「 『中国核実験』の惨状 」
『週刊新潮』 2009年4月2日号 特別レポート
日本ルネッサンス 拡大版 第356回
「ガン発生率が35%も高い」 ウイグル医師が語る「中国核実験」の惨状
3月18日、東京・千代田区の憲政記念館で、シンポジウム「シルクロードにおける中国の核実験災害と日本の役割」が日本ウイグル協会主催で開かれた。
新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)での中国の核実験の惨状をいち早く突き止め、世界に発信したウイグル人医師のアニワル・トフティ氏、札幌医科大学教授で放射線防護学を専門とし、昨年夏、『中国の核実験』(医療科学社)という衝撃の書を出版した髙田純氏らが登壇した。
中国の弾圧に苦しむチベット人も含めて、約200名が集った同会では、1964年から96年までに東トルキスタンのロプノルで46回の核実験が行われ、少なくとも19万人以上が死亡、129万人以上が被爆したことが発表された。
ロプノルでの核実験は、総爆発出力20メガトン、広島の原爆の約1,250発分に相当するという。被害の凄まじさは想像を絶するが、だからこそ、中国政府は一切の情報開示を拒んできた。
シンポジウムに先立って取材に応じた髙田教授が語る。
「広島上空で炸裂した核爆発の災害調査から始めて、私はソ連のセミパラチンスクでの地表核爆発災害、マーシャル諸島での地表核爆発災害を調査してきました。これまではソ連がいかに国民の生命や健康に配慮しないひどい国かと思ってきましたが、中国を調べ始めて、中国に較べればあのソ連さえ、紳士的だと思ったものです」
髙田教授の批判は、中国共産党の核実験の方法にも向けられる。
「核実験の被害は地表で行った場合が最も深刻です。空中や地下でのそれに較べて、核分裂生成核種が大量の砂塵となって周辺や風下に降りそそぐからです。ですからソ連でさえも人々の居住区での地表核実験は避けてきました。それを中国は強行し、結果、日本人も大好きなシルクロードにも、深刻な放射線汚染をもたらしています。こうした一切の情報を、中国政府は隠し続けています」
住民には情報自体が与えられないのであるから、健康被害に関する指導も支援もない。シルクロードに憧れて現地を訪れる旅行者に対しても同じことだ。
中国の隠された核実験の悲惨さを、初めて国際社会に伝えたのが英国の「チャンネル4」によるドキュメンタリー、「死のシルクロード」だった。98年8月に報じられたこの27分間の作品は、世界83ヵ国でも報じられ、翌年、優れたドキュメンタリーに与えられるローリー・ペック賞を受賞した。そのとき取材の核となって情報を集めたのが、今回のシンポジウムで来日したアニワル氏である。
氏は1963年生まれ、10年前から英国で亡命生活を送っており、英国ウイグル人協会会長をつとめる。医師である氏は、当初、中国の核実験についてなにも知らなかった。
「今振り返れば、93年に奇妙な話を聞いていたのです。弟の結婚式で、クムル(中国名=哈密=ハミ)に戻ったときのことです」
クムルは東トルキスタンの東端、中国に近い。
「親戚友人の集った席で羊飼いの老人が『自分は神を見たことがある』と言い始めたのです。老人は、或る時、中国の軍人たちの姿を見かけるようになり、暫くすると、太陽の100倍くらいも明るい光が射した。地面が大きく揺れて、凄まじい嵐になったと語るのです。それはいつのことかと問うと、『何年か前』と言います。後に私は、老人の話は、神の出現などではなく、中国の核実験だったと気づくことになります」
アニワル氏も、小学3年生の時に、似た体験をした。
「地震のような大地の揺れのあと、3日間、太陽が隠れました。空が落ちんばかりに大量の砂塵が降りました。学校の中国人教師は、土星の嵐が地球に土や砂を降らせていると出鱈目の説明をし、私たちはそれを信じたのです」
病床を占めるウイグル人
驚くことに、日本ウイグル協会会長のイリハム・マハムティ氏にも同じような体験があった。
「小学5年の時、大砂嵐が吹き起こり、50センチ先の人の顔さえ見えなくなりました。2001年秋に日本に来て初めて、あの嵐は核実験の嵐だったと知りました。ただ、私の住むクムルなど東部では、被爆の被害は比較的少なかったのです。核実験は、風が東から西、中央アジア方向に吹くときだけ行われたからです」
イリハム氏の体験は79年から80年にかけてのことだ。中国は79年には地下で、80年には空中で、核実験をした。前者の規模は不明だが、後者は0.2から1メガトンの間と見られている。核実験であると知っているか否かは別にして、東トルキスタンの多くのウイグル人が、核実験による砂嵐や大地の揺れを体験していることがわかる。
アニワル氏は石河子大学医学院で学び、医師となり、1991年、ウルムチの鉄道局付属病院に勤務した。94年、上司の主任医師が冗談のように言った。
「君は、ウイグル人は頑健だというが、違うじゃないか。病人が随分多いぞ」
たしかに、鉄道の労働者16万人中、ウイグル人は5,000人にすぎない。にも拘らず、40病床中、10床をウイグル人が占めていた。
「16万対5,000、比率で言えば40床の内、1床か2床にウイグル人がいるのが普通です。なのに、なぜ10床も占めているのか、私は秘かに調査を開始しました。ガンの専門医としての立場を利用して、自分の病院だけでなく、他の病院のガン患者に関する資料も集めることが出来ました」
ガン患者に共通する因子はあるのか。やがて彼は、ガンは、最も多い順に、白血病、悪性リンパ腫、肺ガンであることを突き止めた。
「94年までには、共通因子は放射能だと確信するに至りました。さらに慎重に調査を進めて驚くべきことを発見しました。東トルキスタンにおけるウイグル人のガン発生率は中国内陸部の平均と較べて、35%も高かったのです。当地に30年以上居住している場合、ウイグル人だけでなく漢人も同程度のガン発生率だった。20年居住の場合は、これまた民族の如何を問わず、25%高く、10年居住の場合は15%でした。10年未満の場合だけが内陸部の中国人と同じでした」
氏の調査は、やがて当局の注意を引いた。或る日、上司から、「君のしていることは間違った調査だ」と警告された。
「私はきっぱり調査をやめました。それまでにすべてを解明していたからです。私は、この恐るべき実態を外の世界の人々に伝えなくてはならないと考え、中国を出る決意を固めました」
氏は97年にウズベキスタンを経由してトルコに着いた。東トルキスタンのトルキスタンは、「テュルク人の土地」を意味するペルシャ語である。テュルク人とはテュルク語を母語とする人々のことだ。そして、ウズベキスタンもトルコもテュルク系で、ウイグル人とは元々、同族である。
「トルコで、私は一人のチャンネル4の英国人特派員に出会いました。彼は中国取材で私の協力を欲しており、私は二つ返事で引き受けました」
実験場から噴き出す核の灰
こうして、アニワル氏はそれまでの自分の調査結果の概要を教えた。チャンネル4は直ちに取材体制を整え、準備に入った。取材班には放射線汚染の医学的影響を客観的に判断するために、アニワル氏以外にもうひとり別の医師を加えた。彼らは旅行者を装って中国入りした。被爆者と思われる多数の患者も取材した。しかし、決定的な証拠がない。
そのときに、アニワル氏が驚くべき決断を下したのだ。彼は、旅行者を装った取材班の観光ガイドに扮して、中国に戻り、かつて自分が行った調査資料をはじめ、中国政府が隠し続けてきた核実験の資料を手に入れるというのだ。
「ここでわれわれは重大なミスに気づきました。資料があるはずの大学は図書館も含めて夏休みだったのです」
彼は一計を巡らせた。98年7月8日である。大学の図書館のガードをレストランに招待した。博士論文を書かなければならず、そのための資料がどうしても必要だと訴えた。レストランのウエイターらには、ガードを自分の大切な友人だと紹介し、100ドルを支払って最高のもてなしをするようにはからった。ガードにも100ドルを渡した。生まれて初めてレストランに招待され、歓待されたガードは、彼に、図書館の鍵束を渡してくれた。
摘発されれば少なくとも20年の刑だ。だが、アニワル氏は資料室の奥深く入り込み、なんと、必要な資料、分析報告のすべてを、持ち出すのに成功したのだ。
「初めてこの話をしました。あのときから10年以上がすぎ、もうガードも、いませんから」とアニワル氏。
スパイ小説を地で行くような展開は、98年8月に報じられた「死のシルクロード」にも詳しい。
彼らはホテルにこもって、門外不出の内部資料の山を一枚一枚読み込み、重要なファイルをマイクロフィルムにおさめていった。ロンドンから、別の記者が旅行者を装って飛んできて、あるレストランで、素知らぬ顔でマイクロフィルムを受け取った。彼は運び屋としてマイクロフィルムをロンドンに持ち帰ったのだ。資料が無事に本社に届いたことを確認したあと、アニワル氏らは手持の全資料を焼却した。こうして、アニワル氏は再び中国を後にしたが、空港で数時間にわたって、隅から隅まで取り調べられた。
「何も見つかるはずはありません。空手ですから。しかし、翌99年、私は英国に亡命しました。中国共産党政権が倒れない限り、生涯二度と中国に戻ることはないでしょう」
寿司をつまみながら、アニワル氏は語る。
「中国政府は、核実験はすでに中止したと主張します。しかし、悲惨な後遺症は続いています。情報を隠し、恰も核実験など存在しなかったかのように封じ込めようとしているのです。中国政府は情報の開示と医療対策を直ちに実行すべきです。なによりも、ウイグル人に対して根拠のない支配をやめるべきです」
一方、アニワル氏とは別ルートで、髙田氏も中国の核実験の悲惨な現実を掘り起こした。
氏はソ連のセミパラチンスク核実験場の放射線影響調査の過程で、中国の核実験がカザフスタンにどのような影響をもたらしたかを分析した報告書を手に入れたのだ。
中国の核実験の凄まじさは際立つと、氏は語る。
「セミパラチンスクの地表での核実験では、ソ連は半径100キロの範囲で柵を立てました。それでも大量の核の灰が実験場の外へ噴き出した。中国が東トルキスタンのロプノルで行った地表での核実験の中には、セミパラチンスクの10倍の威力のものもありました。半径300キロの範囲から人間を退避させなければならないとしても、隣のチベットにまで及ぶ広範囲を封鎖することは困難でしょう。中国政府が安全管理を徹底させたとは思えません」
つまり、柵も立てずに実験したと言っているのだ。日本でもどこでも、科学者や研究者は、実験に際しては徹底した安全管理を旨とする。しかし、中国政府にはそのような考えはない。住民への予告も警告もなかったのは、先述の羊飼いの老人らの話からも明らかだ。居住区で、防護策も講じずいきなり核実験を強行する野蛮な手法をとるのは、世界広しといえども中国だけだ。
国会議員の姿はなし
髙田氏が世に問うた『中国の核実験』には、中国が意図的に東トルキスタンはじめ中央アジア諸国の方向に核物質を降らせるよう、工夫して実験してきたことも書かれている。
周知のとおり、1トンの100万倍がメガトンである。メガトン級の核実験を中国は度々、強行したが、不思議なことに、どの場合も日本の東海村での観測は、中国からの大量の放射線降下物を記録していない。
2メガトンを超える大型核実験が行われた67年と73年の各々6月、風はいずれも北北西、つまり、カザフスタン方向に吹いていた。76年11月の4メガトンという巨大実験の日、現地の気象データがないために確認は出来ないが、風は少なくとも、カザフスタンでも日本の位置する東方向でもない別の方向に吹いていた。なぜなら、双方の地点で放射線降下物は観測されていないからだ。理由を髙田教授は次のように説明した。
「ソ連では、危険な核実験は、風向がモスクワを向いていない日に行われました。中国も同様でしょう」
東トルキスタンの核実験場ロプノルから北京方向への風が吹く日には実験は行われないのだ。東京は、ロプノル─北京を結ぶその延長線上にある。北京の共産党指導者層を核放射物質から守るための工夫が、中央アジア諸国に「核の砂」を降らせ、東京を守る結果となっていると、高田教授は分析する。だが、北京方向に風が吹くときには大型実験は避けられても、中型、小型は行われてきた。日本への被害はゼロではない。
イリハム氏が強調した。
「核実験の後遺症で、東トルキスタンには種々のガン患者をはじめ、流産、死産、小頭症、重度の知的障害など、次の世代にも影響する多くの問題が顕著に表われています。アニワル氏は、ウイグル人の滅亡につながりかねない中国の核実験の被害の実態と悲劇を世界に伝えるために、これからの一生を費やすと決意しています。私も同様です。中国の圧政に屈せずに、チベット人やモンゴル人とも協力して、訴えていきます。その決意で、シンポジウムを国会のすぐ近くで開きました」
だが、シンポジウムには、日本の国会議員の姿は見当たらなかった。中国の核は、有事の際の対日軍事オプションとして、大きく重い意味をもつ。中国の核実験に日本が政治的に無関心であってはならないのだ。
自分の無知を笑います…
今や全世界の中国の的なのが福島原発です。
が、原発を含む“核”に対する自分の知識の無さに驚きました。
衝撃は、シルクロードで行われた核実験の事実です。
1964年〜96年、計45回、とのこと。
私h…
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ピンバック by 4月6日の気になったニュース:TDRの再開は5月以降、ついにIS03が2.2へアップデート、中国核実験の語られない惨状、ほか — 2011年04月07日 06:59