「 帰米日系人が辿った戦争の歴史 」
『週刊新潮』 2011年2月17日号
日本ルネッサンス 第448回
2月5日、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で「日系アメリカ人の戦時強制収容の記録」を見た。日系3世の伊奈さつきさんの家族史を軸に、帰米日系人が第二次世界大戦の前後、また大戦の最中、どのように扱われ、どのように生きたかを描いた約60分の実録映画である。
帰米とは、米国生まれで米国籍を持ち、教育などを日本で受け、再び米国に戻った日系人を指す。
同映画の制作総指揮及び共同監督を務めたさつきさんも、兄のきよしさんも第二次世界大戦中、両親が拘束されていた収容所で生まれた。後に両親は別々の収容所に入れられたが、その時期に両親が心を通わせた180通の手紙などをもとに、さつきさんは記録映画を作った。260人収容の会場は満席だった。
さつきさんの祖父は1903(明治36)年、長野県からサンフランシスコに渡った移民1世だ。クリーニング店での仕事を経て、現地の日本語新聞『報知新聞』に勤めた。
さつきさんが語る。
「当時、日系人と他の民族との結婚は法律で禁じられていたために、祖父は日本から『写真花嫁』をもらいました。祖母のとしえは1911(明治44)年に祖父に迎えられ、2年後に私の父、いたるが生まれました」
やがて妹も生まれたが、体の弱かったこの女児を心配して、としえは子供2人を連れて日本に戻った。子供たちの国籍は米国だが、日本の教育を授けられた。17歳で米国に戻ったいたるは日系2世で帰米である。
一方、さつきさんの母、静子も帰米で日系2世だった。
「両親は米国の高校を卒業しましたが、2人にとって英語は第2言語でした。日本文化を愛し、父は尺八や俳句をたしなみました。日本の伝統や文化を大切にすることが帰米の特徴だと思います。両親は1941(昭和16)年の日米開戦までは日本と米国、二つの豊かな文化を享受していたのです」と、さつきさん。
家畜や罪人のような扱い
しかし、日系人を取り巻く当時の環境は厳しかった。日本が日露戦争に勝利した1905(明治38)年以降、黄禍論が広がり始める。セオドア・ルーズベルト大統領は大国ロシアに勝った小国日本を警戒し、後に対日戦争の基本戦略となるオレンジ・プランの立案を始めている。オレンジは「日本」を意味する。
1906(明治39)年には日本人移民の子供を隔離するサンフランシスコ学童問題が起きた。2年後の日米紳士協定で日本人学童隔離命令は無効とされたが、人種差別は続いた。1913(大正2)年には、日系人を標的としたカリフォルニア州外国人土地法で土地取得が禁止され、同様の動きが他州にも広がった。
写真だけで結婚する日本人の姿が米国人には奇異に映り、人種差別の増幅を心配した日本政府は1920(大正9)年に写真花嫁を禁止した。それでも同年、米国は第二次カリフォルニア州外国人土地法で土地取得制限を更に強化。1924(大正13)年、遂に排日移民法が制定された。
英王立国際問題研究所は『国際情勢概観』1924年度版で、排日移民法は経済摩擦でも日本人移民の増加ゆえでもなく、「誇りを持った国同士の文明の衝突」であり、「西と極東の二民族、二文化は太平洋をめぐって互いに対立したのであり、この心理的背景があったからこそ移民問題は国際情勢に異常なほどの危険と同時に異常なほどの重要な要素を与えた」と指摘した(『アメリカの戦争』田久保忠衛、恒文社21)。
「国際情勢に異常なほどの危険」とは、17年後の日米開戦を予言するかのような分析だ。排日移民法に日本の世論は激しく反発した。日本人として育った誇り高い帰米日系人の憤りと懸念は尚更だっただろう。
日米開戦から2ヵ月余り後の1942(昭和17)年2月、フランクリン・ルーズベルト大統領は約11万の日系人の収容所送りを決定した。これで日系人は、全財産を失った。
彼らは不潔な馬小屋跡に収容され、家族毎に番号がつけられ、ひどい食事を与えられた。全員が忠誠登録を迫られ、米軍に入隊する意思と米国への忠誠心を問われた。「イエス」と答えれば、徴兵される。「ノー」であれば条件の更に厳しい収容所に送られ、多くの場合、市民権剥奪と日本への送還が待っていた。
さつきさんの父、いたるさんは、2つの質問に「ノー」と答えた。よき米国民になろうと、奉仕活動を行い、真面目に働き税を払ってきたいたるさんにとって、家畜や罪人のような扱いは許せなかったのだ。
祖国である日本と日本人
記録映画制作過程で、司法省から発掘された資料にいたるさんの写真がある。首には大きな名札、正面と横から撮られた罪人のような写真には暴行のあとと思われる頬と唇の傷が写っている。彼は家族と引き離され、ツールレーク収容所に入れられた。全米10ヵ所の収容所中、気候条件も監視も最も厳しい場所で、武装した兵が24時間体制で監視した。
さつきさんが振り返る。
「戦争時、日系人による米国への反逆、妨害活動は皆無でした。にも拘わらず、戦争が終わってさえも、偏見は消えなかったのです」
終戦翌年、さつきさんらはようやく父に会えた。釈放後、学校に通い始めると、白人教師が両親に告げた。
「子供たちを真の米国人にしたいなら、米国風の名前にするのがよい」
こうして、幼いさつきさんは「サンディー」に、兄のきよしさんは「ケニー」になった。
「私は35歳まで本当の名前を知りませんでした。両親は日本語を話さなくなり、成功目指して勉強せよと言いました。米国社会の主流に入るために、日本的要素全てを消す。右の頬を打たれれば左の頬を差し出し、勤勉に働き、文句を言わない大人しい110%の米国人になるよう、教えられました」
こうして彼女はカリフォルニア州立大学サクラメント校の教授となった。初めて佐倉市の歴史民俗博物館を訪れた昨年10月、日系移民の定着先を示す地図を見て衝撃を受けた。
「私たちのことを日本は忘れていなかった。案内の人が、移民を『私の国の人たち』(our people)と解説したとき、とても強い感情で胸が一杯になりました。私の家族や帰米は日本の歴史の一部なのだと実感したのはこのときが初めてでした」
家族が引き裂かれ、スパイなどの汚名で追放された大戦中の辛さは、戦後も続いた。その傷が、もうひとつの祖国である日本と日本人が自分たちを忘れずにいてくれたことで癒されたと感じたというのだ。
現在の日本はどうか。移民、帰米、戦死者のことを果たして一人一人の日本人は心に記憶しているだろうか。片や米国はどうか。世界中で軍事を展開する超大国は、果たして過去の歴史に学んでいるだろうか。
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ピンバック by Tweets that mention 櫻井よしこ » 「 帰米日系人が辿った戦争の歴史 」 -- Topsy.com — 2011年02月18日 17:46