りが、現在では約22万人が手帳を支給されており、医療は糖尿病や風邪に至るまですべて無料で診てもらえる。充実した医療に加えて、第二の要因は、原爆投下後も故郷で暮らし続けたことだというのが氏の指摘だった。
福島の負担軽減を積極的に
専門家を除けば放射能が危険だという知識は当時の一般人にはなく、人々は逃げ出さずにそこに住み続けた。放射能を怖れながら着の身着のまま、避難先で不安な生活をする現状との、これが決定的な違いである。
それはまたチェルノブイリとの違いでもあった。原子炉圧力容器の爆発という福島とは比較にならない深刻な事故に見舞われたチェルノブイリでは、86年4月の事故から約2年後の88年以降、大規模な住民移住が実施された。移住の基準は福島の年間20ミリシーベルトより厳しい年間5ミリシーベルト以上の地域とされた。結果、住民は健康になったか。否である。彼らの平均寿命は事故発生時の86年から94年までに、約7年も縮まったというのだ。
中川氏はその原因が住み慣れた環境から離れた避難生活にあったと指摘する。ロシア政府が25年後に発表した事故の「総括と展望 1986~2011」も、氏の主張を裏付ける。同報告書では、事故処理における見込み違いとして、「1988年以降に人々の大規模な移住プログラムを実施したこと」「健康面での放射能の影響は、他の負の要因よりも遥かに小さかった」と結論づけている。
被曝は少ない方がよく、放射能の害を過小評価してはならず、また小さな子供たちへの特別の配慮も忘れてはならないのは当然だ。だが、同時にがん発生要因を冷静にとらえることも大事だ。西本さんや朝田さん、そして被災した人々の不安をへらし、前向きに生きていけるよう、福島で作られる電力の恩恵をうけてきた私たちは、感謝しつつ、出来得るあらゆる支援と応援をしなければならない。そのために、たとえば瓦礫処理を引き受けるなど、福島の負担軽減を積極的に行うべきだ。