[特別レポート]「 『小泉政権5年』を採点する[外交編] 」
『週刊新潮』 '06年9月7日号
日本ルネッサンス 拡大版 第229回
小泉純一郎首相が間もなく退任する。約5年間、高い支持率を維持した小泉政権は稀なる強運の政権だった。危機を、大いなる好機へと反転させる首相の手法は余人の及ばぬものでもあった。運と勘で支えられた小泉政権にはしかし、その分、綱渡りにも似た危うさが終始つきまとった。
小泉外交は玉石混淆だ。手つかずのまま放置されたロシア問題、間違った形で始めたためによりこじれた靖国問題、逆に日米関係のように奇跡的に成功した例もある。まさに運と勘に頼った、戦略なき外交とは斯くなるものかと考えさせられる。
対米外交の成功の鍵はブッシュ大統領との個人的な絆を築きあげたことにある。
2001年9月11日の米同時多発テロから、およそ2週間後の9月24日、ロシアや中国よりも遅れて首相はニューヨークの現地に入った。上手とはいえない英語で同盟国としての支援を誓い、ブッシュ大統領と固い握手を交わした。大統領はそんな首相を歓迎した。
だが、この時点で首相が日本にとっての日米同盟の意味、とりわけ中国の台頭の前に、その死活的な重要性を、十分に理解していたとは思えない。戦略、哲学以前に、国際政治の力の均衡という鉄則について疎い小泉首相はその後、突拍子もなくぶれていった。
それは翌02年9月17日、訪朝という形で現れた。福田康夫官房長官、田中均外務省アジア大洋州局長らが計画した訪朝は、拉致問題解決の突破口という装いながら、国交正常化を最終目標としていた。それが金正日総書記の思うツボであり、日米関係を悪化させる深刻な要因になるとは、首相は考えなかったのだろう。
当時米国は、核及びミサイル問題で北朝鮮に開発をやめるよう迫る厳しい政策を取っていた。その北朝鮮に日本が国交正常化で接近することは、巨額の日本資金を渡すことでもある。金総書記は好きなだけ、核もミサイルも開発出来るだろう。米国にとっては許し難い日本の動きだったはずだ。
にもかかわらず、この重要な動きについて、官邸も外務省も、同盟国である米国に直前まで通知していなかった。たまたま、8月末に首相を表敬訪問したアーミテージ国務副長官にその件が伝えられた。氏は驚愕し、全予定をキャンセルして本国との連絡及び対策に奔走した。京都大学教授の中西輝政氏が語る。
「米国は大変な不信感を持ち、日米同盟はズタズタになるところでした」
それでも米国側は事態を静観した。首相が訪朝し、5人の拉致被害者が帰国したのが10月15日だ。福田官房長官らは、米国の不信と驚愕を理解せず、5人の帰国を機に、本格的な国交正常化交渉に入る構えを崩さなかった。そして首相は彼らに外交を丸投げしていた。
そんな日本に米国は強烈なしっぺ返しをくらわした。5人の帰国の翌日、日本中が熱気に包まれていたその時、訪米中の橋本龍太郎元首相に米国側は北朝鮮が核兵器を開発中という情報を証拠と共にもたらしたのだ。福田官房長官の顔は蒼白になったと伝えられた。米国は、米国の戦略を無視し、国交正常化に走る日本政府に冷水をかけたのだ。
日米の摩擦は中国の好機だ。拉致被害者の帰国から10日後の10月25日、江沢民国家主席はブッシュ大統領と記者会見を行った。
“日米分断”をめぐる攻防
日米分断に狙いを定めて、江主席はテキサス州クロフォードにあるブッシュ大統領の自宅を訪れた。中国側は大統領私邸での宿泊を請うたが、米国側が聞き入れず、食事のみを共にしたのだが、このとき、ブッシュ大統領は日本にも関わる重大なことを中国に語った。
「台湾の独立に反対する」
との発言だ。この点について米国はその後軌道修正をはかった。しかし、テロリストとの戦いに備えようとしていた米国にとって、北朝鮮の暴走を抑えてくれる中国は大切にしなければならない相手だった。北朝鮮を抑える見返りに、米国は台湾に関して中国に譲るという図式が出来つつあった。
「ブッシュ政権の内部では当時、小泉政権は反米ではないのかという議論が沸きたっていた。それを劇的に変えたのがイラク戦争です」と中西氏は指摘する。
米国は03年3月20日(日本時間)、イラク攻撃に踏み切ったが、この時、小泉首相が即座に反応したのだ。攻撃開始からわずか1時間後、記者会見を開き、「米国ブッシュ大統領の方針を支持」すると発表した。同時多発テロ発生のときとは雲泥の差だった。
後にフランスやドイツが同調しないことを知って、小泉首相は日本のみ早まったのかと不満を漏らしたと伝えられたが、しかし、これもまた怪我の功名だった。
ブッシュ大統領は日本の決意表明を高く評価し、2か月後に訪米した首相をクロフォードの牧場に招いた。そして江沢民には許さなかった宿泊込みの日程でもてなした。首相は米国の対日不信を吹き飛ばし、見事に日米関係を修復したのだ。
開戦から9か月後の03年12月、小泉政権は内閣の命運をかけて自衛隊のイラク派遣にも踏み切った。従来は資金は提供しても人間は出さなかった日本政府が、はじめて紛争中の国に自衛隊派遣を決意したのだ。その政治的意味は深く、日米関係は盤石となった。日米の絆の強さは中国の対日政策に大きな影響を与えていく。
中国は常に日米関係を一方に見、中国国内の権力闘争をも反映しながら、対日外交を展開してきた。とりわけ02年から03年にかけて、その傾向が強かった。
江沢民国家主席の対日強硬路線は98年の来日のとき、各地で、“過去の侵略の歴史を鑑として、未来永劫、反省しなければならない”と講演したことからも明らかだ。その強硬路線は、02年の米国訪問でみせた日米分断政策と表裏一体だった。
靖国参拝を貫いた信念
小泉首相の対中外交の失敗は、この中国外交の意図を当初読み切れなかったことだ。「誰が反対しようとも8月15日に靖国神社を参拝する」と公約した首相は、01年、参拝を13日に前倒しし、以来5年間、中国と折り合いをつけるべく、参拝日程をズラしては様子をみた。日本の誠意は中国にも通じると考えたのだ。世界は皆、自分たちと同じと考えがちなのが日本人だ。外交は個人の心や誠意を超える次元で展開されるという鉄則に思いが及ばない。
今年8月10日に発表された『江沢民文選』全3巻には、98年夏に、江主席が在外公館の大使全員を集めて「(日本に対しては)歴史問題を始終強調し、永遠に話していかなくてはならない」と語ったとある。中国共産党の対日戦略は、中国が厳命すれば、その命に従う国になるまで、歴史問題を言い続けるということだ。
しかし、どの国に、他国の首脳に命じられて、国に殉じた人々の慰霊を思い止まる首相や大統領がいるだろうか。英霊を慰める重要な儀式に土足で踏み込む非礼な内政干渉を許さない小泉首相の姿勢は評価すべきものだ。そしてそれを理解し受け入れる動きが、中国国内にもあった。江沢民政権下では息をひそめていたこうした意見は、03年3月に誕生した胡錦濤政権の下で明らかになる。『人民日報』論説部主任編集の馬立誠氏が03年3月号の『文藝春秋』及び『中央公論』に発表した論文がそのひとつだ。そこには日本は「率直にアジアの誇りである」「日本の謝罪問題はすでに解決」と書かれている。これは胡政権の考えだったはずだ。正当に日本を認めようとする同政策は、しかし、江前主席ら反対勢力の前に、方針転換を迫られる。国内の権力闘争に引きずられて、中国当局は再び小泉首相の靖国神社参拝を激しく非難し始めた。
それを首相はよく持ちこたえた。従来の日本の対中外交にはなかったこの負けん気外交と日米関係の強化とが相乗効果となって、日本はようやく、中国の対日政策を根本から変える地平に辿りついた。外交評論家の田久保忠衛氏が語った。
「安全保障面で日米同盟の緊密性が非常に深まりました。05年2月には日米安全保障協議委員会、通称2プラス2の会議で大きな進展がありました。共同声明で日米の共通戦略目標が合意され、アジア太平洋地域で不透明性・不確実性が継続していると言明したのです」
直接の名指しは避けたが、不透明かつ不誠実な軍事的脅威が中国と北朝鮮を指すのは明らかだ。強大化する中国の軍事力に米国が明確な警戒の視線を向けたのだ。また、2プラス2で台湾海峡問題の平和的解決も盛り込まれた。田久保氏はその重要性を次のように語る。
「台湾問題について、米国はニクソン政権以来、戦略的曖昧性を政策としてきました。日本は曖昧性どころか、危機意識もなかった。ところが、2プラス2の共同声明で、中国が台湾海峡に軍事力を動員する場合、日米は座視しないと明示したのです。日本の安全保障上、実に大きな変化です」
同合意はさらに05年10月29日の在日米軍の変革・再編に関する中間報告につながった。キャンプ座間に日米双方の司令部機能を合わせた統合作戦司令部を持ってきたのだ。
日米安保条約が新時代に入るなか、05年11月15日、ブッシュ大統領を京都に迎え、首相は「日米の関係が良いからこそ、中国や韓国などアジア各国との関係も維持されている」と述べた。
同発言を否定的にとらえた人も多かったが、首相の言葉は本質を突いたものだ。なぜなら、外交の基本である力の均衡の、日本にとっての軸点は現在、米国との信頼関係以外あり得ないからだ。こうして外交の基本原則を学習し、中国の意図を認識した首相は今年、6回目にしてようやく8月15日参拝の公約を守った。
型どおりの批判を展開したが、中国はこれを受け入れるより他に打つ手はないのだ。日米関係の分断も、歴史問題で日本を屈服させることも出来ず、江前主席の強硬路線は機能しないことが明らかになった。中国は現実的だ。すでに対日政策の見直しに入っている。対米外交の成功で、小泉首相は対中外交での勝利をも得た。歴代首相がなし得なかった極めて重要な成果を、小泉首相は残したといえる。
無策を露呈した対ロ外交
だが、対ロ外交に目を転ずれば、無策の極みだ。日本国際フォーラム理事長の伊藤憲一氏は、8月16日に発生した日本漁船の拿捕事件を例に説明した。
「事件は日本の領海内で発生した。にもかかわらず、ロシアの国境警備隊は銃撃してきた。そこに日本の海上保安庁の船がいないからです。ロシアは“力治国家”です。武力、暴力で支配する。日本の領海だから、国際法を守って入ってこないなどという国ではないのです。その点を誰も指摘していない。小泉首相を含む日本全体が、相手国の姿を知ろうともしない。それでは100戦100敗です」
力を以て攻めてくるロシアに対し、日本の外務省はまず国際法や道義を説いた。それが効果なしとわかったとき、利を以て誘うやり方に切りかえた。これが鈴木宗男氏らが力を入れたプレゼント外交である。その延長線上に03年1月に結ばれた「日露行動計画」がある。対話、平和条約、国際協力、貿易協力、防衛協力、文化協力の6項目を同時進行させるというのだ。
これらはロシアによって良いとこ取りに終わりつつある。伊藤氏が語る。
「首相はこの政策を変えることが出来ませんでした」
というより、関心がなかったのだ。関心がないために首相は日ロ関係の本質を理解出来ずに今日に至る。それは昨年モスクワで行われた対独戦勝利60周年の記念式典に行ったことからも明らかだ。
「あの式典は、全人類の敵であったファシズム国家群と、ソ連が全人類のために戦い、栄光ある勝利を挙げたことへの祝福なのです。その式典に参加し、頭を垂れることは、その論理を認めることになります」
第二次大戦中、日本はソ連に一発の弾を撃ったわけではない。中立条約を破って攻めこんだのはソ連だ。そのソ連の戦勝式典に参加することこそ、外交以前に己を知らず、敵を知らないということだ。
こうしてみると、小泉外交には空白が多い。失敗をあげつらえば限りがない。しかし、日米関係をかつてなく堅固ならしめ、日中関係で日本の主張を通し、中国の対日支配の戦略を挫いたことは高く評価したい。だから私は小泉外交に80点の合格点をつけたい。
アメリカによる日本支配と追従する日本の集団的自衛権。これを否定する個別的自衛権の改憲。
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