「 皇后さま半世紀の歩み、皇室のお姿 」
『週刊新潮』 2009年4月16日号
日本ルネッサンス 第358回
4月10日、天皇、皇后両陛下は御成婚50周年を迎えられる。お二人の半世紀にわたる歩みは、国民への慈しみ、あらゆる人々への労り、そして過去、現在、未来の日本人に捧げる祈りに満ちた歩みだったと言ってよいだろう。その中には、日本と皇室の未来についての、言葉だけではない、行動を通しての揺るぎないメッセージも込められている。
お二人について最も印象的なことは、御成婚に至るまでに重ねられた多くの会話の中で、皇太子及び妃としての役割をどのように認識され、確認され合っていたかである。
この件については、門田隆将氏の指摘で気がついたのだが、御成婚20周年記念の写真集の中に、皇后さまのお言葉が引用されている。今上陛下が皇太子殿下でいらしたとき、美智子さまに度々おかけになった電話での会話についての回想である。
「殿下はただの一度もご自身のお立場への苦情をお述べになったことはおありになりませんでした。またどんな時にも皇太子と遊ばしての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐものとはっきり仰せでした」と、美智子さまが仰っていたというのだ。
そうして御成婚を迎えられたお二人を、多くの試練が待ち受けていた。初めて民間から嫁がれた美智子さまと皇太子殿下にとっては、新しい試みに挑戦しつつも、惑い悩まれた半世紀だったはずだ。だが、御成婚時からお二人で得心なさっていた「義務は最優先」と「私事はそれに次ぐ」という信念が揺らいだ様子はない。お二人ともに、国民の上に立ち、日本を象徴的に統合する存在としての覚悟を備えていらしたと思う。
「飛び石の役割」
『皇后さまと子どもたち』(宮内庁侍従職監修・毎日新聞社)の中に、心に刻まれる一節がある。
「(皇后さまは)時代の変わり目にあるために生じる様々な不合理やご不便については、決して口にされることはなかった」というくだりだ。
皇太子さまのお気持にぴったり寄り添い、お気持を尊重し、自らもまた、同じようにしておられる美智子さまのお姿が見えてくる。また、御成婚後の幾多の御苦労については、こう書かれている。
「ご自分がしのばれたのは、次の時代に来る人を同じ枠で縛るためではなく、一時代を経ることによって、ようやく時が熟するということがあり、ご自分がその時をつなぐ飛び石の役割を担われようとされていたのではないか、と見ている人もある」
『皇后さまと--』も含めて皇室関係の多くの書から見えてくるのは、皇室が積み重ねてきた労りと慈しみ、慰霊の心の深さである。美智子さまは、この皇室の精神を御成婚当初より見事に実践してこられた。例えば、「ねむの木賞」である。
同賞は、高校時代の美智子さまが作詞なさった「ねむの木の子守歌」の著作権を、1966年に「日本肢体不自由児協会」に下賜されたことを受けて、創設された。体の不自由な子どもたちを支え、ともに歩む人々を励ます賞である。賞創設以来、美智子さまは毎年、受賞者を御所に招き、親しく語って来られた。障害をもつ人、病める人、困難のなかにある人々への慈しみと労りは皇室の伝統であろう。三笠宮寬仁親王殿下も、こう語っておられる。
「高松の伯父様はこの病気(ハンセン病)の大家でいらした」
かつて、強い偏見の下で、社会の隅に追いやられ、隔離され続けてきたハンセン病患者について、「正しく啓蒙活動をする」ために、皇室は藤楓協会を創った。明治天皇と大正天皇の各々の皇后のお印から名づけられたのがこの協会だ。同協会は、ハンセン病は触れても伝染せず、正しく投薬すれば治癒する病気であり、恐れも排斥も無用だと広く伝える役割を果たした。決して派手ではないが、皇室の方々が地道に続けてこられたこの種の活動には、心底、敬意を表したい。事実、皇室のお見舞と貢献に心からの慰めを得たという元患者の方々の声は少なくない。
「日本の福祉は天平2年(730年)に聖武天皇のお妃であった光明皇后が悲田院、施薬院をお作りになったことに始まるとされています。その時から、歴代の皇后様はハンセン病の面倒を見てこられた。それを(明治の)昭憲様も(大正の)貞明様も引き継がれたわけですが、とくに貞明様は積極的になさっておられました。そこで貞明様が崩御あそばされた時、息子たち4兄弟が相談して、皇后様のご遺金の一部に4人それぞれがお金を足して、それを基本財産として財団を作ったのです」
と、寬仁親王。言うまでもなく、4兄弟は昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮である。寬仁親王は、笑顔で加えられた。
「とても素敵な話でしょう」
横浜市にある「こどもの国」が、御成婚を祝う多くの国民の寄付金で創設されたことを、私は『皇后さまと--』によって、初めて知った。
国民の無関心、無責任
お二人は、国民の善意と祝福を嬉しく受けとめ、未来を担う子どもたちのために費やしたいと考えられたのだ。当時、「子供の遊び場は、人工的な遊具の全盛期」だったが、お二人は「なるべく子供たち自身が遊びを工夫できる自然の環境を願われた」。皇太子さまは、「こどもの国」の環境調査に鳥類、魚類、昆虫、植物の専門家を派遣され、その地の自然の維持に心を砕かれ、開園式ではこう述べられたという。
「日本には、狭いながらも、わたくしどもの祖先から長い間親しんできた豊かで美しい自然があります」
「物質生活を充実させようとする要求は限りないものですが、これは人の心に深く根ざす自然そのものを愛し保護しようとする要求とは、とかく両立しないものであります。しかしながら、この二つの要求を調和させ、満足させることが、今後の日本にとって、重要な問題であると思います」
斯くして「こどもの国」は、いま、貴重な緑地として残され、子どもたちの学びと遊びの場となっている。
子どもたちへの深い想いは、現在の日本を築き上げてきた過去の国民への、同様に深い想いと重なり合う。2005年6月、サイパンのバンザイクリフで、碧い海に向かって捧げられた長く静かな祈りは、日本のために戦い、或いは、日本人にとって最上の生き方と信じられていたその時代の価値観に殉じて命を落とした人々への、尽きない感謝と慰霊の祈りだった。真心からの慰霊のお姿。お二人の背に私は国民の一人として深い感謝の念を抱いたものだ。
御成婚から50年、お二人は常に日本と国民のための存在であり続けてこられた。翻って私たち国民は、私たちを慈しみ、祈り、慰霊を続ける皇室が存続の危機にあるというのに、余りにも無関心、無責任ではないだろうか。皇室と日本の未来のために、皇室典範改正こそが急がれる。