「 “拉致被害者”美保さんの行方 」
週刊新潮 2004年3月18日号
日本ルネッサンス 第108回
2月末に北京で行われた6か国協議で改めて突きつけられたのは、米国頼みの日本の外交の非力振りだった。これで、拉致も核も解決の道は、当面、閉ざされたといえる。
各国代表の署名もない議長総括には、協議プロセスの継続と次回会合を4か月先の6月末までに開くこと、準備のための作業部会を設置することが書きこまれたが、これはブッシュ外交の譲歩でしかない。現代コリア研究所所長・佐藤勝巳氏が語った。
「ブッシュ政権本来の政策なら、北朝鮮が核の全面廃棄に頑として応じなかったのですから、問題を国連安全保障理事会に持ち込み経済制裁に移る段取りに入らなければならないはずです。しかし、そうはせずに、作業部会の設置に同意した。ブッシュ政権には北朝鮮問題に正面から取り組む余裕がないのです」
北朝鮮側から見れば、作業部会は時間稼ぎの口実となる。待っていれば、米国の変化も期待出来るかもしれない。なぜなら米国世論は必ずしもブッシュ再選を約束しておらず、次期政権が民主党になるとすれば、クリントン政権並みの“やさしい”政策に逆戻りする可能性もある。金正日にとって、これ程好ましいことはないだろう。
米国が動かなければ日本は動けない。藪中三十二アジア大洋州局長は、4日間にわたる北京会議で連日、北朝鮮の金桂寛外務次官と折衝したと報じられたが、「拉致問題は核問題の解決、米朝関係の進展とも関係する」と、核に関して北朝鮮側の意図を汲みとって米国に働きかけよとでもいうかのような注文を、逆に、つきつけられた。
そのような中、いくつもの不透明な動きが進行中だ。ひとつが、特定失踪者問題調査会をめぐる動きだ。北朝鮮に拉致された可能性を否定出来ない失踪者の調査を進めてきた同調査会には、3月10日時点で、400件を超える届け出があり、内、拉致が確実と思えるのは18名にのぼる。代表の荒木和博氏が語った。
「2月に政府関係者から、あまり拉致と断定してやりすぎない方がいい。特に山本美保さんのことなど、非常に盛り上がっていますねと、言われたのです。本来なら政府が調べるべきことを、民間の私たちがやっているのです。にもかかわらず調査活動にブレーキをかけようとするのはおかしいと感じました」
山本美保さんは1984年6月4日、図書館に行くといって山梨県甲府市の自宅を出たまま失踪、4日後の6月8日に新潟県柏崎市の海岸でバッグが見つかった。北朝鮮から韓国に亡命した権革(クォンヒョク)氏は「94年頃、北朝鮮国内において見かけた女性が美保さんにそっくり」と証言、荒木氏らも美保さんは拉致された可能性が極めて高いと判断している。
突然の警察発表
さて、荒木氏が美保さんのことなどで“忠告”を受けて約ひと月後の3月5日、山梨県警警備第一課が「行方不明者『山本美保』さんについて」という文書を公表した。それによると美保さんは拉致ではなく、日本国内で死亡していたというのだ。
発表資料には、84年6月21日、山形県飽海(あくみ)郡遊佐(ゆざ)町の海岸に、一部白骨化した遺体が漂着。「山形県内で発見された身元不明遺体の一部とのDNA鑑定(本年3月上旬判明)を含めた捜査の結果により、山本美保さんと同一人物であることを判断した」と書かれている。
整理すれば美保さんは、84年6月4日甲府で失踪、6月8日新潟県柏崎市の海岸でバッグを発見、6月21日一部白骨化して、山形県の遊佐海岸に漂着したことになる。非常に奇妙だと荒木氏は強調する。
「美保さんの家族のDNA鑑定が昨年の5月です。今回の遺体についての遺留品の照会を県警から受けたのが去年の秋です。なぜ、今の発表なのか。また、山本家は捜索願を出したあと、不明死体の連絡が入る度に確認に出向いていますが、歯形が合わず別人との結果が続いてきました。美保さんの遺体と断定するにあたって歯形は調べたのか。また、DNA鑑定と言われても正直言ってそれが本物か否かもわかりません」
荒木氏が県警の発表を信じきれない背景には、氏が微妙ながら、確かに感じとっている大きな圧力がある。
「県警の発表の背後には、大きな政治の力、敢えていえば、官邸の意思が働いているのではないでしょうか。特定失踪者問題のこれ以上の調査をやめさせて、拉致問題を限定して考えたいという人々の政治的意図があるのではないでしょうか」と荒木氏。
官邸で外交及び拉致問題で指導力を発揮しているのは福田康夫官房長官だ。ただ、圧力の源が福田氏であると決めつける証拠はどこにもない。同時に、まだ不明の人々のことも合わせて、拉致問題全体の解決をはかろうとの姿勢を、福田氏が見せたことが一度もないのは、私の知る限り、たしかでもある。
国民に対する裏切りとは
荒木氏らの調査会が新たな拉致かもしれない失踪者を掘りおこせばおこすほど、政府の拉致問題解決の責務も重くなる。北朝鮮の罪も重くなる。小泉政権には、2002年の10月15日以来、進展のない拉致問題を、一歩でも前進させたい気持ちが強いだろう。参議院選挙前に、帰国した5人の被害者の子供や夫8人が帰国すれば支持率の上昇にもつながる。8人が帰国すれば、死亡とされためぐみさんら8人と、北朝鮮への入国記録がないとされた曽我ミヨシさんら計10人の消息が不明のままでも、支持率は上昇すると思われる。
こうしてみると、拉致問題の実態がより明白になり、被害者の数がさらにふえ、責務が重くなるより、拉致全体の姿がはっきりとしない方が、政府にとってやり易いのは明らかだ。荒木氏は、そうしたことが背景にあっての、警察による拉致疑惑否定の発表ではないかと疑っているのだ。
6か国協議で無力感を感じさせられた日本がなすべきことは、拉致問題の全容を殊更に小さく見せることではない。部分的な解決を目指しても、北朝鮮が相手では、否、どんな国が相手でも、決してよい結果は出てこない。
日本が北朝鮮に経済制裁を科すことが出来る改正外国為替法を成立させようとしたとき、北朝鮮は突然、日朝間の正式交渉再開を働きかけてきた。なぜか。制裁を恐れているのだ。北朝鮮に対しては本気で、攻めるしかない。
いまの国会で、北朝鮮の船の入港を阻止する特定船舶入港禁止法も成立するだろう。こうしてつくった法律をひとつひとつ、実行し、日本なりの力を用いることだ。さもなければ、拉致問題は一歩も進まない。荒木氏らが感じる圧力は、拉致問題の政治利用につながる類いのものだろう。それでは拉致された国民が犠牲になりかねない。それは明らかに拉致被害者、家族、そして国民全体に対する裏切りである。