「 ゆとりをやめて勉強せよ 」
『週刊新潮』 2002年3月7日号
日本ルネッサンス 第9回
遠山敦子文部科学相がゆとりよりも学力重視をうたった学びのすすめを打ち出して頑張っている。遠山文科相の諮問機関、中央教育審議会も、これまた、2月21日に教養重視の答申を出した。
他方、4月から強化されるゆとり教育で、授業の総時間は3割も減る。教育は悪評紛々の新学習指導要領に沿ってどう変わるのか。
たとえば、21世紀のキーワードのひとつである遺伝子は学ばなくなる。イオンの項目も小数点以下2桁の掛け算はなし、地理ではオーストラリアなど3カ国しか教えてもらえず、歴史は日本史軽視で世界史に傾く。
日本の教科書は今でも他国の教科書に較べて薄いのだが、これからもっと薄くなる。少ししか教えてもらえない日本の子どもたちは国際競争の中で差をつけられ落ちこぼれ組となっていき、日本国内では公立と私立の格差がさらに広がる。
私立の品川女子学院副校長の漆紫穂子氏が語った。
「小中高12年間の授業時間を新指導要領で比較すると、公立の学校だけに行くと8.4年間しか勉強しない計算になります。私立の生徒は約4年分多く勉強するわけでこの差は大きいです。わが校では土日も授業をし、クラブ活動もしますが、公立では土曜日が休みになり勉強だけでなく部活も成立しなくなりつつあります。仲間、先輩後輩との人間関係が生徒にとってますます築きにくい環境に公教育は陥っているのです」
新指導要領の下で公立学校の中身は果てしなくやせ細っていく。こんな方針に不安を抱かない大人はいないだろう。だからこそ、遠山氏も学力向上をアピールし、放課後や始業前の時間に補習せよ、宿題を出せ、勉強させよ、本を読ませよと細かく注文をつけたのだ。中教審の答申も「基本と基礎」が大事と考え、家庭生活での規律としつけ、読み・書き・計算の基礎づくり、道徳教育などを重視した。
遠山文科相の提言も中教審の答申も極めて正しい。が、問題はどう実行するかである。なんと言っても文科省の教育政策は提言とは正反対の極にあり、子どもたちに勉強はしなくてよい、宿題は出さない、自由にせよと言っているのであるから。
米国もかつて、学力低下、校内の不祥事、少年犯罪の増加などに苦しんだ。が、いま、見事に立ち直った。いかにしてそれは可能だったか。
元愛知県立高等学校長の加藤十八氏が語る。氏は1973年以来、米国の200以上の学校を訪ね学校崩壊と立て直しをつぶさに見てきた。
「米国には伝統的に『隠れたカリキュラム』という考えがありました。ピューリタン精神を教育の基本とする考えで、子どもは既存の秩序にすぐ慣れ、それを習慣として受け容れ従うことができるという考えです。この考えを打ち出した教育省長官のW・ハリスの名をとってハリスの教育指導政策と呼ばれていますが、具体的には時間厳守、規則遵守、静粛、尊敬、規律などを日常生活に定着させていくことが自ずとひとつの価値観を育て、それが全ての基礎を作っていくという考えでもあります」
だが米国は、この伝統的な教育哲学から離れ、子ども中心主義、管理教育の否定に走り、教育現場が混乱していった。加藤氏は語る。
「70年代の非管理教育の失敗のツケは大きく、その後80年代にも学校は立ち直れず、90年代になってようやく立て直すことが出来たのです」
もっと学ぼう
教育荒廃の流れを変えたのはレーガン大統領だった。教育の惨状をみて、レーガンは1983年大胆な教育改革政策、「危機に立つ国家」を発表した。当時日本では、この新政策を“保守への回帰”として否定的に受けとめる傾向が強かったが、同大統領が訴えたのは、教室に祈りと聖書をとり戻すこと、日本に学び、子どもたちを学ばせることだった。
財政と貿易の双子の赤字に苦しんでいた米国は、バブルの勢いで伸び続ける日本の経済を見て、日本の教育こそが力の源泉だと考えたのだ。この時期が、米国が規律を重視し、詰め込み教育へと反転し、日本がいよいよ中身のうすい規律なきゆとり教育に突き進んだ皮肉な時期だった。
レーガンの教育政策はブッシュ、クリントン両大統領によってさらに強化された。共和・民主の両政党は、教育に関しては同一歩調をとったのだ。共通の言葉は「もっと学ぼう」だった。
竹中平蔵氏は子どもさんを小、中、高と米国で学ばせた。
「娘が学校で学ぶ米国史の本は一抱えもある大部の厚さでした。私が読んでも非常に面白く、興味をもたせるように工夫していました。それにしても大変な量の本を子どもに読ませるのです。米国社会全体が子どもに『もっとやれ』と促すもので、『無理してやらなくてもいい』とする日本とは、全く異質でした」
米国政府は基礎としての英語、数学、科学、歴史、地理の5科目を重視し、全国一律で学力テストを実施、任意ながら結果を公開する。必然的に学校の平均値が明らかになり、親も子どもも学校選びの参考とする。
ブッシュ現大統領は、テキサス州知事時代、教育バウチャー制度をとり入れ各家庭に教育補助金を与えた。その結果、低所得者も、より良い私立学校に子どもを通わせることが可能になった。水準の高い学校こそが選ばれることになったのだ。教育に競争の原理が持ち込まれた結果、テキサスの学力水準は全米最低グループからトップ水準へと浮上した。
学力充実政策と同時進行で実施されたのが、非行と犯罪の追放だった。加藤氏が語る。
「ゼロトレランス、寛容なき指導が学校で実施されたのです。麻薬、アルコール、暴力、苛め、教師への反抗などに、直ちに厳罰か、放校で対処したのです。ワシントン州の高校では90年に200件発生していた殺人を含む事件が、これで92年にはわずか2~3件に激減しました」
放校された生徒は受け皿校としての「代替校」に行き専門家の助力で個別指導が行われ、徹底した自己責任の原則を教え込まれる。本人が立ち直り学んだと認められれば元の学校に戻ることも出来る仕組みだ。
米国はこうして教育を立て直した。これを日本にあてはめれば、新学習指導要領の撤廃が必要だということだ。1980年に「ゆとり」に基づいた指導要領が実施されて以来、学力低下現象は誰の目にも明らかになり、1年前、政府はようやく政策を少しばかり転換した。ゆとりのためには指導要領以上のことを教えてはならないとの立場を、指導要領に定められた内容は子どもが学ぶべき「最低水準」としたのだ。遠山文科相の提唱した宿題や朝の読書、放課後の勉強はこの線上にある。
しかし、教科書は、指導要領に定められた教育内容の“上限”を固く守る内容になっており、この教科書を使う限りにおいては、より充実した内容を教えるには現場の教師の自発的努力だけが頼りである。
学びの楽しさを子どもたちに伝え、学びを国づくりの基礎と位置づけた遠山氏の提案や中教審の答申を実現させるためにも、まず悪名高い新学習指導要領を撤廃することだ。加えて、教科書は自由裁量とし、先人の築いた文化と伝統をしっかり伝える教材を提供すべきだ。