「 私益に走る官僚に国家はありや 」
『週刊新潮』 2002年3月21日号
日本ルネッサンス 第11回
「ここ数年の外務省は異常でした。非常に憂うべき状況が次から次へと生まれ、このままでは日本はロシア政策を完全に踏み外し、将来に禍根を残すと考えたのです」
こう語るのは、杏林大学教授の田久保忠衛氏である。田久保氏ら外交問題専門家10名が、「対露政策を考える会」を結成し、「対露政策に関する緊急アピール」を出したのは昨年6月だった。10名の中には、長年対露関係で重要な役割を担ってきた故・末次一郎氏を座長に、袴田茂樹青山学院大教授、田中明彦東大教授、伊藤憲一青山学院大教授、外交評論家の澤英武氏らが名前を連ねていた。
同アピールは、日本の対露外交が「世論ともこれまでの国の基本的立場とも異なる2島先行返還」を前面に押し出し、対露外交の帰趨(きすう)を左右しかねない状況に陥っていると指摘した。「1993年の東京宣言で合意した『4島の帰属問題を解決して平和条約を締結する』という従来の対露基本政策を日本が転換し、1956年の日ソ共同宣言を出発点にして新たな妥協点を探っているかのごときシグナルがロシア側に送られる結果となった」と分析し、2島先行返還論は「数十年にわたる平和条約交渉やこれを支持してきた世論も全て否定する」と厳しく批判した内容だった。
外務省中枢部に近い人物が語った。
「昨年3月には『日本外交をダメにした戦犯達』という怪文書が出回りました。内容は正確で、『戦犯』と明記されたのが現在責任を問われている、鈴木宗男、東郷和彦、佐藤優、前島陽、中野潤也らの各氏です」
「怪文書」には、鈴木氏の専横と外交の私物化、東郷、佐藤両氏の鈴木氏への忠誠ぶりが具体的に綴られている。外務省内の心ある官僚(達)が書いたと思われる「怪文書」の配布から1年が過ぎた今、各紙、各局の報道は、あの「怪文書」の内容が正しかったことを裏付けている。
3月11日には、「戦犯」とされた鈴木氏が証人喚問された。日本外交を食い物にした鈴木氏の“罪”と、鈴木氏に操られ従わされていく形を取りながら、実は逆に鈴木氏を利用して自己利益を図った官僚たちの“罪”は、表裏一体、彼らは同犯である。
より長いスパンで考えれば、国益を忘れた官僚の罪は鈴木氏のそれよりもむしろ重い。なぜなら今回の事件により、鈴木氏の政治生命は断たれていくと予想されるが、官僚の仕組んだ日本の国益を損なう外交は今後長く残るからだ。官僚が国益を置き去りにし、私益に走った時に、どのように外国に付け込まれていくか。北方領土の例で見てみよう。
川口順子外相が発表した外務省の実態調査は、鈴木氏が97年9月に北海道・沖縄開発庁長官に就任した頃から同議員の北方4島住民支援への関与が深まったと分析した。鶏か卵か。2島先行返還論を掲げる鈴木氏を歓迎する風土は、それ以前から外務省内にあった。
鈴木氏が先のポストに就く直前の97年夏、橋本龍太郎首相(当時)が経済同友会で講演し、「(領土問題について)勝者も敗者も無い解決」を目指すと述べたのだ。
ソ連の北方4島の占領は国際法違反であり、「勝者も敗者も無い解決」の次元で考えるべきものではなく、日本が返還要求するのは国際法上も正しく真っ当な要求なのだ。なぜ橋本氏はこんな発言をしたのか。氏にぴったりと寄り添っていたのが丹波實外務審議官(当時)である。丹波氏ら官僚たちが、日本のロシア外交を変えていったのだ。
譲歩に次ぐ譲歩
それ以前は、先の緊急アピールにあったように日本は4島一括返還を求め、平和条約締結は領土返還と一体との立場を取ってきた。揺るがない日本に接近したのはソ連の方だった。まず56年、深まる冷戦の中でソ連は日本取り込み戦略の一環として、国交樹立を持ちかけ、鳩山一郎首相を迎え、2島の返還を明言した。
73年には米中接近で、ソ連孤立を避けるために日本に接近し、田中角栄首相の訪ソにつながった。この時ソ連は北方領土問題が2島でなく4島であると認めた。次の接近は90年代だ。ソ連崩壊でロシアとなり、経済的支援獲得が必要だったからだ。
だからこそ90年代後半は、日本はただ、ロシア側のより一層の譲歩を待つだけで良かった。にも拘わらず、橋本・丹波組は逆に大幅に譲歩した。その最初の明確なサインが先の経済同友会での演説である。それから数ヵ月後の97年9月、橋本氏は内閣改造で鈴木氏を北海道・沖縄開発庁長官に任命、11月にクラスノヤルスクでエリツィン大統領との首脳会談に臨んだ。この時エリツィンは、2000年末までの平和条約締結を提言した。
そこには橋本首相に付き従う満面の笑みの丹波氏の姿があった。だが、2000年末までの平和条約締結が領土返還と一体であるとの保証はどこにも無かった。にも拘わらず、丹波審議官らは突っ走り、領土返還の目処もつかないまま、ロシアに援助を与えた。以来今日までロシアへの援助は70億ドル、約9,000億円に上る。
翌年4月にエリツィン大統領が来日し、静岡県川奈で会談した橋本首相は、領土問題と言うべきところを国境線画定と言い換えた。戦争による不法占拠という意味合いの「領土問題」を、よりニュートラルな「国境線画定」に変えたいというのはまさに長年のロシアの意向だった。外交用語の変化にも、丹波氏率いるロシアスクールがロシア側に取り入り、功を焦る気持ちが透視される。
川奈会談から3ヵ月後、橋本氏は退き小渕恵三内閣が出来た。小渕首相は98年12月に訪露、迎えたエリツィンは川奈会談までの流れについて「受け容れることは出来ない。代わりに新たに国境画定委員会を作ろう」と言い始めた。援助のみ受け取り、領土返還は拒否するということだ。国境画定委員会は、クラスノヤルスク合意の失敗を取り繕うための日本の外務官僚たちの苦肉の策だ。
翌99年には、東郷和彦氏が欧亜局長となり、背信の動きはよりあからさまになっていく。個人の功を焦る余り、ロシアへの譲歩が前面に立つ。
小渕首相の後の森喜朗政権では、日本の立場は譲歩を通り越して惨めである。2000年12月、鈴木氏は個人の資格で訪露したにも拘わらず、森総理の親書を携行した。プーチン政権のイワノフ安全保障会議議長に親書を渡し、2島先行返還論を明確に伝えた。
4島一括でなく2島を先に返してもらい、残り2島は交渉するとの主張は一見、現実的に見える。だが、ロシア側はどうか。関係者の発言からは、領土返還をちらつかせながら、交渉のプロセスの中で援助さえ取れれば良いとの考えが見えてくる。こんな時、2島先行返還論を唱えるのは、日本への背信なのだ。当時、鈴木氏に同行したのは東郷欧亜局長と、佐藤優主任分析官である。
どの官僚も、自分を取り立て出世させてくれる政治家の意向に沿う為に外交を犠牲にしてきた。この混乱の中で、領土も戻らず日本の国益が損なわれていく。一方、領土を返そうとしないロシアへの日本国民の不信と反発も強まっていく。自国の国益を考えない官僚集団は、自国のみならず他国の為にもならない。国を愛する心を欠く官僚は、どの国の役にも立たないのである。