「 拉致問題、まだ区切りではない 」
『週刊新潮』 2004年7月29日号
日本ルネッサンス 第126回
曽我ひとみさんのジャカルタ滞在は予想よりもずっと短い10日間で終わった。北朝鮮に戻らず日本で暮らすよう、夫のジェンキンス氏と2人の娘を説得するには、とても長い時間がかかる、或いは出来ないかもしれないと、出発前の曽我さんは述べていた。それだけ3人の家族は北朝鮮の価値観に深く染まっており、ジェンキンス氏は米国による軍訴追を恐れているのかと思われた。
それがわずか10日で済んだのは、曽我さんへの信頼が絶大だったのに加えてジェンキンス氏の病状悪化の判明も大きな要素だっただろう。
7月19日の『ニューヨーク・タイムズ』紙が「お尋ね者の米兵、日本に到着」との見出しで報じたように米政府のジェンキンス氏訴追の方針は不変である。一方で、「米政府は彼の健康状態に同情的である」とも報じられた。べーカー駐日大使の「ジェンキンス氏が自ら出頭し、有罪を認めるべきだ」との言葉が極めて具体的に解決法を示唆している。
ジャカルタでも羽田でも、曽我さんはジェンキンス氏の手をとり、背中に手を回し、気遣っていた。訴追の恐れと病気に直面する夫への、妻としての心をこめた支えが感じられた。数奇な運命で結ばれた2人の絆の強さも感じさせられた。氏が問題から逃げずに責任を果たし、早い時期に曽我さんの望む佐渡で穏やかな生活を営めるように願うものだ。
曽我さん一家が再会した7月9日に、小泉政権は早くも日朝国交正常化交渉の再開を語り始めた。当初は自分の任期内に国交を正常化させると言い、さらに1年くらいで正常化させたいとまで言い始めた。外交に期限を設けるのは禁物である。期限を設けた途端に足下を見られてしまうからだ。にもかかわらず、小泉首相が非常に前のめりになっている。
日本側の前のめりは、金正日総書記の前のめりと共通する。
金正日の頼みは金だけ
4月22日の龍川駅での爆発事件が北朝鮮の発表した列車の積み荷による爆発などではなく、周到に用意された大じかけな爆発だったというのは大方の見方だ。爆発跡の穴の深さは北朝鮮発表の「硝酸アンモニウム肥料を積んだ列車と石油タンク車を入れかえる作業中に電線に接触した」ための爆発などでは生じ得ない。
爆発は地中深く埋められた爆発物によっておきたもので、携帯電話に連動した起爆装置で作動する仕組だったとの情報がある。そして驚くことにこの“爆発物”は弾道ミサイルの燃料だったというのだ。つまり龍川事故は軍が関与した金正日暗殺未遂事件だったというわけだ。
この件に関連する興味深い情報がある。5月末に北朝鮮政府が、全国民の携帯電話使用を禁止したことだ。6月1日のタス通信は北朝鮮当局が全ての組織と全ての国民から携帯電話を取り上げたと報じた。
金正日総書記の支配が揺らいでいると見るべき情報はその他にもある。実の妹の金敬姫の夫の張成沢の失脚である。北朝鮮情報に詳しい現代コリア研究所の佐藤勝巳所長が語る。
「張成沢は朝鮮労働党中央委員会組織部第一副部長です。組織部は党の中の党と言われる中枢組織で、その部長は金正日です。北朝鮮のナンバー2の実力者が金正日の義弟で副部長の張成沢だったのです。時期は特定出来ませんが、その彼が失脚した。金正日の足下は明らかに盤石ではない。だからこそ、彼は1日も早く、日本から多額の資金を得たいと考えているのです。日朝国交正常化交渉の再開と早い妥結を望んでいるのはそのためです」
金正日が頼れる先は身内でさえない。軍事力と金の力だけなのだ。が、軍部さえも金正日暗殺を企てるとすれば、残るは金だけである。そんな金正日政権にとって小泉政権は格好の的であろう。
小泉首相は5月27日の参議院特別委員会で金正日の人物像を「実際会ってみれば穏やかで快活、冗談も飛ばす」と評した。日本国民を何百人も拉致している疑いがあり、生きていると思われるそれらの人々を死亡したと言って逃れようとする人物のどこが「穏やか」なのか。悪名高い政治犯収容所での北朝鮮国民に対する弾圧、虐殺の情報を知っていれば、口が裂けても言えない言葉のはずだ。
首相のこの軽いノリ、浅い考えを巧みに利用して、1兆円とも5兆円とも言われるほどの資金を手に入れようとしているのが金総書記である。国交正常化は金総書記にとっては延命である。小泉首相にとっては歴史に名を残すことだ。両者の利害は一致しているわけだ。
当然ながら、経済援助は国交正常化なしにはあり得ない。国交正常化は拉致、核、ミサイル問題の解決なしにはあり得ない。逆にいえば金総書記が灼けつく程に切望する1兆を超える資金はこれらの問題をクリアしさえすれば手に入ることになる。
国交正常化にはまだ早い
7月9日にチャーター機でジェンキンス氏を平壌に迎えに行った外務省の齋木昭隆審議官に北朝鮮外務省の宋日昊副局長は横田めぐみさんら10人について「地方にまで手をのばしていろいろと調べている」と述べた。情報はいつ明らかにするのかと問われ、「一所懸命にやっている」とのみ答えた。「地方にまで手をのばし」た結果、死亡とされた人たちが生きていましたといって、帰す可能性は全くゼロではないだろう。
だが、日本側からみる拉致問題はめぐみさん、増元るみ子さん、有本恵子さんら10人はもとより、460人ともいわれる特定失踪者の問題も当然、含まれる。小泉政権はこれまで特定失踪者について触れてこなかった。彼らを切り捨てる形で北朝鮮との国交を樹立したいというつもりなら、そのようなことは国民世論が許さないことを、日朝両政府ともに今から知っておくべきだ。
核開発に関して北朝鮮は全ての核施設の活動の凍結、核兵器の生産・移転・実験の凍結を提案したが、米国のケリー国務次官補は、7月15日、上院外交委員会で「具体策に欠け、多くの重要項目があいまいだ」と批判した(『朝日新聞』7月16日)。
北朝鮮の提案には03年以前のプルトニウム抽出、核兵器生産、ウラン濃縮計画がスッポリ抜けていたりすることが米国に批判されたのだ。「凍結」を言い出したことについては評価出来るとしても、内容をよく見れば実質的な前進とはいえない騙しの狡智に長けているのが北朝鮮だ。
拉致も同様である。地方にまで手をのばして何を調査しているのか。仮に、詳細な調査結果が“死亡説”のさらなる強化だとすれば、そのような国と国交を樹立しなければならない理由はない。
曽我さん一家の再会で日朝国交正常化交渉の条件が整ったという小泉政権の姿勢は間違っている。首相は10人と数百人の特定失踪者問題の解決なしには、国交正常化は出来ないと明言すべきなのだ。