「 自衛隊暴走論から犠牲論へ 『有志連合』 潮流の今こそ国家を考え直す機会だ 」
『週刊ダイヤモンド』 2004年1月17日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 第526回
100年前、日本は日露戦争を戦った。明治後期のこの戦いぶりは、発展途上の国だった日本が、国際社会で国家としての信頼を勝ち取るのに大きく貢献した。
大国ロシアを相手に、軍艦ごとに国際法の専門家を同乗させて、軍事行動が国際法に違反しないように自らを律したといわれているほどだ。国際法を遵守しつつ奮戦して、日本は確かに勝利した。しかし、ポーツマスでの講和会議では、ロシアの巧みな情報戦になす術もなく、惨敗。この間の事情を詳しく分析したのが、ウッドハウス暎子氏の『日露戦争を演出した男モリソン』(東洋経済新報社)であり、情報戦略の重要性をあらためて教えられる。
あれから100年、日本は間違いなく大きく変わろうとしている。変化は、日本の安全保障政策に最も顕著に表れてくると思われる。その兆しは、自衛隊のイラク派遣に反対する人びとのなかにも読み取ることができるのだ。
自衛隊を海外に出してはならないとしたかつての論は、自衛隊が暴走するかのような主張だった。しかし今、反対する人びとが強調するのは、自衛隊員の装備の不十分さや、危険度の高さである。自衛隊員に犠牲者が出たらどう責任を取るのか、という主張へと、反対論の根拠は180度転換した。
自衛隊暴走論から自衛隊犠牲論へと変化したのは、軍部の独断や暴走は、この国ではもはや起こりえないことを、皆が体験的に納得しているからだ。戦後半世紀余で、自衛隊への信頼がそこまで積み上がってきたのだ。
米軍の戦略の変化も顕著である。イラクの治安回復、復興支援活動は、米国を中心軸としながらも、これまでになかった「有志連合」のかたちを採っている。日本のメディアでは、要請あるいは要求というかたちで米軍が各国にさまざまな役割を割り振っているかのように報じられる場合が多いが、実態は必ずしもそうではない。
コアリッションと呼ばれる有志連合は、平たくいえば「この指止まれ」政策である。呼びかけに応じて指に止まるも止まらぬも、基本的にその国の意思である。
米国フロリダ州タンパに置かれている司令部には、53ヵ国の軍の代表が集まっており、各国が申し出るかたちで、治安、復興活動計画がつくられていく。イラクおよび対テロ戦争を契機として、米国は大規模な海外基地を維持する戦略から、中小規模の基地をより多く置いて、敏速に展開できる態勢へと変化しつつある。新戦略に従って、韓国、ドイツ、サウジアラビアなどの基地が大幅に縮小され、他地域または他国に移される見通しである。
海外基地の大規模再編成の動きのなかで、ブッシュ大統領は昨年暮れ、「これからの世界で機能するのは有志連合である」とのスピーチを行なった。日本は米国の変化をどう受け止めるべきか。沖縄に広がる広大な米国の基地が、日米関係の変わりえない条件だと考えることは危険であろう。米国に言われていつも仕方なく従っていれば事がすむ、という後ろ向きなお任せ主義が通用しない時代にすでに入ったのだ。
リビアのカダフィ大佐が核開発の事実を認め、査察への全面協力を決定し、シリア、イラン、北朝鮮に対して自分と同様に核開発をやめるように呼びかけたのは、イラク情勢を見たからである。フセインと同じ末路をたどりたくないと彼に思わせたのは、米国の軍事力と国家意思である。
世界の超軍事大国となった米国が実質支配する有志連合、それでも米国による強要ではなく、各国の自己決定が最重要の要素となる。軍事最強国でさえも、各国の意思に逆らう強要は不可能になったのだ。だからこそ、各国の自立と意思が鍵となる。日露戦争から100年、国家を考え直す機会が、今なのだ。