「新型ウイルスに日本の無策」
『週刊新潮』’09年1月22日号
日本ルネッサンス 第346回
春節(中国のお正月)を前にした1月5日、19歳の中国人女性が北京市内で鳥インフルエンザにより死亡した。彼女は強毒性のH5N1型ウイルスに感染していたのだ。
日本の専門家は、「同件で最も重要なのは、大都会北京で強毒性ウイルス(H5N1型)感染の犠牲者が出たこと」だと指摘する。人口1,600万の都市に強毒性のウイルスが存在することの深刻さは、SARSの事例を振りかえるまでもない。
折しも中国は民族大移動の季節だ。女性を死亡させたウイルスが人の動きとともに各地に伝播する危険性は否定出来ず、その鋒先が日本であってもおかしくはない。
人類はウイルス感染の世界的大流行(パンデミック)を、10年から40年の周期で繰り返し、多くの犠牲者を出してきた。かつて大流行した香港風邪から約40年がすぎたいま、新たな被害はいつ起きても不思議ではなく、新型ウイルス感染症のパンデミックが迫っている。
それにしても日本は政府も医療機関も反応が極めて鈍い。政府の「鳥インフルエンザに関する関係省庁対策会議」に関わっている人々をはじめ専門家らは強い危機感を抱いている。匿名を条件に語った専門家らは一様に、パンデミックが起きれば国民の25%が感染し、最悪、その2%の64万人が死亡するとの政府予測はあまりに楽観的だと批判する。政府予測は1918年に猛威を振るったスペイン風邪を基にしているのだが、人間への危害に関して、スペイン風邪と鳥インフルエンザはまったく異なるというのだ。
「前者は弱毒性のウイルス、後者は強毒性です。弱毒性でさえも当時5,500万人だった日本の総人口のうち45万人、1%弱の命が奪われました。新型ウイルスの犠牲はそれとは比較になりません。私たちは死亡率は感染、発症者の5%を超えると考えています」
若年層死亡率「9割」
鳥インフルエンザはすでにアジア、アフリカに、そしてさまざまな鳥類に感染を拡大させてきた。日本では04年以来、茨城、埼玉、岡山、宮崎の各県で鶏の感染が確認された。その都度、大量処分を繰り返しウイルスを封じ込めたが、感染源が消えたわけでも人間が感染源に晒される危険が減ったわけでもない。
WHO(世界保健機関)は公式には、鳥から人に感染したウイルスが、人から人へ感染した事例はないとしている。だが、特殊な例において、すでに人から人への感染が起きたことも認めている。インドネシアと中国などで人から人へ三代にわたる感染があったのだ。
但し、これはウイルスと結びつくレセプターを喉から上の部分に持っていた゛特別の家系〟の患者だったために、WHOはこれを以て人―人感染の一般的事例とはしていない。一方で、ウイルス学から見れば、鳥インフルエンザウイルスが突然人―人感染をするような大変化(シフト)をする可能性は十分にあると専門家は警告する。
「H5N1型の免疫を持つ人は、地球上に一人もいません。これまでの世界の感染者は400人弱、死亡率は発症者の実に65%近くです。我々は大流行襲来の時期や、ウイルスがいつ、人―人感染へとシフトするのかは予言出来ません。けれど、その時が近いとだけは言えます」
これまでの事例で死亡率は6割を超えるが、15歳以下の小児や若年層の死亡率は9割に迫る。ウイルスの脅威は底しれないのだ。
現在、H5N1型に対処するには、治療薬タミフルが効果的だと期待され、日本には2,800万人分備蓄されているといわれる。しかし、専門家は問題点を指摘する。
「子供や若者の死亡率が非常に高いにも拘らず、備蓄されているタミフルは成人用のみで小児用のドライシロップはゼロなのです。成人用は有効期間3年に対し、小児用は1年。備蓄しても1年以内に使わなければ無駄になることが、恐らくひとつの理由ではないでしょうか」
備蓄不足はこれだけではない。病院に搬送される患者は酸素吸入や輸液(点滴)を必要とするが、各病院での酸素や輸液の備蓄量も驚くほど少ない。たとえば都内に480床を有する国立系医療施設は液体酸素タンク2基を備えているが、対応出来る患者数は20名程度だという。20名全員がフルに酸素吸入を始めれば、それ以上の患者への酸素供給が困難になるという。平時では、酸素は消費量に合わせて業者が新たに供給してくれる。しかし、パンデミックの下では、医薬品をはじめ全物資の流通が滞るだろう。そのような場合、備蓄量をふやさなければ、たとえ大病院といえども機能する期間は極めて短くなる。にも拘らず、なぜ対策は進まないのか。
遅れるワクチン投与
政府のガイドラインでは、患者発生をうけて医療機関は発熱外来を設けて対処することになっている。しかし、どの医療機関が発熱外来を設け、どの医師が担当するのか、具体策は未定である。
「政府は対処を基本的に自治体に任せ、自治体は病院に任せています。担当者や対処のマニュアルを作成済みの問題意識のある医療機関は全体の2割程でしょう。これでは大混乱は必至で、犠牲者の数もふえるだけです」と専門家は断定する。
無策の被害者は患者だけではない。このままいけば、医師らもまっ先に犠牲になる。新型ウイルス発現に対処するもうひとつの方法はワクチン投与だ。現在日本には、大流行発生前に投与するプレパンデミック・ワクチンが2,000万人分備蓄されている。パンデミックで予想される社会的大混乱のなかで、医療を機能させ、社会の秩序を保つために軸となって働く医師、治安に当たる警察、自衛隊、行政担当者らが斃れないよう、あらかじめプレパンデミック・ワクチンを投与するのは、どの国でもなされており、必須事項だ。日本政府も同ワクチンを必要性の高い人々に適切な順番で投与すると決定し、その仕分けまで行った。だが、肝心の投与がほとんど進んでいないのだ。
理由の第一は世論の反発だ。医師ら専門家を筆頭に順次投与する計画が発表された途端、厚生労働省に抗議の電話が殺到した。もう一点は、6,000人の投与第一陣のなかに発熱、発疹、喘息など、8件の有害事象がみられたからだと思われる。
しかし医師が斃れれば、誰が患者を診るのか。厚労省はこんなときこそ、国民の生命を守るために発奮せよ。事前投与の必要性を説き、計画通りに投与を進めるべきだ。そのうえで同ワクチンが国民全員に行きわたるよう数を揃えるために予算を惜しんではならない。新型ウイルスとの戦いは戦争のようなものだ。政府方針の確立とそれを実現する具体策と予算措置が最重要である。あくまでも国の指導力が重要で、地方自治体への丸投げは許されない。