「 日本のために“真の”智者となれ 」
『週刊新潮』 '06年10月19日号
日本ルネッサンス 第235回
中国のメディアは安倍晋三首相を“智者”であると評価し、小泉純一郎前首相を“独裁者”と決めつけ、前、現首相を分断してみせた。
安倍首相が真の“智者”で、国益に基づいた外交を推進出来るか否かを判断するには、今暫く見守る必要がある。ただ、何事も第一歩が肝心だ。とすれば、安倍外交の第一歩は不安含みかと考えざるを得ない。靖国神社参拝については明言しないと述べた安倍首相の言葉を、胡錦濤国家主席も温家宝首相も、無言で聞いたという。首相は中国側の理解を得たと思うと語ったが、むしろ中国側の姿勢は、今は問題にしないがいつでも俎上に載せ得ることを意味するのではないか。
毎年参拝しながら、その意味を個人的信条の次元にとどめ、国家理念として説明出来なかったのが小泉前首相だった。安倍首相の役割は、靖国参拝を国家の責務と位置づけ、諸国が当然と見做す慰霊行為を日本も行っているにすぎないと明言し、氏の考え方を披瀝することだった。
外交は国益追求の武力なき戦いの場である。日中外交における双方の国益とは何か。日本外交からは日本が目指す国益は見えてきにくいが、逆に中国外交からは見えてくる。
1972年の日中国交樹立時に、中央学院大学の西内雅教授(当時)が入手し、『國民新聞社』が世に問うたものに、中国共産党秘密文書「日本解放第二期工作要綱」がある。中国共産党が当時の工作員に与えたこの指示書には、「我が党(中国共産党)の日本解放の当面の基本戦略は、日本が現在保存している国力の全てを、我が党の支配下に置き、我が党の世界解放戦に奉仕せしめることにある」、そのためにはまず「群衆掌握の心理戦」だと書かれている。文化事業などを通じて中国への「警戒心を無意識の内に棄て去らせること」が重要で、それは「日本解放工作成功の絶好の温床となると共に、一部の日本人反動極右分子」の孤立に有効だと記されている。
したたかな中国の戦略
文化事業は「日本人大衆が中国大陸に対し、今なお持っている」、「『日本文化の来源』、『文を重んじ、平和を愛する民族の国』というイメージを掻き立て、更に高まらせる」効果があるとも書かれている。
日本の大衆に中国語学習を普及させ、各大学に中国研究を進めさせて親中感情を各分野で醸成することの重要性を強調し、政治家、メディアへの積極的な働きかけも驚くほど詳細に指示されている。そうした活動のために2,000人の工作員を、学界、マスコミ界、実業界など全分野に送り込むことも記されている。
日中関係をふりかえれば、中国が右の基本戦略に基づいて対日外交を展開してきたのは明らかだ。戦略目標は不変だが、戦術は状況次第で変化を遂げてきた。“A級戦犯”合祀が公になった靖国神社に首相が参拝し始めてから6年半の間、靖国問題に一言も触れず、逆にGNPの2%という具体的数字をあげて日本に軍事力の増強を求めたのも、その後、1985年9月に突然、非難し始めたのも、靖国問題が戦術上の“道具”にすぎないことを示している。
中国が突然、非難し始めたとき、中曽根康弘首相はその非難を受け容れて以降の参拝を中止、理由を胡耀邦の苦境を助けるためと説明した。
当時、胡耀邦総書記は、最高実力者・鄧小平によって後継の国家主席と目されていた。だが、その民主的な考え方と対日宥和策は、国内の権力闘争で非難の的となりつつあった。中曽根氏はそのような状況に陥った胡を助けるため靖国参拝を諦めたと言っているのだ。中曽根証言の真意は措いて、中国の胡批判は十項目以上にのぼり、彼の対日宥和策や首相の靖国参拝はその一部だった。
中国政府は日本との関係を常に外交の材料にしてきた。『江沢民文選』全3巻には98年8月に江主席が在外公館の全大使を呼び戻し、日本には永遠に歴史問題を突きつけていくと訓話したことが書かれている。江氏の対日強硬外交は72年の「日本解放工作要綱」に示された文化交流などのソフト路線とは異なるが、日本の国力を中国の利益に資するという基本戦略は不変である。
72年の日本解放工作要綱が最終目標を日本の社会主義化と戦犯としての“天皇の処刑”に置いていることは、その実現性はともかく、日本側は忘れてはならないだろう。
弁明ではなく主張せよ
そして現政権である。胡錦濤主席は今、前任者との闘いに勝ちつつある。上海市トップの陳良宇党委員会書記の解任は、江氏をトップに置く上海グループとの権力闘争に胡主席が勝利することを予告している。胡氏が江氏の強硬路線を脱して柔軟路線に転ずるとして、目的は何か。
中国が70年代に日本の国力、経済力、技術力を必要としたのと同じく、中国は今再び、喉から手が出るほど日本の国力を必要としている。日本の資本、技術、経営のノウハウ。その全てを中国は渇望している。そうした面での国力の比較は、圧倒的に日本優位だ。中国は、自らにとって必要なものを手に入れるために、かつて“A級戦犯”も靖国神社も気にかけなかったように、今再び、靖国問題を横に置こうとしているのだ。つまり、胡主席の目的も、72年の要綱に明記された、日本の国力全てを中国共産党の支配下に置くという基本戦略の実現に他ならないだろう。
靖国参拝をはじめ、歴史問題をとりあげることが日本コントロールにつながるとなれば、中国は必ず、その問題を持ち出してくるという構図に変化はないと考えるべきだ。中国の国益遂行の戦略、戦術として、上の構図は永遠に存続すると考える方がよい。
その悪循環を断つための舞台を用意したのが小泉前首相だった。日本は中国に屈しない、と行動で示した小泉氏のあとを受け、安倍首相は中国に、靖国問題は日本の国内問題であること、中国による政治利用は拒絶すること、日本国首相が国に殉じた英霊に参拝するのは諸国の事例からも当然の責務であることを、率直に語るべき立場にある。小泉氏が残していったのは、それを可能にする絶好の歴史的位置だった。
新たな日中関係構築の第一歩において、しかし、安倍首相はそのような日本の主張を展開したのだろうか。日本国の立場を主張する代わりに、個人的想いの説明にとどまったのではないか。とすれば、その限りにおいて小泉氏と同じだ。否、参拝するか否かを曖昧にした点で、小泉氏より後退したといえる。
安倍首相は踏み出し方を間違えたのだろうか。とは云っても、安倍外交は始まったばかりだ。日中関係において中国こそが日本を必要としているという“力関係”に変わりはない。弁明するよりも国益のために主張し、氏が真の“智者”として、外交に当たることを期待するものだ。
弁明ではなく主張を:櫻井よしこさんの主張を聞こう
櫻井さんのBLOGはいつも明晰な主張に満ちている。
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/archives/2006/10/…
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