「 凄惨な小学生の同級生殺害 心を育てる教育が急がれる 読書と対話によって心を耕せ 」
『週刊ダイヤモンド』 2004年6月19日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 547
長崎県佐世保市で起きた小学6年生による同級生殺害事件に、誰もが戸惑っている。この11歳の女児の犯行は、裁判官3人による合議で審理されることになった。おとなでいえば、刑事事件に当たる取り扱いである。
仲よしの同級生の首をカッターナイフで10センチメートルの深さに達するほど切りつけた心のなかは、どう調べても、容易にはわからない。殺害された御手洗怜美(みたらい・さとみ)さんが倒れていた現場に駆けつけた救急隊員は、その凄惨な現場を目撃したことによるショックで「惨事ストレス」といわれる症状に陥り、専門家による治療を受けていると報じられた。この隊員は、同世代の子どもを持つ40代のベテランだそうだ。人生経験を積んだ大のおとなが、目撃したことによって心の病に落ち込んでいくほどの凄惨な犯行を、なぜ、11歳の女の子がしてしまったのか。
誰にとっても答えを見つけるのは難しいが、報道を読んで痛感するのは、女児らの言葉の貧困さである。「うぜークラス」「下品な愚民」「高慢でジコマン(自己満足)なデブス(デブでブス)」といった表現は、匿名で書き込まれる「2チャンネル」などでの言葉づかいと同じである。
匿名の陰に隠れて、人間は凄まじい非難や攻撃の言葉を吐き出していく。社会で“普通の”暮らしを営んでいるであろう人びとが、顔も名前も隠せる立場に立つとき、突如変身する。抑制も配慮も投げ捨てて、怒りや恨みや憎しみをぶつけていく。そんなときの彼らが使う言葉は汚く、文章は短絡的になりやすい。
女児は匿名で書いていたわけではないが、ホームページに書かれていた文章も同様の性質のように思えて、胸を衝かれた。コンピュータの影響か、教育の影響か、家庭の問題なのか。
軽々しく論じられないが、私は東葉(とうよう)高等学校(千葉県)の大塚笑子(えみこ)教諭の体験を思い出す。大塚教諭は、全国的に有名になった、学校での「朝の読書」を提唱した人だ。彼女は荒れたクラスの担任になったとき、生徒たちに本を読ませた。毎朝10分間、静寂を守らせ、読書に集中させた効果は驚くほどで、暴力も喧嘩もなくなり、クラスに思いやりが生まれてきたという。
「親も知らない孤独感のなかに放り出されたような心境に、子どもたちは陥ることがあります。自分だけ取り残されているような不安感、クラスの誰からも必要とされていない、ましてや好かれても愛されてもいないという一種の被害者的想いに落ち込んで、そこから抜け出せない生徒も多いのです。そんなとき、本のなかに救いにつながる手がかりがあります。共感したり、思い当たったりする言葉、状況などがあるかもしれず、自分を静かに見つめる気になるのです」
そうしたもろもろのことを含めて、眼前に広がる新しい世界に、生徒たちは本によって導かれていく。一冊読めば次の本にいきたくなる。心のなかの世界は広がっていく。この繰り返しによって心に幅ができ、多様な心の動きや感受性を表現する言葉も学んでいくというのである。
言葉を学ぶということは、その言葉に込められている意味を知ることである。意味を知ることは、感情と理知を持つことにつながる。知っている言葉の豊富さ、学んで身につけた語彙(ごい)の深さは、その人が感じたり考えたりする能力と正比例すると思われる。朝の読書の体験から、親子の会話の欠落さえも読書が救ってくれる、自他共に大切にする思いやりの心も育まれていく、と大塚教諭は強調する。
人間は、生まれたときは単なるヒトだが、教育によって人間へと育っていく。その教育の中心に子どもたちの心を言葉で耕し、豊かな精神の土壌をつくることがなければならない。遠回りなようだが、とても大切なことだと思うのだ。