「 チベット問題で世界に恥じない外交を 」
『週刊新潮』 2011年11月17日号
日本ルネッサンス 第485回
チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ法王14世は10月29日の来日以来、日本各地を精力的に訪れ、3・11の東日本大震災に襲われた日本人を励まし続けた。
宮城県石巻市では津波の傷跡が生々しい被災地の様子に、半世紀以上前の1959年3月に亡命したときの自身の様子を重ね合わせて語ったという。多くのチベット人が中国軍に殺されたことを紹介し、「悲しみを、自身の心の力を高めるエネルギーに変えることができる」と涙を浮かべ、「みなさんの深い悲しみと痛みを共有したい」と、被災者を激励した(「朝日新聞」11月6日)。
「悲しい思いをした子供たちを守り、強く育ててほしい」「幸せな未来が少しでも実現したら、私を招いてほしい。共に祝いたい」とも語り、日本人は必ず立ち直れると励ました(「河北新報」11月6日)。
日本のために祈り、多くの日本人を励まし続けた法王を11月7日、国家基本問題研究所と共に民主、自民両党の議員団が訪れた。法王にお会いするのは今年9月22日にインドのダラムサラでの会談以来である。そのとき、次回来日されるときには、安倍晋三元首相をはじめとする超党派の議員が法王をお迎えしたいと伝えており、今回、それが実現した。民主党から長島昭久首相補佐官、渡辺周防衛副大臣ら8名が、自民党は安倍元首相、下村博文元官房副長官ら8名も出席した。民主党の政府高官がダライ・ラマ法王と会談するのは初めてである。
これまで日本政府は中国に配慮し、法王との接触を避けてきたが、そのような日本政府の対応は、先進国の中では極めて異例である。長島、渡辺両氏はその異例の壁を、法王の祈りへのお礼と感謝の言葉で取り除いた。安倍氏は、チベットやウイグルの人々の人権問題に先進国の政治家として誠実に向き合いたいと述べた。
法王は日本と日本人に深い親和性を感じていると語り、「仏教国の日本が、第二次大戦の灰燼の中から再興した。民主主義と工業力を以てして、真にアジアの指導的国家になってほしい」と要望した。
国際社会が共有する価値観
法王の祈りは国境も人種も民族も越えて、すべての人々に捧げられる。一時間余の会談で、法王はどの国の人々も人間らしく、その民族らしく生きることの大切さを説き、チベットが「独立ではなく、チベット民族にとって意味のある真の自治」を求めてきたことについて語った。
「59年以来、インドの地で亡命生活をしてきたチベット人にとって、79年の鄧小平の呼びかけは希望が持てるものでした。彼は『独立以外のことなら、何でも対話に応ずる』と言ったのです。私たちは独立ではなく、チベット仏教、言語、文化を守る自治を求めました。しかし、現実はそうはならず、鄧小平以後、状況は更に悪化、胡錦濤氏は調和と安定の社会を建設すると言いましたが、彼の10年間の治政では、全く逆のことが起きました」
法王は触れなかったが、私たちは中国の厳しい弾圧の下でチベット仏教の僧や尼僧の焼身自殺が続いていることを知っている。チベット亡命政府の発表と各紙の報道によると、今年だけで、18歳から35歳の11名の僧と尼僧が焼身自殺を遂げている。
法王が説いた。
「圧力、腕力によって人間の精神を抑圧し続けることは出来ません。抑圧の下では、人間の心の憎しみは世代を超えて燃え上がります。中国政府も現在自分たちが抱えている民族問題の解決を望んでいるはずです。であるなら、過去60年間のチベットへの弾圧が何らよい結果をもたらしていないことに気づくべきです」
人間が自由に物事を考え、宗教に帰依し、祖先の文化を守っていく。そうした人間らしい生き方を許さず、焼身自殺へと追い詰めていく非人道的な統治に対して、わが国は人間を大切にする国として心から抗議の声をあげなければならない。
日本による、民主主義や自由や人権の大切さの主張は、チベット人だけでなく中国の13億の国民に向けた法王の祈りと重なる。それは、先進諸国をはじめ国際社会が共有する価値観ともぴったり重なる。
長島氏が法王と会談したことに関して、中国政府は8日、「問題を慎重かつ適切に処理することを要求する」との談話を発表。藤村修官房長官は、政府関係者は法王と接触しないのが今日までの通例だとして、長島氏に注意を与えたと明らかにした。
これまではそうだった。だがいま、問われているのはそんなことで果たして日本はよいのかということだ。法王が諸国を訪れるとき、どの国も国賓級の待遇で迎える。中国政府は法王を「国家分裂主義者で反逆者」と非難し、法王と外国政府の会見の度に抗議する。しかし諸国は、法王を敬意と礼節をもって迎え入れ、同時に中国とは冷静かつ大人の関係を保つべく努力してきた。
自由と人権問題の象徴
米国のブッシュ前大統領は法王と4回会談した。07年10月、米国議会が法王に民間人に与え得る最高の栄誉、「議会名誉黄金勲章」を授与したとき、授与式に夫人を伴って出席し、上下両院議長、上下両院議員らと共に法王の栄誉を讃えた。中国の非難にブッシュ前大統領はこう述べた。
「私は中国に対して一貫して信教の自由を認めることが国益だと言ってきた。中国にはダライ・ラマ法王と会談するのがよいとも伝えている」
米国の誇りとする民主主義や人権という価値観を守り通すことに関して、少しも怯んではいない。
ブッシュ前大統領に較べて中国には遠慮がちなオバマ大統領は、09年9月23日、法王が米国を訪れたとき、11月の訪中を控えて法王との面会を避けた。議会もメディアもその姿勢を手厳しく批判したが、オバマ大統領は、実は法王の訪米に先立って、ホワイトハウス高官をインドのチベット亡命政府に特使として派遣し、事情を説明していた。
翌10年2月、法王が再び米国を訪れたとき、オバマ大統領は法王をホワイトハウスに招き入れた。中国の非難には屈していない。
08年、サルコジ仏大統領は北京五輪開会式に出席した一方で同時期にフランスを訪れた法王と会わずに、激しい非難を浴びた。しかし、法王が出席した式典にはサルコジ氏の代理といえるカーラ夫人、クシュネル外相、ヤド人権担当相が駆けつけ、クシュネル外相は「ダライ・ラマはいつでもフランスで歓迎だ」と堂々と述べた(「朝日新聞」08年9月29日)。
その後、同年12月、サルコジ大統領はダライ・ラマ法王と会談した。
ドイツも英国も、首相が法王を歓待した。08年5月の訪英では、ブラウン首相に加えてチャールズ皇太子も法王と親しく会談している。
ちなみに今年8月、法王はすべての政治的実権を43歳のロブサン・センゲ首相に譲り、政治から引退した。どの国もその法王を大切にし、中国との関係維持に努めつつも、自由と人権問題の象徴となったチベット問題から逃げてはいない。安倍氏が「日本のチベットに対する政治分野での対応は大きく変化した。我々もしっかり連携していきたい」と語ったことに象徴されるように、また、政府高官である長島、渡辺両氏が初めてダライ・ラマ法王にお会いしたように、日本はいま先進国では当然の地平にようやく辿りついた。民主党政府は長島、渡辺両氏に注意をするより、両氏を誇りとするのがよい。