「 拉致全面解決が交渉の前提だ 」
『週刊新潮』 2003年9月11日号
日本ルネッサンス 第83回
北京での3日間にわたる6カ国協議は概ね評価されている。日本にとって、拉致問題を6カ国の場で指摘出来たこと、最終日には北朝鮮側が拉致問題を含めて日朝平壌宣言に則ってひとつひとつ解決していくと述べたことなどが、評価の理由である。
しかし、腑に落ちないことがある。日本政府のなかから拉致問題の部分的解決で幕引きを図る動きが見えてくるからだ。
9月1日夕方6時から、外務省アジア大洋州局長の藪中三十二氏が横田夫妻、蓮池透氏、増元照明氏ら、家族のメンバー8名と関係者らをキャピトル東急地下の京都の間に集めて、状況を説明した。
藪中局長の説明のあと、拉致議連の中川昭一会長が日朝国交正常化交渉再開の条件は何かと聞いたとき、局長の返答は曖昧だったという。そこで「救う会」代表の佐藤勝巳氏が「8人+2人の安否情報の確認は正常化交渉の前提条件ではないのか」と尋ねた。
いうまでもなく8人は、めぐみさんをはじめ“死亡した”とされる人々であり、2人は北朝鮮に入国していないとされた曽我さんの母親のミヨシさんと原敕晁さんだ。
拉致被害者の家族にとっては当然の質問だが、佐藤氏の問いに、藪中局長が異常な反応を示したという。横田早紀江さんが語った。
「それまで普通に話していたのに急に声を荒げて『それはですねぇっ』と強い声で言ったのです。なぜ、あんなふうに興奮なさったのか、一夜明けた今でも不思議です」
藪中局長が語った内容は、蓮池薫さんら5人の家族8人が帰国した段階で日朝両政府は国交正常化交渉に入る、交渉の中で拉致問題の真相究明を行う、真相が究明されなければ拉致問題の解決はなく、国交樹立も経済援助もないというものだった。いわゆる拉致問題解決の出口論である。
早紀江さんが懸念した。
「日本政府の立場は変化したのでしょうか。これまでは、拉致問題全体の解決がなければ、国交正常化交渉は再開しない。日本側の態度を揺らがせないことが重要といってきました。入り口、出口でいえば、入り口論だったのです。8人の帰国で正常化交渉に入るというのは、そこで妥協する用意があると、北朝鮮側に思われてしまうのではないでしょうか」
小泉再選に向けた政策
興味深いのは、藪中局長が8人の家族の帰国は時間をおかず有効な時期に働きかけると述べ、家族側が、それはいつかと問うと、「週単位で働きかける」と答えたことだ。
横田茂さんは、「北朝鮮側も持ちかえって相談しなければならないから、1日や2日単位ではだめだけれど、月単位ではない、早期に答えが出ると受けとめました」と述べた。
週単位で交渉が進めば、小泉訪朝一周年、または9月20日の自民党総裁選挙前にも、8人の帰国が実現されるかもしれない。そうなれば、首相の支持率は一層高まる。総裁選挙で、野中広務氏らの打倒小泉の野望は粉々に打ち砕かれる。首相にとっては願ってもない事態だ。福田康夫官房長官のこれまでの発言には、上の状況を狙った意図が見える。
7月31日、福田長官は「拉致問題は2国間の人道上の問題である。核問題とは切り離していつでも決断出来る」と発言。8月4日には「政府は5人の家族の帰国を緊急課題と考えている」とも語った。
福田発言は、藪中局長の被害者家族らへの説明にストレートに結びつく。一方で、安倍晋三官房副長官は8月31日のテレビ番組で、「5人の家族の帰国がなければ正常化交渉再開はあり得ない」、つまり、家族が戻れば正常化交渉に入り得ると述べた。残り10人は「交渉の中で」はっきりさせるとも明確に語っている。
これまで、拉致の全面的解決が正常化交渉再開の前提条件だと主張して、福田氏らと一線を画してきた安倍副長官を含めて、8人の帰国で国交正常化交渉再開の政策が政府内で意思統一されているのが見えてくる。
これら全て、小泉再選を目指す森派の戦略だと、佐藤氏は語る。
「私のもとには、子供たち8人は9月17日には帰国させる。その交渉は福田長官が8月9日に中国を訪れたとき王毅外務次官との間で調整してきたという情報が北朝鮮筋から入ってきています」
平壌宣言の隙を突かれるな
中国の仲介でどれだけ北朝鮮を動かせるのかは定かではない。しかし、日本の援助を引き出す可能性があれば、北朝鮮が子供たち8人を返すことは大いにあるだろう。NGOの一員に子供たちの写真を持ち帰らせたときから、子供たちを返してもよいとの意図は明らかである。
だが、問題は深刻である。小泉首相の再選を意識して交渉に臨めば、日本側は時間の制約というハンディを負う。藪中局長の発言も、福田長官の「緊急課題」発言も、9月20日のデッドラインにしばられる。8人の帰国を手にするために、北の求める援助につながる日朝国交正常化交渉再開を譲歩の条件にせざるを得ない。
たしかに、正常化交渉を再開しても残り10人の情報が明らかにならない内は援助もなしだと、藪中局長は語った。だが、北朝鮮側は北京でなんと言ったか。「ピョンヤン宣言に基づいて、ひとつひとつ問題を解決していこう」と言ったのだ。
周知のとおり平壌宣言には「拉致」という言葉ひとつ入っていない。金正日総書記の「謝罪」もない。あるのは日本側の謝罪と謝罪の証しとしての日本からの援助の約束である。
同宣言に基づいて、どうやって残り10人の拉致情報、安否情報を確認するのか。昨年来、被害者家族側は残り10人の安否確認を含めて北朝鮮側に150項目の質問を渡した。約1年もすぎたのに、返答は何ひとつない。なしのつぶてだった回答が正常化交渉の中で与えられるとは思えない。第一、9月2日には、北朝鮮は「日本は6カ国協議に解決済みの拉致問題を持ち出して、問題を複雑にした」と、再び日本非難の声明を発表した。北朝鮮側が子供8人の帰国で拉致問題に幕引きをし援助引き出しを狙っているのは明らかである。
北朝鮮の筋書きに乗りつつ、日本が10人の拉致問題の解決を求め、拉致問題全てが解決するまで援助を行わないことは、必ず、出来ない相談になる。そのうえ、援助の前倒しに追い込まれる可能性は大である。
その場合、北朝鮮を政治的、軍事的、経済的に5カ国で包囲し、核開発を断念させたいとする米国の戦略とも軋轢が生ずる。日本にとって、現在、最重要の日米関係も損なわれ兼ねない。
外交は原則を崩した瞬間に揺らぎが生ずる。そして隙を突かれる。拉致問題の全面解決が日朝国交正常化交渉の前提との立場は決して崩してはならないのだ。