「 イラクで国際社会の流れをよめ 」
『週刊新潮』 2004年6月10日号
日本ルネッサンス 第119回
『ネオコンの論理』で知られるカーネギー国際平和財団の上級研究員、ロバート・ケーガン氏は、イラク問題をきっかけに生じた米欧間の深刻な亀裂について警告する。
同氏の主張を敢えて一言でいえば、唯一の超大国となった米国は、軍事的な問題解決能力があるからこそ、テロリズムの脅威を脅威と認めて対応しようとする。反対に欧州がテロは脅威だと認めたがらないのは、認めたとしてもそれを解決する能力を欠くからだというものだ。欧州は、強くなりすぎて欧州のコントロールの利かなくなった米国に苛立っているともいうのである。
米欧は価値観を共有し、本来良好な関係を保って補完し合える同士であるにもかかわらず、欧州は今やテロリストの脅威よりも米国の脅威のほうが深刻だと考えているのかとの同氏の問いでもある。
米欧間の亀裂の要因は複雑で根深く、簡単に修復されるとは思えないが、それでも、双方は歩み寄りつつある。ブッシュ政権に歩み寄りを強いたのは、イラク政策に対する厳しい世論である。
最新の「CBS」放送の調査では、ブッシュ大統領のイラク政策への支持率は34パーセントにまで落ち込んだ。「ABC」放送と「ワシントン・ポスト」紙の合同調査では支持が40パーセントである。両調査にみられる不支持は各々61パーセントと58パーセントだ。
こうした苦況のなか、5月24日に米英両国がイラクへの主権移譲に関する新決議を国連安全保障理事会に提示した。イラク占領統治は6月末に終了させ、連合国暫定当局(CPA)を解散し、主権をすべてイラク暫定政権に移譲する、主権を移譲したあと、遅くとも来年1月末までに総選挙を行って、その結果成立する議会が新憲法を作る。多国籍軍は事実上、米軍の指揮下におかれるが、その役割は1年後に見直すとの提案だ。
米国が大方の予想に反して全ての主権を移譲するところまで譲歩したことで、安保理での議論は前進する可能性が強くなった。
認めるしかないテロの脅威
仏独両国にも微妙な変化が表れた。5月25日、ブッシュ・シラク両首脳の電話会談が行われ、シラク大統領は「米英の提案は討論のためのよい土台」だと評価した。ドイツのプロイガー国連大使も同様に米英案を評価した。
「仏独両国にテロの脅威にきっちり対処する動きが出てきたことに注目しています。フランスのドビルパン氏は外相だったときにはアメリカのイラク攻撃に強烈に反対しましたが、内務大臣となったいま、姿勢は明らかに変化しています」
こう述べるのは杏林大学教授の田久保忠衛氏だ。氏の指摘は先にドビルパン内相がアルジェリア人のテロリストを、イスラム原理主義者らと組んでフランスにテロの基地を作る工作をしていたとの疑いで国外追放にしたこと、また、パリ地区の32のモスクがイスラム過激派とつながりがあるとの認識を示したことなどを指している。テロリストの脅威を正面から認める動きはドイツにも顕著だと田久保氏は指摘する。
「ドイツのシリー内相は元々緑の党に属する左派ですが、そのシリー内相が週刊誌『シュピーゲル』の取材に“テロの通告に屈して彼らをこの国で自由に往来させるわけにはいかない”と述べたのです」
シリー内相のコメントは3月11日のスペインのマドリードでの列車爆破事件と、その後にビンラディンの肉声とされたテープで、自分たちと良好な関係を保たなければ欧州も攻撃の対象となるという脅迫のメッセージが報じられたことへの反応である。
また、英国の国際戦略研究所(IISS)は5月25日発表の年次報告のなかで、イラク戦争によって国際テロ組織アルカイダの活動が活発化したこと、国際社会のテロに対抗する力が弱まっていることを警告した。ヨーロッパのみならず世界に影響力をもつシンクタンクがテロの脅威が尚、高まっていると強調したのだ。
列強の世界戦略の狭間で
それにしても欧州は、どの程度まで超大国の米国よりもテロリズムのほうが脅威であり、アルカーイダをはじめとするテロリストの手に、世界第2の石油埋蔵量を有するイラクが握られてしまうことの危険を認知することが出来るのか。それを彼らの外交、安保政策にどこまで具体的に反映させることが出来るのか。
米欧諸国はこれからの1カ月間に幾つかの重要な会合をもつ。6月5日のノルマンディー上陸60周年記念式典直前の米仏首脳会談。その直後の6月8日から10日まで、米国ジョージア州でのシーアイランドサミット、28日にはトルコのイスタンブールでNATO(北大西洋条約機構)首脳会議が開かれる。
ブッシュ政権のイラクにおける苦況の深まりと同大統領の支持率低下が示すアメリカの力の“弱体化”がブッシュ政権に予想外の譲歩をさせた。それが欧州側にも歩み寄りを促した要因であるかもしれない。
冷静に考えれば、米欧は歩み寄るしかないのだが、もうひとつ明らかなのは、米国のイラク撤退はあり得ないということだ。先述のように世界第2の油田をテロ勢力の手に渡すことが経済、安全保障に及ぼす影響を考えれば、米国はイラクの民主政権の安定が実現されるまで、とどまらなければならない。そのことを米欧双方が認識したうえで、どのような叡知を発揮して協力体制を築いていくのか、日本は米欧の動きを見誤ってはならない。
6カ国協議の一員として北朝鮮の核、ミサイル問題解決に関わってきたロシアも、米国の主導する大量破壊兵器拡散防止構想(PSI)への参加を決定した。イラク戦争以来軋んできた米露関係は、これで修復の糸口をつかんだとみられる。
また中国に関してパウエル米国務長官は、現在の米中関係は30年以上も前のニクソン訪中時以来の良好さだと述べた。5月29日、ブッシュ・胡錦濤両氏の電話会談が行われており、中国は基本的にブッシュ戦略を支持したとみられる。
ブッシュ共和党政権が生き残りをかけて、総力をあげての外交戦略を展開しているのが見えてくる。
小泉首相は5月22日の訪朝直前にブッシュ大統領に電話をかけた。曽我ひとみさんの夫のジェンキンス氏の身柄について話し合ったという。拉致問題の解決を8人の帰国という狭い分野でとらえる余り、また、参院選前の支持率について考える余り、つい、ブッシュ大統領に特別の配慮を求めたとみられる。米欧、中国、ロシアなどが国益をかけて世界戦略を練っているときに、小泉首相の頭のなかには、世界情勢を見据えて、いま米国大統領と何を話し合うべきかという考えなど全くないのである。