「 『教育』が危ない 」
『週刊新潮』 2007年3月15日号
日本ルネッサンス 第255回
[拡大版] 第三回 まず「ダメ親」にメスをいれよ
教育現場に足を運ぶ度に、信じ難い大人の姿を見てしまう。無論、大概の親や教師は常識を弁えた人々であろう。しかし、非常識な大人が余りにも多くなり、教育現場が振り回されているのも事実である。
1983年から20年間、大阪市内で3つの公立中学校の教師を務めた原田隆史氏が自身の体験を語った。氏は現在、原田総合教育研究所所長を務める。
「おかしな親の例は沢山あります。中1の女子生徒の父親は或る日、娘が3カ所も蚊に刺された、学校としての責任をとれと電話で抗議してきました」
保健体育の教師だった原田氏は全校生徒の生活指導も担当した。長年の経験で、挨拶をする、遅刻をしない、忘れ物をしないという類の日常生活の基本を身につけることが、生徒の人間形成に大きな影響を及ぼすことを氏は知っている。3校目では、当初、授業を担当した80人の生徒のうち、30人もが遅刻をした。忘れ物は100件を超えた。そこで氏は、遅刻した生徒を正座させた。すると親が怒鳴り込んできた挙句、新聞に連絡した。「体罰教師」と書かれた氏は、保護者集会で「辞めろ」と糾弾された。
また別の日、生徒が万引きでつかまり、呼び出された親は神妙に謝って弁償した。だがそのあと親は態度を豹変させた。普通は、詫びて店に返すのが当たり前だが、この親は代金さえ払えばよしと考えたのだろう。万引きした商品を家に持ち帰った。
長野県旧真田町(現在上田市に合併)の大塚貢教育長は、町の公立小学4校、公立中学2校の教育改革をやり遂げたことで知られる。その方法のひとつが給食の大改革だった。育ち盛りの児童・生徒の給食を野菜や地元の食材を豊富に用いて、ご飯食に変えた。親が朝食を作ってくれなくても給食でその差を補ってやるとの意気込みで取り組んだ。荒れた学校の児童・生徒もバランスのとれた栄養豊かな食事を摂ることで心身ともに落ち着き、この4年余り、どの学校でも問題は起きていない。すると、保護者から要望が出された。
「朝食も学校給食で食べさせてやってほしい」と。
もっとひどい親もいる。埼玉県の中学校女性教師が語る。
「中3の男の子とその弟の母親は、別の男と暮らすため、家を出てしまいました。母親は週に一度来て2,000円渡していくだけ」父親もいないため、これでは食べることさえ出来ません。学校に来なくなるのも、万引きするのも当然です。
教室での実感ですが、1クラス40人の生徒として、4、5人の家庭はこのように親が子どもの世話を全くしていないと思います」
日本の家庭の崩壊はここまで進んでいるのだ。だが、非常識人間は親だけではない。教師のなかにも驚くような失格人間がいる。前出の原田氏が語った。
「ある英語教師は、授業中ずっと英語のテープを流したままでした。体育の先生は、生徒に何をしたいかを聞き、サッカーと言えばサッカーを、ドッジボールと言えばドッジボールをやらせていました」
教師と生徒の関係は気力、知力、体力などで決まる。中学ともなると生徒の体格は大きくなり、覇気のない教師は圧倒される。原田氏は、教師と生徒の関係を逆転させてしまった50代の男性教師について語った。
「この先生は生徒にど突かれるのを恐れ、生徒に金を渡して『ど突かんといて』と頼んでいました。教室にカラオケを持ち込んで、歌を歌っていたこともありました」
こんな信じ難い授業や振舞いが教育現場で見逃されているのは、教育界全体が生徒に媚び、問題を隠したまま内々で処理しようとするからだ。
失われた「家庭教育」
福田ますみ氏の『でっちあげ』(新潮社)には、ひたすら生徒と保護者の主張に屈服する校長が登場する。その結果、担任教師が冤罪に落とされていく。事件の発端は03年5月。福岡市内の公立小学校で当時46歳の男性教諭が児童の一人に「(外国人の)穢れた血が混ざっている」などと言って苛めたとされた事件だ。男性教諭は「史上最悪のいじめ教師」として報道された。しかしこの事件自体が「でっちあげ」だった。氏は担任の教師がいわれなき罪で裁判に訴えられていくプロセスを克明に描いたが、それは、校長が親に媚び、その場しのぎの隠蔽と妥協を重ね、教育を放棄していくプロセスでもある。
「保護者による『でっちあげ』は、結局のところ、子育てが上手くいっていない原因を他人のせいにしたいということだったのではないか。校長が毅然と対応していれば、事はここまで大きくならなかったのです」。福田氏はこう語る。
悪いことを悪いと言えない教育者と親。いま、子どもとの関わり方がわからない大人が増えている。必要なのは、子どもの教育と同時に大人の教育なのだ。教育問題に詳しい明星大学教授の高橋史朗氏は、教師が変わっても、親が変わらなければすべて元の木阿弥になる、だからこそ、必要なのは「親学」だと強調する。親学とは、如何にしてよい親になるか、よい親とはどんな親かの学びである。
明治開国期に、日本を訪れたジャパノロジストのE・モースは愛情と尊敬にあふれた日本人の親子関係に魅せられ、こう書いている。「日本人は確かに児童問題を解決している」と。モースが感激した、献身的な愛情で成り立っていた日本人の子育てはいまや見事に反転したと高橋氏は語る。
「『子育てはイライラする』と答える母親は、1981年の調査では10.8%だったのが、今は75%です。『親が子(育て)の犠牲になるのは止むを得ない』と答えた日本の親は38.5%。世界の平均は73%、調査に参加した73カ国中、日本は72番目でした。ここまで日本人の親心は低下したのです」
髙橋氏は20年前まで臨時教育審議会の専門委員を務めた。その後現場主義に徹し、不登校、学級崩壊、いじめ、中退など、子どもたちの問題行動の指導に文字どおり全国を飛び回ってきた。そしていまこう語る。
「もはや何をしても間に合わないという危機感を抱き始めたのがこの10年程です。問題は学校に入る前、つまり家庭で始まっています。日本の家庭から秩序と大黒柱がなくなりました。今やお子様が最上位、次にお父さん、お母さんの順で、誤った子ども尊重主義が作られているのです」
なぜ自立心が稀薄なのか
必要な躾が行われず、乳幼児教育の段階で人間としての基礎基本が教えられていないというのだ。学級崩壊は子どもが変わって起きたのではなく、親が変わって起きた現象なのだ。かつての日本では、よい親になることは格別のことではなく、普通のこととして、皆が自然に学びとっていた。たとえば代々継承された「しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせる」という子育て法である。
「『しっかり抱いて』は、愛着を示します。母性で包み込むという特性で母性の本質、慈愛のことです。『下に降ろす』のは愛着からの分離です。いつまでも抱いていては自立出来ない。そこで下に降ろしてやる。子どもの我侭と対決して子どもの壁になり、それを乗り越えさせることです。ならぬものはならぬと教えることで、父性の本質に当たります。太陽の暖かさと北風の厳しさ。この2つがあってはじめて子どもを『歩かせる』、自立させることが出来ます」(髙橋氏)
こうした育児の格言が死語となったかのような日本で、子どもたちはどんな人間に育っているのか。髙橋氏が興味深い比較を示した。日米中の高校生調査で、将来就きたい職業が極立って違うのだ。米国の高校生が就きたい職業の上位は医師と弁護士だった。中国の高校生は経営者と管理職。対照的に日本は公務員かサラリーマンだった。
「日本の子どもたちは、雇われ志向が強く、自力で何かを興していくというチャレンジ精神、独立心、自立心が稀薄なのです。ニートといわれる若者が多いのも自立心の欠如が大きな原因で、原因は他ならぬ家庭にあります。先程触れた愛着と分離の関わり。母親と父親の役割を親がきちんと果たしていません」
親と子の関わり方の欠如と歪みが目立つ現代だが、明治31年に埼玉県幡羅高等小学校で出した「家庭心得」には、私たちの祖父母の世代の日本人が教育についてどのように考えていたかが記されていて興味深い。
「生徒保護者への御注意」として、「教育の道は、家庭の教へで、芽を出し学校の教へで花が咲き、世間の教へで、実が成る」と書かれ、子どもについて両親に「朝夕深く御注意成下され度候也」と呼びかけている。「可愛くは二ツしかりて三ツほめ、五ツをしへてよき人にせよ」ともある。
幼児期の小さな悪い癖は、そのまま放置すれば大きな欠点となるので、打ち捨てておいてはいけないこと、小さいときから善悪の区別をよく教えて育てることの重要性も説いている。
そしてこの時代、すでに゛不登校〟について親も教師も考えていた。「家庭心得」には不登校は親の責任で親を牢に入れたり罰金を科すのが西洋の教育事情だと紹介されているが、実は、これは現在も同じである。
アメリカでは2002年に「どの子も置き去りにしない法」が制定され、不登校について、子ども、保護者、学校、学区、警察の代表が話し合う制度が作られた。
「警察が入っているのは日本では考えられないことですが、不登校は親の怠慢だとして親に罰則が科せられるのです。ワシントン州シアトルでは親は一日25ドルの罰金か、それに見合うボランティア活動をしなければなりません」(髙橋氏)
教育再生への道とは
日本の教育を自由と放恣の極みに導いた感のある米国だが、その米国の教育は親の責任を問う厳しいルールによっていま蘇っているのだ。対照的に日本では親と家庭の役割が完全に忘れ去られ、不登校も万引きもガラスの破損も全て学校の責任だ。このことのおかしさに気づき始めた人たちは少なくない。そして安倍首相肝煎りの教育再生会議の第一次報告にも、これから親になる全ての人たちや乳幼児期の子どもを持つ保護者に「親学」を学ぶ機会を提供すると書き込まれた。
また、教師の役割についても新たな視点で見直しが始まっている。伊吹文明文部科学大臣が強調した。
「教師という師の文字のつく人が、一般のサラリーマンと同じではおかしいのです。教育再生会議が指摘した教員の質の向上を目指すための免許更新制の導入は正しいと思います。これは教師を奮い立たせる制度、よい教師に勇気を与え報いる制度と合せて効果あるものとなります」
親にも教師にも、特別の責任と役割があることを、戦後日本は否定してきた。しかしいま、その特別の責任と役割を親にも教師にも再び担わせようとしているのだ。
それにしても、親になるための学びはどのようにしてなされるのか。髙橋氏は命を生み育てることの根本から学ぶことが必要だと強調する。子どもは愛されることによって愛することを学ぶ。だからこそ、親学は胎児段階の教育もカバーする。しかし、抽象論では現代の親たちは興味を示さない。そこで最新の脳科学が活躍するという。
「親学にとっては、脳科学は強力な助っ人です。たとえば、脳には臨界期があり、
3歳で脳の神経細胞の6割以上が、8歳では9割以上が完成します。ならば3歳や8歳までに子どもにどう関わるのがすばらしい能力を子どもに与えることにつながるのかを教えます。
たとえば愛する能力です。人間の脳は3歳まで親に甘えて依存するプロセスのなかで、親心が育まれるように出来ているのです。愛情深く、情操豊かな人間に育てるには3歳までの親の愛情のかけ方が大切です。ところが、日本では乳幼児から3歳児までの子育て代行システムが出来上がっています。女性の経済的自立とひきかえに子どもの脳に親心を育てるチャンスが失われる仕組みといえます」
こうしてみると、親学は、人間の幸福の基準を、より多く働き物質的に豊かになるという軸から、親子の絆やあたたかな心の交流といった精神の幸福軸へと切りかえる学びであることがわかる。物から心への回帰である。口に出すのは容易だが、行うのは難い。が、それなくして日本の教育、否、日本の再生はあり得ない。