「 バイオテロに勝つ大人の知恵 」
『週刊新潮』 2002年4月4日号
日本ルネッサンス 第13回
今月末、千葉県の血清研究所が閉鎖される。日本で唯一の天然痘ワクチンを製造している研究所であるばかりか、そのワクチンは、「LC16m8」と呼ばれる、世界で最も安全で優れたワクチンである。
元国立予防衛生研究所ウイルス第一部長で、現在富山県衛生研究所長の北村敬氏が語った。
「血清研究所の閉鎖で、日本の痘瘡ワクチン製造能力は消滅します。国際社会が今、天然痘ウイルスを使用したバイオテロに備えて準備しているのとは全く逆の動きです。米国は99年から痘瘡ワクチンの製造を急ピッチで始めて、この2年間で米国民を守るのに疫学的に必要な約4000万人分を作り終えました。日本は約2000万人分が必要ですが、血清研究所の作ったストックは300万人分しかありません。にも拘わらず、閉鎖です。これでどう国民をテロから守るのか理解に苦しみます」
周知のように、80年5月にWHO(世界保健機構)は天然痘撲滅を宣言した。特定の病原ウイルスとの戦いに人類が完全に勝利したはじめてのケースで、地球上に天然痘ウイルスはもはや存在しないはずだ。それなのになぜ天然痘から人間を守る痘瘡ワクチンが必要なのか。
北村氏が、説明がやや長くなるがと断って続けた。
「天然痘が撲滅された時、世界各国のウイルス研究機関には痘瘡ウイルス株がストックされていました。WHOの専門委員会は、実験室内の事故などから再び痘瘡ウイルスが外部に漏れることを恐れ、株を米国のCDC(疫病管理・予防センター)とソビエトの国立ウイルス製剤研究所に寄託するよう勧告したのです」
日本も所有のウイルス50株を米国CDCに寄託した。96年、WHOは米ロ両国保有の痘瘡ウイルスはもはや不必要として、廃棄すると決議した。
が、これは米国の反対で実行されなかった。背景には、旧ソ連からの一人の科学者の亡命があった。92年に亡命を果たしたケン・アリベックだ。彼は75年以来、ソ連の生物兵器製造組織『バリオプレパラト』に所属、ペスト兵器、ツラレミア兵器の開発で微生物学博士号を、炭疽兵器の大量生産技術の確立で理学博士号を取得したソ連の生物兵器開発製造の実質的リーダーだった。
亡命したアリベックは驚くべきソ連の生物兵器開発の実情を語ったのだ。彼の著した『Biohazard』は同名で邦訳、出版され、生物兵器の実態を生々しく伝えた。アリベック証言は以下の内容だ。
ソ連は73年、ブレジネフ政権下で『エンザイム・プロジェクト』を立ち上げた。同計画はソ連を“世界で最も優れた”生物兵器開発の道へと導いた。80年にWHOの撲滅宣言が出た時、クレムリンはこれを天与の“軍事的チャンス”と捉えてた。天然痘撲滅でワクチンの接種をやめた人類は天然痘ウイルスに対して無防備になっている。そこに同ウイルスを撒けば、抵抗力を失った人間は容易に罹患するからである。ちなみにワクチン接種の経験がない人々の罹患率は80%、死亡率は40%と推測されている。好機到来と、ソビエトは翌81年に当時保有していた天然痘ウイルス兵器を改造し、より強力な天然痘ウイルス兵器の開発にのり出した。この邪悪な80年代のソ連の生物兵器の研究開発には、全体で実に6万人が従事していたという。
技術も設備もない
83年3月にミハイル・ゴルバチョフが登場。彼は生物兵器開発に従来以上の大規模計画を了承した。ゴルバチョフの了承した5ヵ年計画は総額10億ドルを超え、天然痘、マールブルグ病、ラッサ熱、マチュポ熱、エボラ、ボリビア出血熱、ベネズエラ馬脳炎、ロシア春夏脳炎、果てはHIVまで含むウイルス兵器開発を大きく推進する力となった。
90年12月、旧ソ連は年に80から100トンの天然痘ウイルス製造ラインを完成、遺伝子を改良してより強力なウイルスの開発にも成功した。
そしてソビエト帝国は崩壊した。ロシア連邦となって以降、科学者の海外流出が始まった。ロシアで科学者の月収が約100ドルに過ぎない時、米国なら、官僚か民間企業の研究員かで差はあるが、年収は5万ドルから20万ドルにはなる。この格差の中で人材の流出は予想以上に幅広く進行しつつある。行く先は米国のみならず、北朝鮮、イラン、イラクをも含む。人材まで行かなくとも、容易に生物兵器に変身する手持ちのウイルスは次々と秘密裏に売られていった。
こうして冷戦終了後の世界には生物兵器が急増した。昨年米国で撒かれた炭疽菌は、現代社会が新たな危機に直面している事実を明らかにした。20世紀が爆撃機やミサイル、軍事衛星などに象徴される物理学の世紀だとすれば21世紀は生物学と微小生物の世紀だ。にも拘わらず日本の対応は心許ない。
千葉県血清研究所の話である。
「3月に閉鎖して9月には全て後始末を終えますが、私どもの技術をどこに引き継いでもらうのか、決定していません。どうなるかと聞かれても、私どもは地方の機関にすぎません。国の政策は国に聞いて下さい」
厚生労働省の厚生科学課は言う。
「今年度(2001年度)は9億円の予算を計上しています。250万人余のワクチン製造費、接種針、ワクチン保存費などです。国の備蓄量は定められているわけではありませんが、有事の際にはきちんと対応します。安心して下さい」
だが、日本国民を守るためには少なくとも2000万人分のワクチンが必要というのが専門家の見方だ。300万人分では不足なのだ。
「民間企業が血清研の技術を引き継ぐことが必要ですが、その能力があるのは、北里研究所、武田薬品工業、熊本の化学血清研究所など数社です。しかし、引き継ぎの交渉が進んでいるとは聞いていません」と北村氏。
武田薬品広報室の説明である。
「昨年10月に、厚生労働省からワクチン製造が可能か否かの調査がございました。70年代を最後に製造しておりませんので、もはや技術も設備もございません。国から要請があれば、設備、技術面での問題を解決して可能な限り協力するつもりです」
それでも、生産要請を受けてから開発製造までに2年はかかり、天然痘ウイルスのバイオテロには間に合わない。北里研究所も、今年に入って厚生労働省から簡単な説明を一度受けたが、新たな施設、技術、採算性を考えれば難しいという。
世界で最も秀れたワクチン技術を有していても、国民を守れそうにはない日本。日本国民の生命を新たな時代の危険からどう守っていくのか、という国家としての戦略と責任が欠落しているからだ。何故こんなことになるのか。性善説に立つ余り、人間に対する理解能力を欠き、平和と安全は向こうから来ると思い込んできたからだ。人間の科学技術は天然痘ウイルスを撲滅し、ウイルスに勝った。しかし、人間の心はウイルスに敗れた。
ウイルスはラテン語で毒という意味である。人間の心は毒の誘いに敗れたのだ。そうした人間と人間のつくる国家の“悪”を踏まえなければ、国民を守ることなど不可能だ。日本人よ、日本政府よ、もっと大人になって危機管理せよ。