「 『殺されてもいい』ほどの怒りと決意は金正日にこそ向けるべきではなかったか 」
『週刊ダイヤモンド』 2005年8月27日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 605
“小泉改革”は何を目指した改革なのか。郵政民営化法案の否決を受けて、殺されてもいいという思いでやってきたと語った小泉純一郎首相の蒼白な顔、一文字に結んだ唇。これまで見たどの場面での表情よりも真剣だった。横田早紀江さんは思わず言った。
「その真剣な怒りの表情で、北朝鮮の金正日に思いをぶつけてほしかった。主権が侵害され、国民が連れていかれたままの状態をなぜ、総理は真剣に怒ってくれないのか」
郵政民営化は確かに重要事案である。民営化には大いに賛成だ。欠陥があるとはいえ、法案は成立させたほうがよいとも思う。にもかかわらず、首相の一連の策に納得しかねるのは、その改革のとらえ方に違和感を抱くからだ。
日本が断行しなければならない改革は、あえて言えば、横田めぐみさんらを取り戻すことの出来る国になるための改革だ。それは日本がまともな国になるということであり、真っ当な国家としての機能を備え、その存在意義を認識し、責任を果たすための行動をとることが出来る国に生まれ変わるということだ。
戦後の日本は、富の分配を中央省庁が采配することをもって、国家の役割としてきた。けれど、経済だけによって国が成り立つのではない。国民を守り、日本の文化、文明を大切にし、他国には対等に主張し、真の意味で国益を実現させていくことが必要だとの認識は、いまや広く共有されている。小泉首相が「殺されてもいい」と語ったときに、国民の支持率が跳ね上がったのは、従来の首相にはなかった“決意”と思い切りのよさを感じたからではないか。郵政改革は突破口であり、その先に合理的な国家運営が実現される、利益追求だけでなく、真っ当な国家としての再生がありうると期待したからではないか。具体的施策として、憲法改正や教育基本法改正への期待もあったと思う。
しかし、次々と公認される候補者の顔触れを見て、にわかに心配になる。
たとえば、郵政民営化に共に反対した古賀誠氏と平沼赳夫氏である。公認された古賀氏は憲法改正には反対、九条擁護論者である。憲法改正を党是として掲げてきた自民党の価値観から見れば、一年生議員のときから自主憲法制定を訴え続けてきた平沼氏こそが、公認候補となるべき人物だが、氏は非公認となった。外国人参政権問題も、古賀氏が積極的に推進したのに対し、平沼氏は、日本国籍を有する人こそが、選挙において票を持つべしと主張した。人権擁護とは名のみで、じつは、人権を弾圧するとして強い批判を浴びた人権擁護法案は、これまた古賀氏が推進した。「政局になっても反対する」として、阻止したのは平沼氏であり、古屋圭司氏や城内実氏らである。安倍晋三氏は、彼らとこれらの点については“同志”である。
郵政民営化問題のみを軸として白か黒かで判断し、平沼氏はじめ貴重な人材を切り捨てていくことが、自民党の地盤を液状化させていく。郵政民営化を支持しながらも、今回の“改革解散”を危惧するのは、とどのつまり、小泉改革を支える理念のなかに、国家という要素がまったく見えてこないからである。
“刺客”として郵政造反組の選挙区に送り込まれつつある候補者たちは、いったい何を基準に選ばれたのか。造反組の三六選挙区への刺客の選出は、すべて小泉首相の専権事項とされたそうだ。その首相にも、選ばれた刺客にも、国家は国民の生命を守り、安寧を担保する基礎としての存在であること、その基礎の綻びを埋める象徴が拉致被害者の救出だと自覚している人は見当たらない。国家の存在を念頭に置かない改革は、この国の基盤の液状化をさらに進める結果となるだろう。